1:梅しそカツ、兄、カフェ
「無黒語(https://ncode.syosetu.com/n7242ec/)」のエピローグに出てきた温泉でのあれこれを、疾視点で書きました。
兄妹の会話は、疾が主人公の作品「疾き波は岩をも割き(https://ncode.syosetu.com/n3832fb/)」の191,192話を下地にしたものになっております。
温泉旅行に行く兄弟と居合わせた誰かさんが和気藹々(??)しているだけのお話です。
無黒語だけ読んだよ、という方でも問題なく読めると思いますのでどうぞ。
──カランカラン。
「うわ、ほんとに来た。久しぶりー」
「…………」
テーブル席から暢気に片手をヒラヒラさせている少女に、たった今店内に入ってきた少年が目を据わらせる。ほんの一瞬店を出ようとするそぶりを見せたが、諦めたように歩き出す。向かいの椅子にどさりと腰を下ろした少年──疾は、少女をジロリと睨んだ。
「なんでここにいる」
疾とよく似た色の髪を肩甲骨のあたりまで伸ばした、猫のような目が印象的な少女──楓は、見るものが見れば怖気づきそうな気配を漂わせる疾にも動じることなく肩をすくめた。
「え、今日この店でお昼食べてたら、温泉ホテル? にタダで連れて行ってもらえるって」
「おい」
「日本の温泉入ってみたいなーって、つい。……ところでさっきから店員さんにやけに水勧められるんだけど、押し売りって犯罪じゃないの?」
「日本の水は無料だ」
「何それすごい」
目を丸くした少女が、片手をあげて店員を呼んだ。二人の会話を聞いて思い切り遠巻きにしていた店員だったが、少女にじっと見つめられて恐る恐る近寄ってくる。
「お水とメニュー、二つください」
「は、はい。かしこまりました」
少女が頼むと、店員はほっとしたように頷いた。チラチラと少年の方を見ながら、頬を染めて去っていく。
「相変わらずの視線ホイホイぶりで感心するわー」
「阿呆か。で?」
疾の問いかけに楓が首を傾げた。ため息をついて、疾は続ける。
「人様を通訳に使って旅行する気満々なのは結構だが。そもそも何で日本にいる」
店員に話しかけた時以外、兄妹の会話はフランス語で飛び交っている。先ほど店員が遠巻きにしていたのはそのためだ。生粋の日本人である二人がわざわざフランス語なのは、周囲に聞かれないための配慮──ではなく、単純に幼少期からフランスにいた楓の日本語が非常に怪しいがゆえである。
言葉も不自由な上中学生、決して器用ではない彼の妹が単独でここまでやってきた時点で驚き──とそこまで考えて、疾は嫌な予感に襲われた。
「……つーかまず、どうやって渡航した」
「……えへ?」
「不法入国者として突き出してやろうか」
「あの人たちがそんな脇の甘いことするわけなし! 何故かハンコが押されたパスポートがあるんだなこれが!」
「公文書偽造罪まで上乗せだな」
つまりは、魔術に全てを頼って辿り着いたらしい。過保護な両親に呆れるべきか、しれっと犯罪行為だろうと旅行を楽しもうという妹の図太さに頭を抱えるべきか。
と、そこで、店員が疾をチラチラと見ながらメニューと水を持ってきた。疾は一度口をつぐみ、店員と目を合わせないようメニューに視線を落とす。店員は渋々引き下がっていった。
「読む方はマシになったのか」
「……日本語の最難関は読み書きではないでしょーか」
「だから書き取りやっとけっつったろ……」
メニューも読めないらしい。仕方ないので、疾は指さされたメニューを読み上げた。楓はしばし考えて、頷く。手を挙げると、店員がいそいそとやってきた。
「梅しそカツ定食と、ハンバーグ定食ライス大盛り」
「あ、はい。ドリンクがついておりますが、いかがいたしましょうか」
「ついて……いかが……??」
敬語はまだまだ怪しい楓が首を傾げた。ため息をついて、疾が解説する。
「セットにドリンクがついてるから選べ。俺はコーヒー」
「何がどうしてそうなるの……」
ちょっと嘆いてから、楓は店員に向き直った。
「コーヒーと、紅茶で」
「ホットとアイスはいかがなさいますか?」
「ほ……?」
楓の日本語が拙いことに気付いた店員が、言葉を選び直す。
「温かいものと冷たいものが選べます」
「ありがとうございます。両方温かいもので」
なんとか注文を済ませた楓は、ほっとしたように息をついた。
「……ええと、で、日本に来た理由だっけ。それは自分の胸に手を当ててみなよとしか……「エーゲ海に旅行みたいね」てさらっと居場所ハッキングしてた数時間後に、ドンピシャの島が蒸発したとか聞けば、心配するなという方が無理では」
楓の言葉を聞いた疾の視線が遠くなる。
「……あのな」
「言いたいことは分かるけども、あれでスッパリ諦めるわけないでしょ。むしろ今回までの2ヶ月強、大人しくしてただけ頑張ったと思う、私が」
「お前が?」
「宥めて甘いもの口に突っ込んでデートに送り出した。頑張った」
「……あっそ」
はあ、とため息をついて。頬杖をついた疾は目を細める。
「まああの人の精神的な不安定さはある程度仕方ねえとして……。一応、無駄だと思うが聞いていいか」
「どうぞー」
「今回の予約は偽名かつ一人客として取り、交通手段は全て当日券、更にここに来るまでに少し突発的な用事を済ませ、とりあえず腹減ったから遅めの昼食にと、適当に目についた店に入ったわけなんだが?」
疾の言葉にパチパチと瞬いた楓は、軽く首を傾げた。
「それはもう諦めなって」
「マジか……どんだけだ……」
未だ本気で行動分析されれば掌の上と判明して、疾は少しだけ項垂れたのだった。
***
フランスにはない昼食に目を輝かせて舌鼓を打つ妹を眺めながら食事を済ませた疾は、いろいろと諦めてそのまま予約した温泉旅館へと入った。
「お、来たな」
そして、一番会いたくない奴と鉢合わせした。
「…………。なんで、ここに、いる」
「いやー頑張ったぜ。お前さんの偽名以外の客情報を引き出して一つ一つ探り当てるっつー、力技の人海戦術だ」
「暇か」
「いやいや忙しいさ」
ニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべる、顔に横一直線の傷を持つグラサンのヤクザ面男──瀧宮羽黒を見て、疾は心底嫌そうな顔になる。
少しだけ視線を滑らせた先、楓はちょうどチェックインを終えたところだった。日本語の訓練を兼ねて一人で行かせていたのが幸いだが、合流されると面倒くさい。
首を巡らせて疾を探した楓は、羽黒に絡まれている疾と目が合った瞬間、動きを止めずそのままの流れでエレベーターホールへと体ごと向きを変え、するりと去っていった。順調に危機感知と逃げ足が磨かれているようだ。
疾は羽黒に視線を戻し、腕を組む。
「で、何か用でもあんのか」
「折角なら同じ戦いに身を投じたもの同士、疲れを癒し合うのもいいじゃねえか。どうせお前さんペアチケットだろうが一人で来るだろう……っと思ってたが、なんか連れいたな。あれ誰だ?」
見られていた。可能性は考えていたが、事実となってしまったことに疾は内心舌打ちをした。
「ストーカー趣味とは手に負えねえな」
「人聞きの悪い。で、あれ誰?」
しつこく追求しようとする羽黒に、疾は胡乱げな目を向ける。
「答える義理はねえ」
「連れないねえ。髪の毛そっくりだし、妹か?」
「詮索するな鬱陶しい」
しっしと手で追い払おうとするも、ニヤニヤ笑う羽黒がしつこく食い下がってきた。
「いやいや、クソガキが女連れなんて面白えもん、詮索しなきゃ失礼ってもんだろ。仲良さそうだったな。兄としては先輩だ、色々相談に乗るぜ?」
「あんたとは礼の定義がずいぶん違うから会話にならねえよ。つーか妹の体で話を進めるな、俺は身内に命を狙われて喜ぶ趣味はねえ」
「クソガキこそ、うちのお家事情詳しいじゃねえかよ」
「あんたの情報はあちこちで飛び交ってる」
今度こそエレベーターホールへと歩き出した疾の背に、羽黒の声がかかる。
「うちの妹も来てんだ。あとで妹同士の交流にカレーでもどうだ?」
「てめえらと仲良く交流なんざ願い下げだ」
吐き捨てるように言い返し、疾は足早にその場を去った。
メールで伝えられていた部屋番号の扉の前で、疾は軽くノックした。少し間をおいて、楓がチェーンをかけたまま扉を細く開ける。
「……本物?」
「その問いかけで偽物っていう奴、哀れなほど頭が弱いな」
「あ、本物だ」
納得したように頷いて、楓はチェーンを開けて疾を招き入れた。
「それで、あのいかにもヤバげなお兄さん……おじさん? は、どちら様?」
楓が落ち着かなげに畳に膝を落としながら聞いてきた。うんざりとため息をついた疾は、荷物を置きながら答える。
「ジャパニーズマフィアの中でもとびきり頭のおかしいやつ。絶対に関わるな」
「関わりたいとも思わないけど、とりあえず見かけたら全力で逃げるようにします。……相変わらず兄さんって運が悪いというか」
「そっくりそのまま返すぞ」
座卓についた疾は、差し出された日本茶を飲む。軽く息をついて、さらに警告を続ける。
「後、そいつの身内も来てるらしい。白髪のガキとか、茶髪であの男と顔が似てるお前と同じくらいの奴とかがいたら関わるなよ。……あと来ているとは言っていないが、高校生くらいでそいつにベタベタしてる奴がいたらそいつも避けろ」
「男子? 女子?」
「全員女で戦闘民族」
「わー、凄いなー」
運動神経に関しては神に見放されたとしか思えない楓が感心しているが、実物を見て同じ感想を抱くかは謎だと疾は思う。
「それで、そろそろエーゲ海で何があったか聞いといていい? 流石に情報0だと私のお小遣いが死ぬ」
「別にお前の懐が寂しくなったところで、俺には一切ダメージがない」
「そういうこと言う!?」
楓がべしっと座卓を叩く。まあここまで来て全て誤魔化す気もない。というか、誤魔化さない方がいい事情ができた。
「例の島が蒸発した原因の半分が、さっきの男だ」
「……なるほど、とびきり頭がおかしい」
楓が深く頷いた。ノワールについては今のところ説明の必要性はないし、両親に伝わってもややこしいので伏せる。兄としても疾個人の感情としても絶対に絶対に関わり合いになってほしくない不具合に至っては、何があっても存在を知らせない所存だ。
「で、その際の作戦にはその男に加えて白いガキも参戦してた」
「なるほど、下手に関わったら私が死ぬやつ。理解したのでそれ以上は結構です」
楓がすちゃっと手を上げた。話が早くて助かると、疾はまた日本茶を啜る。
「ところで、この袋に入ったお菓子って食べていいの?」
「サービス」
「わーい」
***
せっかく来たのだからと温泉に行きたがる楓を見送る。その間に疾は内風呂で済ませる気だったのだが──
(……偶然なんだろうがな……)
妹が向かったのと同じ方角から感じる、見知った魔力の気配に溜息をつく。同じ人物に同じチケットをもらっているとはいえ、ここまで被るととことん気分が下がる。ただし彼女の場合は羽黒や疾と同じ日程など向こうから願い下げのはずなので、純粋に互いの運が悪いだけである。いや、羽黒は全宿泊客を調べるという気持ちの悪い真似をしていたので、知っていて来たのだろうが。
害がないなら放置しようと思っていたが、だんだんと固有結界が広がっていくのに気づいて仕方なく立ち上がる。あんなもの、妹が巻き込まれた日には餓死するまで彷徨う。
「お、さっきぶり」
「……はあ」
「顔見てため息つくのは流石に酷くね?」
楽しげに笑う羽黒はすでに旅館の浴衣に着替えていたが、アロハシャツを着ていた時の怪しさにガラの悪さまで上乗せである。親しげに話しかけられるだけでもスタッフに怪しまれそうな姿に、疾はうんざりとため息をついた。
とはいえこの結界をきっかけに来たのは互いに同じだろう。さっさとこの固有結界を壊し、男性風呂を占拠している傍迷惑なウロボロスを追い払うだけ追い払って部屋に戻ろうと疾が脱衣所を通り抜けて中に入りかけたところで、羽黒にガシッと肩を掴まれた。
「なんだ離せ鬱陶しい」
「いやいやお前さん、服は脱いで風呂に入るんだぞ。知らんの?」
「クソ蛇追い出すだけで入る気はねえよ」
疾はそう言って振り払おうとするも、羽黒は龍殺しの膂力全開で掴んで離さない。
「せっかく来たんだ、クソ蛇追い出してから入っていきゃいいじゃねーか。男同士裸の付き合いと行こうぜ」
「気色の悪いことを言うな、願い下げだ」
その後もしばしの問答が続いたものの、羽黒があまりにもしつこいために疾が折れた。仕方なくさっさとウロボロスを追い出して戻った疾だったが、もう一人のエーシュリオン作戦の参加者である天明朔夜から「趣味」に関わる依頼の話を持ち込まれたのは悪くない。疾としても規模が大きく、下準備に時間がかかりすぎると攻めあぐねている組織だ。敵が一致しており互いに役割分担が明確とくれば、潰す条件は揃っている。
互いの連絡手段を交換し、後日改めて打ち合わせを行うことを約束した疾は若干気分が浮上し、内風呂に今度こそ入ったところでようやく楓が帰ってきた。
「いやほんとごめん」
「……」
そして、疾は冷たい目で妹を見下ろす羽目になった。
どこで覚えてきたのか部屋に戻ってくるなり正座になった楓が、神妙な顔で語る。
「私もさ、ドンピシャで兄さんが言ってた人たちと大浴場で居合わせるとは思わなかったわけでして」
「……」
「しかもこう、私が先に入って脱衣所のロッカーに若干手こずってたところに入ってきたもので、出ていくわけにもいかなくて」
「……」
「……兄さんと同い年くらいの髪の色抜けた妹さん? が親切心全開で助けてくれて、白い髪の毛の子も黒髪の女の人も参加して……私も日本語全然わからないフリしてみたんだけど……さらっと翻訳アプリ出してきて何とかなっちゃったよね……」
「……そこまでは、まあ良いが」
これがダメなら先程までの一幕全部アウトな疾は、しかし冷たい目で楓を見下ろしたまま追求する。
「それで?」
「いやほら……観光地教えてもらったり、時々あっちはあっちだけで聞き取れないことで盛り上がってたりもしたけど、本当に親切かつフレンドリーというか……びっくりするくらい押しが強くて……気づいたら……」
「気づいたら?」
「気づいたらメアド交換してましたすみませんごめんなさい母さんに後で助けてもらうので勘弁してください!!!」
「ド阿呆」
「あいたあ!?」
容赦なく入ったデコピンに、楓が正座のまま悶絶する。 かなり手加減された一撃だが涙目になった楓に、疾は冷え冷えとした声を落とす。
「個人情報を渡した時点で色々と手遅れという自覚はあるか」
「うっ……ごめんなさい……」
「少なくともあっちのヤクザ面はお前を俺の身内だろうと見当づけている。その身内に連絡手段の交換、しかも他者と識別しうる記号である名前ごと渡しやがったわけだ。ひいては俺の個人情報漏洩に繋がることくらいは理解できていると思ったが」
「ううっ……いや本当にごめん」
「巻き込まれて迷惑だと言いながら結局は最も俺の足を引っ張りやがるとはいい根性をしているな。巡り巡ってさらに危険な目に遭いたいという意思表示ならそれ相応に対処してやるが?」
「すみませんそれだけは勘弁してください!!」
必死に謝ってくる妹に、疾はうんざりとため息をついた。
「ったく、だからわざわざ時期がずれる様にしてたっつうのに……チケットの横流ししなかった理由くらい察しろぼけ」
「そこはほら兄さんを心配した母さんたちの気持ちを慮って……いえごめんなさい私が悪いです」
これでも疾は一応、羽黒たちが行くのを待って予約をとったつもりだった。というかおそらく奴は二度目だ。チケットの出所は受け取り拒否したノワールあたりだろう。やっぱり破り捨てておくべきだった。
さてどう誤魔化すか、と頭の片隅で思考を回しながら、疾は土下座のなり損ないのような格好になった楓に無言で近づいた。手をついたまま微妙にプルプル震えている楓の脚を、ちょいと足でつつく。
「ひえっ!?」
「痺れたんだろ」
「いやあの、分かってるなら、ちょっと待って、あ、やめ──!」
その後しばらく、室内は楓の悲痛な悲鳴が響き渡った。
***
その後。
見事に嫌な予感が的中してちょっとした事件が起こったものの、島を蒸発どころか国の一つや二つ余裕で潰せそうなメンツが集まっている現状、危機感ほぼ皆無で処理された。しれっと人質にされかけた楓だったが、伊達にフランスでも狙われていないからか器用に回避していたのでまあよしとする。
「それで? 結局あの子はお前さんのなんなんだ?」
「…………」
良くないのは、楓と別れた後も付き纏ってくるこのヤクザ面である。
体裁として楓を最寄駅まで見送り終えた疾を待ち構えていた羽黒は、妹たちを先に帰らせてでも疾から聞き出したいらしい。駅から少し離れたカフェに半ば強引に連れ込まれた疾は、うんざりした顔で注文したカフェオレに口をつけた。
「妹たちと無事交流できた様で何より。日本語できないんだってな」
「……」
「顔は……まああんまり似てねえけど、やっぱ髪の色はそっくりだよな。妹じゃねえなら従妹?」
「……」
「魔力はお前さん以上に少ないし、身のこなしは素人っぽいが、立ち回りは上手だったよな。うちの愚妹にもちょっと見習わせたいわ」
「……」
「場慣れしてる感じだが、どういう境遇の子なんだ? 連絡先も交換した様だが、どうにも掴めなくてなあ。こうなったらちょっと妹たちから連絡を──」
カツン。
疾が手にするカップが、机と硬い音を立てた。
「瀧宮羽黒」
得られた情報から楽しそうに探ろうとする羽黒の名を、疾は静かに呼ぶ。軽薄に笑いながらもサングラス越しに酷薄な目で観察する羽黒に、疾はゆっくりと顔を上げて、笑う。
その笑みは、ノワールと対峙した時よりも空恐ろしく、鬼狩りとして対峙した時よりも酷薄で、エーシュリオン作戦の時よりも楽しげな──羽黒がこれまでに見たどの表情よりも美しいものだった。
「──これ以上あいつの詮索をするのなら、俺はホムンクルスの機能を停止させる」
刹那。
おぞましいほどの殺気が、双方より放たれた。
近くに人がいればそれだけで呼吸を止めそうな、殺意の圧。ノワールの振り撒く憎悪とは異なる、しかし心臓を直接鷲掴みにするかのような質量のある殺気を、両者共に浴び浴びせながら笑顔で睨み合う。
互いにぴくりとも動かぬまま睨み合うこと、しばし。
「──なるほど、なるほど」
羽黒が、楽しげに口を開く。
「いいねえ。そうでなくっちゃ」
「はっ……あんたの感性は度し難いな」
「失敬な」
くっくっと笑う羽黒を前に、疾はまたカップを持ち上げて口をつけた。満足げに笑う羽黒を横目に、内心でため息をつく。
瀧宮白羽──魂のみで6年間封じられていた彼女が、賢者の石から知恵を得た錬金術師作のホムンクルスを媒介に復活して未だ1年に満たない。冥府としては、事前の瀧宮羽黒との契約さえなければ即座に動くべき案件ではあるが、契約があるが故に鬼狩りである疾ですら動いてはならない。
だが、かの魂と体が錬金術と魔術で定着している以上、疾は指先一つでその定着を破壊することができる。ペルシスを破壊したことを知られた以上、ブラフではないことは羽黒も理解しているだろう。それが瀧宮羽黒という男にとって、特大の地雷だと疾が知っていることも、また。
──楓への干渉は、瀧宮白羽への攻撃と同義とみなす。
冥府としての約定を踏み躙ってでも成し遂げるという意思を、羽黒は正確に読み取った。
楓の正体までは示さない。外見情報だけであらかたの予想はついているのだ、必要ない。重要なのは、疾にとっての楓という存在が、瀧宮羽黒にとっての瀧宮白羽であると伝わればそれで良い。
それが最もこの男を納得させられる、理由だ。
(とはいえ弱み握られたことには変わりねえし、でかい貸しだからなあのバカ……)
「ま、そういうことならそっとしておいてやるよ。こっち側の人間じゃねえみたいだし。……はしっこそうに見えたがなあ」
興味深そうな、「これだけは教えろ」という顔をしている羽黒を睨んだが、引く気配はない。一応聞かれない様に対処はしているが、どうしたものか疾は一瞬迷う。が、結局答えることにした。
「そろそろハードル走でひっくり返らなくなったか、と聞いたら会話を全力でそらしにかかるやつがか?」
「…………実は見かけより年行ってねえとか? ほらフージュの逆パターンとかいう」
「ほぼ見た目通りだな」
「お、おう……」
あの瀧宮羽黒すら黙らせるという意味で、妹の運動神経も役に立つ時はあるらしい。これはこれで強さだよな、と表には出さず思いながら、疾は羽黒の出方を待つ。
非常に微妙な表情で疾をまじまじと見ていた──これは疾と楓の両者を知ったものが必ず見せる反応である──羽黒が、ニヤリと楽しげに笑う。
「りょーかいりょーかい。俺の好奇心も十分満たせたし、対価としてあの嬢ちゃんには今後一切手出しはしないと約束してやるよ。何ならうちから護衛でも出そうか?」
「監視の間違いだろうが、要らねえよど阿呆」
「へえ。要らねえんだな」
「要らねえ」
こちらが意図して示した追加情報に満足げに笑った羽黒は、伝票を持ち上げてひらりと振った。
「そんじゃここは俺の奢りで」
「たりめーだボケ」
強引に引き摺り込んで不愉快な話をさせておいて割り勘とか言ったらぶん殴るところだ。疾の悪態に苦笑して背を向けた羽黒に、疾はふと思い出して言った。
「ああ、後一応言っておく。お前とお前の妹たち、しばらくPCスマホ関連は使えないものと思っとけ」
「あん? 何しやがったクソガキ」
「さあ?」
にい、と笑ってみせると、羽黒は苦笑いで肩をすくめる。
「ま、そんくらいは必要経費だと思っておく」
「そりゃ殊勝なことで何よりだ」
「てめえ本当いい性格してやがるな……まあいい、じゃあまたな」
「しばらく姿見せんじゃねえ」
「ははっ」
楽しそうに笑い今度こそ歩き出した羽黒に見えないよう、聞こえないように疾は呟く。
「泣きつかれた以上、半端な仕事はしねえだろうからな」
世界最高峰のハッカーによるサイバー攻撃にどの程度瀧宮家が対応できるのか、しばらくは物見遊山で眺めさせてもらおう。そう思い、疾も店を後にした。




