11:旅立ち、サングラス、コート
羽黒の威圧に当てられた疾の咳き込みは、予想以上に長く続いた。苦しそうな喘鳴が響く中、羽黒は震える身体を抱えたまま適当に背をさすった。
ようやく咳が散発的になり、呼吸を意識して深くしようと試みてはむせてを繰り返しながらも、疾は顔を上げて羽黒を睨みつける。青白い顔で眼だけは炯々と怒りを乗せて突き刺してくる様に羽黒は苦笑し、掌でその目を覆った。
「<眠れ>」
疾の体がガクンと重みを増す。脱力した小さな体を片腕で抱え直して、羽黒は溜息をついた。真奈に視線を向ける。
「これで良かったのか?」
「はい。ありがとうございます、オーナー」
「転生してまで大変だなあ」
羽黒が疾を見つけたのは、決して偶然ではない。
数度の転生もどきを繰り返す中で今回初めて、消息を完全に絶った。ノワールの探知魔法ですら探し出せずにいた疾の救出のために、真奈が一度転生して死神としての業務から外れてまで旅に出ていた羽黒を駆り出したのだ。
「……私も、与えられた仕事をちゃんと出来なかったので……私が、本気で動かないとどうにもならないと分かりました」
「お、おう……?」
真奈の笑顔には何やら妙な迫力があった。この任務は羽黒の想像以上にストレスになっているらしい。えもいわれぬ気迫にやや気押されながらも、羽黒は少し気になることがあって手招きした。
「それはそうと、ちょっと来てくれや」
「はい? ……わっ」
近寄ってきた真奈を空いた腕でひょいと持ち上げる。確認するように上下させてから、羽黒は真奈を解放した。
「もう随分とガキなんか抱えたことなかったからこんなもんかとも思ってたが、やっぱこいつ無茶苦茶軽いな」
「私、重り代わりですか……?」
微妙な顔をしつつ、真奈も羽黒の言葉に頷く。
「私はちょっと無理を押し通して疾さんの一つ上の年齢にしてもらったのですが、それにしても小さいですよね」
「しれっとすごいこと言ったな」
「オーナーが手に入れた出生届を見ても、やっぱり5歳なんですよね?」
「ああ。背も低いし、ろくなもん食ってねえのは間違いねえな」
本人すらまともに誕生日を把握していなかったので、里親申請のついでに確認したところ、推定通りの年齢で間違いはなかった。が、それにしてはひどく小柄だ。栄養失調の見本のような姿である。念の為もみじには昨日も今日も流動食まがいの消化に良いものを用意してもらっておいたが、しばらく続けた方が良さそうだ。
「本当に、あのゲス野郎は生きる価値なんてないです」
「紫ちゃんにしては過激……でもお手本のようなネグレクトですね……」
「それだけじゃねえみてえだがな」
「え?」
羽黒の言葉に引っかかった真奈が問い返す。羽黒はそれに直接は答えず、疾をひっくり返した。首元をひょいと引っ張り、真奈を手招く。
「どうしま──」
つられて覗き込んだ真奈は、言葉ごと息を飲み込んだ。
首筋から背中、腰近くまで広がる赤白い火傷の痕。そのほかにも古い引っ掻き傷やタバコの火傷痕が、あばら骨が浮く背中一面に広がっている。
「背中が特に傷が多いってことは、こいつも最低限の手当はしてたんだろう。手足も酷いが、こっちは手が回らない分この有様だ」
「酷い……」
「パパ、今からあの人でなしをミンチしにいきたいです」
「やめとけ」
軽薄な笑みを浮かべて羽黒は肩をすくめる。
「やるならそのうちこいつ自分で報復するだろ。獲物の横取りをしたら逆恨みされんぞ……ま、やらんだろうが」
「え?」
紫が戸惑い声を上げる。かつて紫が知る疾は、やられたら10倍返で済ませれば優しい方と言い切られる程度には苛烈な人物だ。これだけの目に遭わされて黙って引き下がるような性格では断じてないはずである。
だが、羽黒は真逆のことを口にし、真奈も複雑そうながら否定はしない。どういうことか分からず、困惑に顔色を曇らせた。
「えーと……どんな目にあっても父親だからとか、そういうのです?」
「そういう柄じゃねえだろ、こいつは。むしろ逆だな」
「逆?」
「こいつ多分、あれに何の関心も持ってねえわ」
そう言って、羽黒は疾を部屋へと運ぶべく歩き出した。
瞼を持ち上げた目と鼻の先に、じっと見つめる紫の目が飛び込んだ。
「っ!?」
あまりの近さに疾は思わず後ろへ飛び退いてしまい、しこたま後頭部をぶつけた。
「〜〜っ」
「だ、大丈夫です?」
「……っ、誰の、せいと、思ってやがる……!」
ぎっと睨みつけるも紫本人が良く分かっていない顔をしているのを見て、疾は大きくため息を吐き出した。
「……100歩譲って様子見に部屋に入ったとして、至近距離で覗き込んでいた理由はなんだ」
「えっと、なんとなく?」
「……。二度とやるな」
経験上、この手の答えに対して何を説いても伝わらない。疾はそれだけを言って体を起こした。時計に目をやると、ほぼ夜である。
「瀧宮羽黒は?」
「パパですか? パパなら──」
「よ、起きたか」
紫が答えるより先、張本人ががノックもせず部屋に入ってきた。何故か屋内だというのにかけていたサングラスを外して歩み寄ってくる羽黒に、疾は眦を釣り上げる。
「どういうつもりだ」
「あん? 何が」
「里親云々に決まってんだろ」
「ああ、それな。お前さんが寝てる間に、養子縁組まで済ませといたわ」
「は?」
疾が声を低くした。羽黒は構わず楽しげに笑っている。
「昔のコネは便利だぜえ?」
「何が狙いだ」
「だから面白そうだからっつったじゃん」
「……くっだんねえ。付き合ってられるか」
溜息をついてベッドから降りようとする疾を押し戻し、羽黒は軽薄の笑みを浮かべたまま問いかけた。
「あ、そ。お前さんとしてはこの状況に不満があるってわけか」
「一から十まで不服でしかねえわ。てめえの保護者ごっこに付き合うくらいならノワールの魔力に酔ってる方がよっぽどマシだ。つうかどけ」
「そうかそうか。──で、どうする?」
ずい、と。
羽黒が顔を疾に寄せる。少し顎を引いた疾を覗き込み、羽黒は笑う。
「なるほどお前が白銀家に保護されたくない、ノワールの元へ行きたいという主張は分かった。んで、どうやって?」
「っ」
「今のお前は、中身はともあれ5歳のガキだ。しかも両親は人でなしの虐待親、既にその事実は公的に認知されている。そしてその身柄を保護したのがこの俺だ」
「……っ」
疾が奥歯を鳴らす。その反応に、羽黒はニヤリと笑う。
「ああ、やっぱ知ってたんか。そうそう、俺らの時代の少子化が尾を引いて人口はドカンと減った。子供は文字通り宝として国を挙げて保護されるようになった。多少の反動も出たが、それでも被虐待児の保護はあの頃とは比にならんほど手厚い。お前さんには手厚すぎるかもなあ……身柄保証人の厳選と一度決まった上での絶対的優先権、安全確保義務なんてものがあるくらいだ」
「……てめえ、分かってて……!」
「はっはー。仮に今のお前が家出をしても、俺が電話一本かけるだけで公権力が総出でお前さんの捜索を始めるぞ。魔力もない、金もない、栄養失調の5歳児が国を相手にかくれんぼを成立なんかさせられねえだろ?」
軽薄に笑うその瞳の奥に残酷な色を浮かべて、羽黒は疾に事実を突きつける。
「まあ万が一かくれんぼが成立したとしよう。その先はどうする? どこぞの地下組織に見つかって碌な目に合わんか、それこそ自己申告通り妖の餌だ。あとはノワールに運良く保護されるのを待つばかりだが──」
そこであえて言葉を区切り、羽黒はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「──お前、魔力が微妙に変質してんな?」
「……!」
疾の顔が今度こそはっきりと歪む。
「だからノワールも真奈も冥府すら、見つけ出せなかった。正確な魔力探知をすり抜けちまってるわけだ。200年近く経って中途半端に記憶が曖昧になってたのが幸いして、俺らはなんとなく似てる、で見つけ出せたわけだ。が、ノワールはまだそれを知らん」
「っ、やっぱりわざとか……!」
出会ってからこちら、何度も要求したノワールとのコンタクトを有耶無耶に流されていた。その理由がこれかと、疾の声に羽黒は笑みを持って肯定した。
「当然俺はノワールへの連絡手段をお前に渡さない。真奈も同様だ。お前のことだ、通信手段はもっぱら魔術だったろ? それも今は使えないときた。まあ、そもそもだ」
と、羽黒はさらに疾に迫る。鼻先がつきそうな距離で、苦渋の表情で睨み返す疾に、あくまで軽薄に笑う。
「まず今のお前さんが、俺の──俺ともみじ、紫の目を掻い潜って旅立つことも、ノワールと連絡を取ることも、まあ出来るもんならやってみろや。いくらなんでも、まともに走れもしないガキ相手に出し抜かれるほど甘くなったつもりはねえぜ?」
「……クソが……!」
疾は言い返さない。言い返せない。羽黒が言葉にして突きつけただけで、この程度の事が分からないはずがない。羽黒が協力しない限り、今の疾には何も出来ない。
「手札も持たないお前さんに負ける気はねえが、寝込んでくれたおかげでスムーズに進んで助かったぞ」
何の備えもなく羽黒に保護された時点で、疾に選択権はないのだ。
ギラギラと怒りを宿し睨みつけてくる琥珀の瞳に満足げに笑い、羽黒は体を起こした。
「ま、当分はそのボロボロの体をどうにかすることからだな。お前さんが大人しくうちの子になれたら、ノワールに連絡してやるよ。それまでにあっちにも根回しさせてもらうがな」
「っ……!」
暗に、連絡を取れた後も引き渡しはしないと意思を示して。羽黒は楽しげに笑う。
「さてと。そうはいってもお前さんがそう簡単に納得いかないのは分かってる。よってここは自分が子供の体になったと思い知ってもらおうか──紫」
今まで無言でやり取りを見守っていた紫が、唐突な指名にビクッと肩を跳ねさせた。
「えっ。なんですかパパ?」
「許可する、こいつを風呂に入れてこい」
「えっいいんですか!?」
「!?」
声にならない叫びをあげた疾に吹き出しそうになるのを堪えて、羽黒は続けた。
「いいぜえ? だって5歳のガキだもんな。大人が風呂に入れてやるのになんの問題があるんだ?」
「ですよね! じゃあ遠慮なく!」
満面の笑みで紫が疾を抱き抱える。硬直していた疾はそこで本気と悟り、全力で抵抗し始めた。が、紫の腕は当然小揺るぎもしない。
「ざっけんな変態! 頭おかしいのかてめえら! 問題しかねえだろうが!!」
「なんのことかわからんなあ」
「えへへ、なんだかんだお風呂入れるなんて、火里以来かもです!」
ジタバタ暴れる疾をしっかりと抱きしめて紫が立ち上がる。そのまま部屋を出て行こうとするのに疾は精一杯抵抗するが、ほぼ何の妨害にもなっていない。羽黒はコートのポケットに手を突っ込みニヤニヤと笑うばかりだ。
「やめっ、マジでやめろ、いい加減に──ああくそ、分かった! 分かったから離せ!!」
「んー? 何が分かったって?」
紫に合図をして足を止めさせ、羽黒は人形のように抱えられたままの疾を覗き込んだ。ギリギリと歯を鳴らしながらも、言葉を押し出す。
「……っ、現状に、納得した」
「現状ぉ? 何のことだ?」
「っこの野郎……!」
「紫」
「はい!」
「バカやめろ、離せ……畜生! 養子縁組だか知らねえがやれば良いだろ! お望み通り世話になってやるよ人でなし!!」
「口わっる」
これ以上ない大上段の「お世話になります」宣言に思わず吹き出した羽黒は、さらに怒りをいや増している疾をニヤニヤ見下ろしながら、紫に告げる。
「というわけだ、下ろしてやれ」
「ちえ、残念です」
「まじもんの変態かてめえは……!」
「まあそう言うなって。仲良くしろよ? 姉弟になるんだからな」
「そっか、紫、お姉ちゃんになるんですね!」
嬉しそうな紫とは対照的に心底不快な顔をした疾は、忌々しげに吐き捨てた。
「この最悪が」
「知ってる」
羽黒は、軽薄に笑った。