4:オーラ、オーロラ、火鼠の衣
本編連載時系列から20年弱先のお話です。
「ジーノ」はかつて魔法士としてノワールにちょっかい出してたフラムグラスさんの逃亡後のお名前です。
山ン本九郎左衛門と神ン野悪十郎は地獄の獄卒を統べる二大魔王だ。
鬼達は冥府から委託を受ける形で獄卒として地獄に落ちた亡者の責苦を担っている。遥か昔に結ばれた約定は、鬼達と冥府が互いに対等と認めた上で締結されたものである。
故に九郎と悪十郎にとって、冥府の役人たちというのは同等、いやほとんどのものは己たち以下の実力と見做している。事実、異能者がその生を終えて任務に着く死神や一定の資格を満たす人間が任務に就く鬼狩りは、その辺の人間よりは遥かに強いものの、魔王である彼らの敵たりうるものはあまりいない。局長級になればかなりいいところまで戦えるかも知れないが、それ以外は彼らが恐れるべき対象ではない。
だが。
冥府の官吏は、彼だけは別だ。
かつては人間でありながら冥府と人界を往復し、死した後は冥王直下の部下として千年を超える時を過ごしている。鬼たちをしても決して短くない時を、輪廻の輪を外れ、人の姿のまま人をやめて過ごしている、冥界の門の守護者にして裁定者。
あの人外だけは、冥王を除いて──否、ある意味では冥王よりも空恐ろしさを感じるのだ。
圧倒的に敵わない、と言わせる力があるのかは実際には不明だ。彼らが刃を交わしたことがあるわけではない。そして実しやかに語られる噂として、浄土管理室の元室長──かの怪物には敵わないだろうとされていた。冥府で唯一無二の実力者として認められているわけでは、決してない。
なのに、──恐ろしい。
その身に宿す力の異質さも、穏やかな笑みを浮かべている一方で常に喉元に刃を突きつけられるような底知れなさも。悪十郎ですら、あの笑みには得体の知れない恐怖を感じる瞬間がある。
そんな冥官が基本一人で任務をこなしていたのは周知の事実だ。人鬼を狩ることがほとんどで、ごく稀に堕ちた神の処理や、裁定者として門の向こうに魂を送り届ける任務をしている。鬼としては最後の案件くらいしか関わることもなく、何かよくわからない仕事をしている元人間、という認識でいる鬼も少なくない。
狐と人の合いの子である安倍晴明という術者が、直轄の部下として選ばれた時には少し話題になった。妖狐と神の血が入っているだけあって人外の術すら扱う彼は、確かに冥官の部下たりうる存在だが、冥官のように恐れられることはあまりない。むしろ前鬼後鬼を連れてちょいちょい飲みに出かけている姿が目撃……どころか鬼たちと飲み比べ潰れている様まで目撃されており、かなり親しみやすい印象を持たれている。
そしてその後、彼の直轄の部下は増えることはなかった。鬼狩りも人鬼も減少の一途を辿っており、冥官の業務も縮小しているからまあ当然か、と鬼たちは思っていたのだ。
しかし、20年前にそれは覆される。
彼が「後継者」と公言してやまない人材が、久々に冥官の直轄の部下として選ばれたことは、冥府にも地獄にもかなりの驚きだった。
……冥官が当時屈指の問題児を引き連れて仕事に行ったと思いきや、ズタボロになった少年を引きずって鬼狩り局に乗り込み、碌に動けない状態から更に訓練と称して血溜まりに沈ませ、その上で「俺の後継者だ」と言ってのけた当の事件は、冥府内どころか地獄の鬼たちも「え、冥官ってあんなに鬼畜だったっけ」とドン引きし、しばらく話の肴になったが、それはそれとして。
経緯のせいで奇妙な注目を浴びたその少年──疾は、もう一人の部下とは似ても似つかぬ苛烈な性格の持ち主だった。入って一年以内に鬼狩りの序列をひっくり返すなどなかなか派手な事件も起きたものだが、それでも「非常識」という枠の中にいた。鬼狩りとしてはずば抜けた能力を持ち合わせていたが、冥官に地獄へ放り込まれ、獄卒達にボコボコにされている様からは、彼らの脅威にはなりうるはずがなかった。むしろ、鬼達の間では、なぜ冥官は彼に限ってあんなに身の丈に合わない追い詰め方をするのだろうと不思議に思われていたほどだ。
その程度の存在の──はず、だった。
***
「おや、今日集まったのは君達二鬼だけかい?」
「うむ」
「すまんね冥官、どうにも都合がつかなかったみたいだ」
「いや、君たちが真剣に職務に向き合っているということだから何よりだよ。だったらまあ、今日は二体一で行こうか」
「……」
その言葉に無言で冥官を睨む疾は、すでに年齢で言えば三十代後半、身体能力は既に下り坂を迎えている。やや細身の長身はよく鍛えられてはいるが、瀧宮梓のような武人としてのオーラはない。かといってその体に宿る魔力は鬼から見れば鼻で笑ってしまう程微々たるもので、術者としての才能も感じない。
なのに。
冥官に無言で圧を当てていた疾は、しかし揺るがぬ笑顔に諦めたような嘆息を漏らし、視線を悪十郎達に戻した。僅かな苛立ちを滲ませていた琥珀色の瞳が伏せられ、次に持ち上げられた時には、ひどく無機質なものになっていた。
「……っ」
無意識に下がりそうになる足を堪えて、悪十郎は携えていた釘バットを構えた。傍にいた九郎も、脇差をスラリと抜き放つ。鬼気を叩きつけるように相手を威嚇する。
疾は僅かに重心を落とし、軽く四肢の関節を曲げる。余計な力を抜き自由な初動を目的とするその形は、模範的な構えだ。両手に握る二丁の黒塗り銃の銃口が悪十郎達に向けられる。
銃に込められた力も、その身体を巡る身体強化魔術も、人間にしては優れているが、それだけ。数多の鬼を従える彼らにとって、敵たり得るようには見えない。
そのはずなのに──悪十郎は、どうしてもこの男に勝てる気がしない。
駆り立てられるように、九郎が雄叫びを上げて動く。一瞬で間合いを潰して銃を封じようとするも、一歩目を踏み出そうとした足元に銃弾が突き刺さった。地面が割れ、九郎が僅かに体勢を崩す。再び銃声が響き、飛び出した鎖が九郎の足に巻き付いた。
「ぬん!」
九郎はすぐさま力づくで拘束を引きちぎるが、その間に間合いを詰めた疾が刀の間合いより内側に滑り込む。掌が鳩尾に添えられた。
ドンっと鈍い音が響き、九郎の体が吹き飛ぶ。もちろんこの程度ではさほど大きなダメージは喰らわない。九郎はすぐに身を捩って着地の体勢を整えているが、かなりの間合いを取り直された。
「おぉらあ!」
その隙を埋めるように悪十郎は仕掛ける。振り上げた釘バットを振り下ろさんと力を込めた瞬間に銃弾が直撃する。勢いを逸らされた釘バットは宙を切り、体が少し泳ぐ。
そこに、投げ付けられた魔道具が炸裂する。
局所的に発生した超重力の影響を受け、悪十郎の体が地面に沈む。そこに迷わず踏み込んだ疾が、悪十郎の頭を踏み抜くと同時に超重力から解放された。反動で高々と飛び上がった疾の残像とついでに悪十郎の頭髪を、九郎の斬撃が真っ二つにする。
「あっぶな!? 九郎サン同士討ちはやめてほしいっすよ!」
思わず叫んだ悪十郎はスルーし、九郎が返す刀で落下中の疾へと斬りつける。が、空中で足場を作った疾は既に離脱しており、足場だけが虚しく切り裂かれた。
とん、と軽い音を立てて疾が着地する。息一つ切らさず、変わらぬ無機質な瞳が九郎と悪十郎を捉えた。無意識に唾を飲み込む音が二つ重なる。
「っ、この」
自らを奮い立たせて一歩踏み出した悪十郎は、そこで失態に気づく。
悪十郎と九郎と疾の位置取りが、直線等間隔になっていた。
「マズっ」
咄嗟に足に力を込めたが、すでに疾は足元に銃口を向けて引き金を引いていた。
オーロラ光のような多色の閃光が悪十郎の網膜を焼く。かろうじて体幹は斜線上からずらした悪十郎だったが、それでも光を浴びた両足と左腕が動かなくなった。
「ぐおぉ!?」
まして九郎は初動が遅れたために全身に光を浴びてしまい、硬直した身体がその場に倒れ伏す。追撃とばかりに雷撃が九郎を撃ち抜いた。
「ぐっ……!」
感覚のない足を無理やり動かし、悪十郎は一度距離を取ろうと地面を蹴る。が、次の瞬間それすらも掌の上と悟った。
中途半端に浮いた悪十郎の身体に、神気を宿した炎がまとわりつく。身体を焼き尽くそうとする熱に奥歯を噛み砕きながら、悪十郎は最後の足掻きで釘バットを投げつけた。
銃声。
銃弾により軌道を変えられた釘バットは、同じく最後の足掻きで振るわれた斬撃の軌跡上に放り出され、壁となって地面へ落ちた。
「──そこまで」
柏手一つで、全ての魔術が消え去る。
それと同時に、悪十郎の背中にまとわりつくようだった冷えた嫌な感覚も消え失せた。
「うーん、疾は相変わらず戦ったことのある相手だと、最短距離で詰めにかかるなあ」
「こちとらいつまでも長期戦が出来る程若くないんでな」
「おや、そんなことを言う歳になったか」
「……」
ほけほけとした声とやや不機嫌そうな低い声が会話を交わす間に、悪十郎達はなんとか起き上がるまでに回復した。顔を上げると、疾が冥官に何やら文句を言っては柳に風と流されているようだ。苛立たしげに冥官を睨む琥珀の瞳に、先ほどまでの無機質な色はどこにも残っていない。
疾の不満を全てスルーした冥官が、九郎と悪十郎に視線を移す。
「大丈夫かい?」
「……おう」
「……うむ」
悪十郎と九郎が鈍く返すと、冥官はニコリと笑ってまた軽く手を打った。
「それじゃあ今日はここまでな。せっかくだ、お前達もたまには人里で飲みに行っておいで」
「はあ?」
疾が胡乱げな声を遠慮なくあげた。あからさまな「何言ってんだコイツ」という眼差しにも怯むことなく、九郎へと顔を向ける。
「君たちもそろそろ休暇の時期だろう? 月波あたりで遊んでくるといい。はいこれ、軍資金だ」
「おっ、太っ腹ジャン。あざまーす」
「うむ、お膳立てされたならば行くとしよう」
「……あっそ」
呆れた眼差しを向けたあと背を向けて帰ろうとする疾に、悪十郎はニヤリと笑ってがしりと肩を組んだ。振り解こうとするが、鬼の膂力全開で抑え込む。
「マアマア、せっかく金もあるんだし行きましょーよ、ね」
「いらねえ、てめえらだけで行ってこい。つーか離せ」
「よし九郎サン、反対側任せた」
「うむ、任された!」
「巫山戯んなてめえら、腕を離せ引っ張るな、おい!」
***
疾を力づくで月波市の飲屋街に連れ込んだ悪十郎と九郎は、そこで失念していた問題にぶち当たる。
「……そーいや九郎サンのせいで出禁ばっかじゃね、この辺」
「……む」
「てめえら無計画も大概にしろ……」
呼び込みのスタッフからさえ向けられる警戒の眼差しに、九郎と悪十郎が顔を見合わせた。二人に疾の凍りつくような眼差しが突き刺さる。
「ンー、ちょっと待ってろ、今裏技を考えッから」
「そこまでして飲まなくていいだろ別に」
「否、せっかくの冥官殿のお心遣いだ。無碍にはせぬ」
「あの野郎が心遣いなんざ言ったところで──」
「あ」
唐突に聞こえた知り合いの声に、悪十郎が反射的に目を向けた。
「お、ジーノじゃん。元気してっかー?」
薄紫の長い髪を一つに結えた元魔法士の友人が、九郎達の方を見てなぜか硬直している。ひとまず声をかけると、ギクシャクと動き出した。
「……えぇ、たった今のいままで元気でしたけども。えっと、どういう集まりですか……?」
「ンー?」
何やら妙な態度のジーノに、悪十郎は首を傾げた。視線が向く先を辿ると、疾が見たことのない迫力のある笑みを浮かべている。
「──久々だな、小悪党。随分と見窄らしくなったもんだ」
「……はは。貴方は相変わらずのようですね……人間らしく歳をとっているのが不自然なくらいですよ」
「てめえらの古巣のように、人間やめることがステイタスみたいなカスの発想は持ち合わせていねえからな」
「身内に大ブーメラン行きませんかそれ?」
「あいつの場合はほぼ成り行きだろ」
「身内にまで手厳しい……まあ確かに、なるべくしてなったという感じはありますが」
言葉の端々に多分なトゲを盛大に含みながらのやり取りに、悪十郎はとりあえず過去に何かしらの因縁があったらしいことだけは察した。
「ふむ。過去は酒に流すに限るな!」
そして同じようになんとなく察したらしい九郎は、ある意味では最高に空気を読んだ発言をした。疾が思い切り白けた顔になる。
「それを言うなら水に流すだろ」
「細かいことを気にしても仕方あるまい! ジーノよ、我らは今から軍資金で飲みに行くがお前もどうだ」
「えっこの流れで誘われるんですか僕……」
「エー、いンじゃね? せっかく久々なんだしサ」
悪十郎も便乗して誘うと、ジーノが少し迷った顔をした。疾が目を細める。
「……帰っていいか」
「いやいや意味ねージャン」
「金足りねえだろどう考えても」
「ンー、じゃあ不足分はジーノ出してくれる?」
「はあ、まあそれはいいですけど……」
「よっし決まり! じゃあジーノの顔パスの店でヨロシク!」
「あっこれ九郎さんで出禁喰らわないための要員ですか僕!?」
***
「「「かんぱーい!」」」
「……」
個室式の、少し落ち着いた雰囲気の居酒屋。
気前よくジョッキをぶつける3人と、無言でグラスを一息に空にする1人で飲み会が始まった。
「エー乾杯くらいしよーぜー?」
「文化の違いでグラスを合わせての乾杯に抵抗がある」
「……まあ僕も元はそうでしたけど、流石にもう慣れましたよ……?」
悪十郎とジーノのツッコミにも気にせず、ボトルからグラスへお代わりを注ぎながら疾はそっけなく答える。
「んなもんそれぞれの勝手だろ」
「表の仕事もやってるって聞いたんですけど、よくそれで日本のビジネスやっていけますねぇ……」
「きょうび酒の場必須の仕事も減ってきたし、そういう事に口うるさいところとは基本契約取らねえよ。面倒くせえ」
「うーん、僕はめちゃくちゃ酒の席呼ばれるけどなあ……職種の違いですかね」
酒が入って気が大きくなったのか、ジーノは初対面の時よりは疾へ遠慮なく話しかけていた。疾も愛想はないが回答はしている。これならまあ大丈夫だろと判断して、悪十郎はジョッキに残った酒を一気に煽った。
「クーっ、汗かいた後のビールは効くねえ。俺次何にしよっかなー。ワインも良さげだけど美味い?」
「まあまあ良いもの置いてるようだ。注文するなら俺も白一本追加してくれ」
「我は日本酒だ!」
「九郎サンいつもそうじゃないスか……ジーノはどうする?」
「僕は最近焼酎にハマってまして、水割りにします」
わいわい言いながら次の酒を頼む。入れ替わりのようにコース料理が運ばれてきたので、めいめい食べたいものに好き勝手に手を伸ばす。
「ジーノは仕事まだしてんの?」
「していますよ、妹もね。まあでも、そろそろ引退時期も考えなきゃいけないなあ、とは思い始めましたけど」
「……はえーなあ」
この辺りは、悪十郎も人と人外の違いを実感する。少し感傷に浸っていると、焼き鳥を片手に九郎が口をひらく。
「ふむ。しかし正しく引き際を見極めた人間の姿もまた美しいからな。悪役も散り際が美しいのと同じである!」
「悪役と同じですか僕」
「小悪党には違いねえだろ」
ジーノのツッコミを疾が鼻で笑う。ジーノが少し口の端を引き攣らせた。
「その小悪党ってなんとかなりません……?」
「的確だと思っているが」
「貴方のこと今度から性悪って呼びますよ?」
「ひねりも何もないありふれた呼びざまだな、聞き飽きた」
「性悪が聞き飽きるってどうなんですかねぇ……」
ジーノの目が少し虚になったので、悪十郎は助け舟を出す。
「最近の仕事はどんなよ?」
「直近では、羽黒さんからの依頼で火鼠の衣を探しに行きました。いやー、なんで火山の火口に放り投げられてたんでしょうね……焼け死にますよ普通」
「羽黒サン相変わらず無茶振りしてんナァ」
「依頼なんだろうが、なんでそんなもん……あの一家に一番いらなさそうな代物だが」
微妙な顔をして疾が呟くが、確かにその通りではある。火なんか誰も効かないだろう、あの一家。
「つーか、それ今日オレが欲しかったカモ」
「へ?」
「うむ、確かにな」
「別の手を使うだけだな」
悪十郎を焼いた神気を含む炎を思い出してそう言うも、疾は鼻で笑っている。そもそも冥府に関わりの深い彼が神気を扱えることがもう理解不能なのだが、その辺は突っ込んでも答えは返ってこないだろう。
「そういえば、一時期貴方の体調不良がまことしやかに囁かれていましたけど」
ふと思い出したようにジーノが疾に問いかける。疾は胡乱げに眉を寄せた。
「……劍龍の件なら、ぶっ倒れてねえ奴がそもそもいねえだろ。ノワールですら一時昏倒だぞ」
「それ聞いた時、僕なんでこの世界無事なんだろうって思いました……」
「その一年後の回収作業後なら、心当たりがあるとも。なあお前ら」
不意に笑顔で──しかし目は全く笑っていない──九郎と悪十郎に視線が向けられて、咄嗟に顔を思い切り背けた。ジーノが固まる。
「いやァ俺ら魔女さんのお手伝いしてたから……なぁ九郎サン」
「う、うむ」
「ほお、なら俺は依頼で異世界に行っていただけか。そうだな、依頼を終えてから満身創痍だっただけだな」
「はは……」
「う、うむ……」
瀧宮羽黒の復活と、鬼狩りの足止め目的である瀧宮梓の襲撃。冥府にとっても決して小さくない事件の時、「たまたま」異世界に行って不在だった疾は、戻るなりそれはそれは楽しそうな笑顔の冥官に連れ去られた。そして──
そこまでで悪十郎は脳内の回想を力づくで止めるべく、ワインを瓶ごと一気飲みした。
あの時のことは思い出したくない。それこそ20年前、疾が鬼狩りに任命された時以上の大惨事だったことを、地獄にいる鬼たちは全員知っている。記憶は全力で消滅させた。地獄の責苦を行う獄卒達が記憶から消すくらいには、あの時の冥官は人でなしだった。
3人のただならぬ様子に何事かを察したらしいジーノが、慌てた様子で口を開いた。
「いえあの、僕が聞きたかったのは別件です……! ほら、もう少し前の、貴方の依頼受諾が一時期ガクンと減ったとかなんとか」
ジーノがさらに突っ込むと、疾は少し考えるように視線を落とす。反応から心当たりがないのかと思いながら、悪十郎はちょっと水を飲んだ。
「……5年以上前の話なら、代替わりで外の仕事受ける暇がなかった時期か?」
「あー、時期は一致してます。なるほど、そういう事情でしたか」
納得したように頷いたジーノが、焼酎用のグラスに氷を追加する。疾は肩をすくめた。
「どうにも脳内お花畑の連中っていうのは1匹見たら30匹以上はいるらしい。あの街の地脈を手に入れる機会だの、家ごとこちらを潰す絶好の機会だのと意味わからん盛り上がりを見せた阿呆連中が想像以上に多かった」
「多数の魔術師を抱えていた機関、特にきな臭かった所が軒並み潰された混乱で、あちこち浮き足立ってたという事情も大きいと思いますがねぇ……何せ一世界の異能者丸ごと、魔法が使えなくなった上で路頭に迷ったんですから」
「はっ、ご苦労なこった」
「わあ……貴方って人は本当に……」
ジーノが思い切り顔を引き攣らせている。よくわからんが冥官と話してる時より生き生きしているナア、と思いつつ、悪十郎は追加の酒を注文すべく店員を呼んだ。
「おねーさん、白ワイングラスで一つ」
「日本酒を一合、熱燗で頼む」
「赤ワインボトル一本」
「あの、貴方さっきから注文単位が瓶で、地味に怖いんですけど……」
約二時間後。
あらかたの料理を食べ尽くし、残りの酒を片付けてる最中に悪十郎は疾に視線を向けた。
「いやー、酒つっよいナア。流石に俺も酔い回ったぞ?」
「てめえは途中から妖酒飲んでただろ」
「ジーノは普通の酒だったゼ」
「良い歳こいて何やってんだろうな……」
真っ赤な顔で突っ伏して眠るジーノを一瞥し、疾は呆れ顔をする。ワインを数瓶消費した後はウイスキーのロックに切り替えていたが、いまだに顔色ひとつ変わらないし呂律もしっかりしている。ペースすら落ちないせいで途中でジーノが解毒魔法を疑っていたが、はっきりと否定した。
水のように飲む彼のペースに釣られて、悪十郎も九郎も少々普段より酔っ払っている。九郎も赤ら顔で最後の徳利を空にして、流石に水へと切り替えていた。
飲み会後半特有の気だるさの中、悪十郎は酒の勢いも借りて、もう一歩踏み込んでみた。
「ンで、そちらさんは引退とか考えてんの?」
九郎がぐい呑みから顔を上げる。問いかけを投げかけられた本人は、ワイングラス片手に薄く笑った。
「さあ?」
「つれないこと言うなヨ。今後の人生プランどーなってんだっつーの、俺らの関心ごとでもあるんだぜ?」
「答える義理を感じないが?」
「ホラそこは俺らの業務調整もあるし」
「うむ。冥官殿は我らに完全移譲だったが、今後貴殿が引き継ぐ部分があるのかは大事なことだな!」
何も言わず、疾はジーノを一瞥した。眠っているのかを確認したのか、グラスに残っていたウイスキーを一息で空にする。
その時を境に、ほんの僅かに纏う気配が変わった。
「──生きている限りは、地獄に関わらない。これは契約で決まっている」
「え、そーなん?」
「同じく契約のせいで、引退も生きている限りはないがな。ただ、定例の見回り含めたほとんどの戦闘は……もう少しは続けるつもりだが、長くても10年のうちには手を引く」
そこで言葉を区切ると、ジーノに目を向けて軽く笑う。
「俺は真っ当に人間として年取ってるからな。魔力量の関係で、それこそこいつより衰えは早い」
「とてもそうは見えねえけどナア」
「少なくとも、もうてめえらと真正面から力比べをしようとは思わないな。体が壊れる」
当たり前に言い切った疾は、いつの間にかジーノを隔離するような結界を張っていた。聞かせる気はないらしい。
「俺は人として生きて、人として死ぬからな」
「……」
その言葉に込められたものに、九郎も悪十郎も押し黙った。
彼ら魔王級の鬼二体が萎縮するほどの何かを持つこの男は、切欠一つであの瀧宮羽黒たちのように人をやめてしまうことも出来るのだろう。だが、それを分かった上で敢えて選ばずにおり……これからも、選ぶ気がないということか。
「だから、人並みに衰えたら潔く引退だ。その後は悠々と老後……と言いたいが、表の仕事にメインを移す形だな」
「……なるほどね。なんか、チョイ惜しいなあ」
掴みどころのなく空恐ろしいこの男が今回初めて見せた一面がなんとなく気に入ってしまった悪十郎は、率直に口にしてから水を煽った。それを見て、疾は口元を軽く曲げた。
「ま……死後はうんざりするほどこき使われるのはほぼ確定だ。余生くらいのんびりしたってバチは当たらねえだろ」
「ほう、死後には鬼狩りをする心意気と。それはいいな、例の武人と貴様が肩を並べて戦う様が見られる!」
「あいつと現場に出たら前衛の仕事ねえだろうな……心意気というよりは、まあ……嫌でも働かされるだろうっつう諦めだな……」
疾の目が若干遠くを見た。その視線の先にこれまでの冥官の所業が見えた気がした悪十郎と九郎は、そっと目を逸らす。
「マアホラ……鬼狩りの人員も補充されるっちゅー話も出てるって聞いたし、少しは仕事減るんじゃネ?」
「うむ……」
「てめえら俺の目を見て同じ台詞吐いてみろ」
据わった声に、九郎も悪十郎も空笑いで誤魔化すことしかできなかった。
「ま、死後の鬼狩りは……若い頃のように、ガムシャラに回避しようとは思わなくなったが。とはいえあの野郎のように未来永劫はごめん被る」
「あー……そーいやアン人、いつまでやるんかね」
「うむ、確かに。今の局長たちもかなり長いが、あの御仁は我らから見ても異様に長いな」
ピッチャーでもらった水をカパカパ飲みながら、悪十郎と九郎も頷く。流石に千年超えた勤務となると、それこそ冥王のようにその役割のための存在ばかりになってくる。いつかは引退するんだろうか、その場合後継はどうするんだ……とまで考えたところでふと疾を見る。
……そういえば、冥官はあの時疾を自分の後継者と言っていたような気がする。
「ねえよ」
悪十郎の視線に気づいた疾がキッパリ言った。断固拒否の意思が滲み出た返事に苦笑いを浮かべかけたところで、疾は重ねて言う。
「あの野郎は口では俺を後継者だのと言うが、本気で引き継ぐ気はねえよ。──文字通りの未来永劫、世界が滅びるまで。あの野郎は、冥府の官吏だ」
「……」
「……」
何かを知っている口ぶりの疾に、鬼たちはしかし敢えて踏み込むのをやめた。彼らは長き時を鬼として生きてきたからこそ、知っているからだ。
人間の抱く情念は、地獄より底知れず深くて、極楽よりも広いのだ、と。
「──さて」
コン、とテーブルに瓶が置かれる。顔を上げると、疾が腰を上げるところだった。
「ひと足先に失礼する。そこの伸びてるのはあんたらに任せるぞ」
「ン……あァ、任された」
「うむ。時間を取りすぎたなら悪かった」
「全くだ、表の仕事でこのあと徹夜だこっちは」
「え、あンだけ飲んで仕事しちゃう? マジで……??」
少なくとも酒の強さだけはすでに人間を辞めているんじゃないのか。そう思ってしまった悪十郎だった。
***
「んん……ふわぁ。あれ、すみません。寝落ちてましたか」
「おー、起きたか。んじゃ帰ろうゼ」
「うむ、我らも酒が抜けてきたし頃合いである」
「すみませーん、お会計お願いしまーす」
「はーい、合計で6万9千円です」
「「「たっかあ!?」」」
「えっ飲み放題ですよね!?」
「あ、えっと、こちらのワインとウイスキーは飲み放題の対象外と最初にお伝えしていたかと……」
「あの人分かっててあれだけ注文したんですか!?」
「えっ普通に軍資金足りねえ、九郎サン金ある!?」
「貴様手持ちなしで来たのか!? 対象外のワインもかなり飲んでいたであろう!」
「あっこれ僕が不足分出すって言ったから、いいお酒頼みまくったやつですか!?」
「おっそうだったジャン、ジーノさんゴチです!」
「手持ち足りませんが!!???」
店員の冷たい視線に晒されながら、3人は財布の中身を空にすることでなんとか酒代を引っ張り出したのだった。