魔女を滅ぼすもの
「魔女を殺すのは、いつの世も愛さ」
くだらない、と添えながらもそう吐き捨てた女の顔を、覚えている。
力ある精霊と契約を結び、時には天候を操り、天変地異を引き起こせ、国一つ位なら軽く滅ぼすほどの力を持った不老不死の──…魔法を司る女、魔女。
彼女ら魔女は、剣で刺そうと、毒を盛ろうと死ぬことはない。
生まれながらに魔女の素質を持つものは、師となる魔女に呪いを掛けられるからだ。
即ち、『汝、愛をもってのみ滅びる』と。
古き魔女から若き魔女へ贈る祝福という名の呪い。
それは、確かに彼女らの命を守るもの。
いかなる攻撃をもってしても、魔女を害することは不可能だった。
「はん、その程度の力でわたしを殺そうなどと…痴れ者どもが」
今日も己を討伐せしめんとやってきた者達を眺めて、女は嗤う。
遠見の水晶に映るのは、騎士らしき鎧をまとった一団が、うねる木々の枝に絡め取られ身動きできず立ち往生している滑稽な姿だった。
「…ですが、回数を重ねる度に人数が増えていませんか?」
リアンが控えめにそう問うと、長い黒髪を揺らしこちらを向いた女の黄金色の双眸が、線の細い青年の顔を興味深げに見やった。
「あちらは得体の知れぬ魔女をなんとしても殺したいのだろうよ、また、近隣の村や街を焼かれてはたまらんといったところだろうね」
ご苦労なことで、と皮肉げに嗤う女もまた、魔女である。
それも劫火の魔女という物騒な二つ名をつけられている。
事実として、フィーネベルデという名の魔女は、かつて一つの村を焼き払った。
魔女が焦土と化した一帯は今も、草木も生えぬ荒れ地となっており、かつてそこに村があったことなど想像がつかぬほどの状態となっていた。
「あやつらに刺されようと何をされようと痛くもかゆくもないが、しかし五月蠅いものは五月蠅いな。木偶人形でも身代わりにたてて喜ばせてやるのも良いが、わたしが居なくなったものと調子に乗って我が森を荒されるのも業腹よ。いっそのことこちらとしては、国一つ焦土にしても一向にかまわぬのだが──…なぁ、リアンよ」
明日の朝食は何にしようといった程度の気安さで女は、意向を問う。
リアンと呼ばれた青年は、翡翠の双眸を困ったように彷徨わせながら、首を緩く振った。
「そこまでは、なさらずとも。彼らがいかに努力しようとも森を越えて館までたどり着くのは不可能。それに、燃やすにも手間はかかりましょう」
「ふふ…そうか。いとしいお前が言うのならばそうしよう」
やんわりとした調子で告げる青年に、女は笑むとリアンの金色の髪を一筋、指に絡めてさらりとした感触を楽しんで後、揺り椅子の背もたれに身を預けて目を閉じた。
女が愛玩動物のようにも見える扱いをするリアンという青年は、元々は孤児である。
未だ十歳にも満たぬ子供の頃に彼は、魔女の根城である森で、薄汚れた襤褸切れのような衣服を纏い転がっていたのを、拾われたのだ。
それ以来、ずっと人生の半分以上の年月を魔女とともに過ごしてきていた。
当初は『子育てなどしたことはない』だとか、『範疇外だ』とか不平不満を口にしていた魔女であったが、リアンと名付けられた子供は、幼い頃より家の手伝いでもさせられていたのか、自分のことは自分でできたし、こまめによく働いた。
魔女が育てるまでもなくリアンはすでに育っており、今となっては魔女の身の回りの世話も立派にこなしていた。
「だが、あまりに五月蠅いようならば、応戦も止む無しであろうな」
それが王都の騎士であろうとなかろうと、魔女にとっては己の領域を侵すものは煩い羽虫程度の存在なのだ。
「しかし、痴れ者共の相手は疲れるな…今宵は早めに休むとしよう」
やれやれと肩をすくめる女は、命を摘む事も、彼らの根城を叩くのも、然して痛痒を抱かぬ様子だった。
「……」
その二つ名の通り苛烈な炎のようにも、反して厳寒な凍土のように冷酷な魔女を、リアンは憂うような翡翠の双眸で見つめた。
――…雲一つない深い藍色に、張りつめた弓のように弧を描く月が皓々と輝いていた。
鬱蒼と茂る森の奥、外壁も屋根も黒で統一された魔女の館が月明りに淡く浮かび上がる。
二人で暮らすには広い館は、夜は特に静かで微かな靴音も少しばかり大きく響くような心持ちに、リアンは思わず息をつめた。
こつり、こつりと微かな靴音と共に進む足は、やがては魔女の眠る寝室へと向かう――…僅かに顔色を失った彼の手には、鈍く光る銀の煌めき。
「……っ」
やがて辿り着いた先、魔女の寝室の扉の前に立つ。
扉には、魔法的なものも、物理的なものも――一切の鍵は掛かっていない。
『いとしいお前が望むのならば』
と、魔女はリアンに対し、制限を与える事は無かった。
館のどの部屋も自由に出入りできるし、館から出て街へ足を運ぶことも、そしてそのまま戻ってこなくとも――望むのならばしてよい、と告げられていた。
事実、その言葉の通り、リアンが何をしても魔女は許すのだろう。
『いとしいお前が望むのならば』
その言葉が真実であれば、――…恐らくは魔女に愛されているのだろう、自分は。
冷酷な魔女の性質よりも、人に近しい情愛を持って自身に対して接してくれていると薄々は感じていた。
己にならば魔女を殺すことができるのかもしれない。
キィ、と微かな音を立てて扉が開いた。
『幼子の体温は高いと聞く、寒くてかなわん』
暑さ寒さも感じぬ身であろうに、斯様な言葉と共に、幼き時分に招かれた寝台で、魔女は静かに横たわり眠りに就いている。
規則正しい寝息が微かに夜の静謐な空気を震わせるのを耳にしながら、リアンはゆっくりと近づいていく。
――…今宵、魔女を殺す。
リアンは心の中で今一度強く唱えた。
彼にとって魔女は、己を拾い育ててくれた恩人では無かった。
寧ろその逆で、両親を殺した仇であった。
かつて魔女が焼き払ったという村の――たった一人生き残ったのが、リアンだった。
「逃げなさい」「お前だけでも」両親の切実な声が、今も胸の内にこだまする――…魔女が焼き払った村に、リアンの幸せの全てがあった。
戯れか気まぐれか──…自身にだけ優しく見える魔女は、執拗に干渉してくる王国を赦しはしないのだろう。
今は未だ他愛のない妨害だけで許しているが、その内、国一つ炎で包んで焦土と化してしまう事など容易く為してしまうのだろう。
故に、殺さねばならない。
不死身の魔女に、死を与えられるのは、恐らくは己だけなのだろうから。
「――…ッ!」
窓から差し込む月光に白く浮かび上がる魔女の寝顔をじっと見つめた後、リアンは静かに鞘から引き抜いた短剣を高く掲げ、ゆっくりと上下する胸元へと狙いを定め、振り下ろす。
ざくり、と鈍い音と共に切り裂かれた布団から真っ白い羽毛が弾け飛ぶ。ひらひらと雪の様に舞い、顔へと飛び散ってくる羽根を吐息で払う。
握りしめた刃は、女の細い体に埋まり――夜の色に沈む中では、影が膨れ上がるように、じわじわと寝具や夜着を血で染めていった。
「……どうした。心臓は、ここだ」
「…ッ!?」
鉄臭い匂いの中、いつも通りの穏やかな――僅かに擦れた魔女の声が、聞こえた。
刃を突き刺したまま息を呑むリアンの手に、冷たい女の手が触れ、己が心臓へと導くように力がこもる。
「な…、どうし、て」
「それが、お前の望みなのだろう」
驚愕に見開いた翡翠は、青白い面で微笑む黄金の双眸にかち合う。
如何なる刃も通さぬ、あらゆる魔法もその身を傷つける事なく霧散する――不死の呪いを纏う魔女の体には、今、しっかりとリアンの刃が突き刺さっていた。
「でも、貴女は如何なる力をもってしても死なない、傷つかない、はず、で」
そう。本来ならば魔女は首を落とされようとも死なない――否、そもそもがその肌の薄皮 一枚も傷つける事は叶わないはずなのだ。
「いとしいお前が望むのならば」
魔女が笑う。
これまで一度たりとも傷つけられる事のなかった彼女にとって、初めての痛みは相当なものであろうに、魔女が憤った様子も、リアンを責める様子もない。
「……いやだ」
なんで、と知らずリアンの唇からは繰り言のように言葉が零れた。
己の刃で傷ついて欲しいと願いながら、一方で、そうでなければ良いと願う矛盾。
けれど、傷一つつかなければそれはそれで、自身は絶望するのだ──身勝手な事に。
「僕は…、僕は貴女の死を望んでない、望んでなんかいない」
「…知っているよ、わたしはお前の故郷を焼き払った」
「…――ッ」
「わたしは、お前の仇だろう?」
何もかも最初から知っていたとばかりに穏やかに告げる魔女の声に、リアンは息を呑み、それから、大きく首を何度も横に振り、
「貴女が、村を焼き払ったのは、――…村が、手遅れだったから。近隣に被害が及ばない為には仕方のない事だった。わかってた、わかっては、いたんです」
ただの八つ当たりだ、と呻くように呟いたリアンの手から力が抜ける。魔女の手に捕まれたまま、ずるずると膝から崩れ落ちた。
「治療薬を作れなかったのはわたしの未熟さ故だろうよ」
だから己の責任だと、血の気のない顔に笑みを浮かべる魔女をリアンは潤んだ双眸で睨みあげた。
魔女フィーネベルデは、故郷を滅ぼした仇だ…──と思っていた。――…魔女の元へきて暫しの頃、外出を赦されて向かった街で聞いた噂話で"真実"を知るまでは。
――…本当に、ただの、八つ当たりなのだ。
疫病が流行り、己の住んでいた村はほぼ全滅だったのだという。
薬師をしていた両親が早目に異変に気づき、幼いリアンを村の外へと逃がした。
といっても、馬の背に荷物と共に括りつけて追い立てるといったかなり手荒な方法であったけれど。
お陰で感染する前に村の外へと脱出したリアンだったが、暫ししてどうにか村へと戻ってきた――…その目に映ったのは、真っな炎に包まれた村の姿。
炎の揺らめく村の上空を飛び去って行く女の影を追いかけて、追いかけて――…魔女の森へとたどり着いた。
その頃には、幼い少年の記憶に残っていたのは、己に逃げるよう告げる両親と、真っ赤に燃える村という鮮烈な光景のみだった。
だから、魔女が己の村を焼き払ったのだと、両親の仇だと――信じた。
そうして、街の噂話で真実を知っても、リアンは尚も、魔女を仇なのだと思い込もうとした。
人の命など何とも思っておらぬ、冷酷な魔女だと。己の事など気まぐれに拾った犬猫程度にしか思ってはおらぬのだろうと。
「なのに、なんで…不滅の、不死の魔女のくせに、なんで」
「魔女を殺すのは、いつの世も愛さ。知っているだろう?…ああ、これが痛みというものか」
茫然自失のリアンにゆるゆると口を開く魔女は、始終楽しげな様子だった。
「そんな馬鹿な呪いが、あってたまるものかっ!貴女が僕を」
「そうだな、呪いではないな」
ふふふ、とたまりかねたように女は笑う。もたれ掛かる寝台からゆるい振動が伝わって、リアンは潤んだ双眸で青白く月光に照らされた魔女の横顔を見やった。
「呪いではなく、…祝福だ」
「戯れ言ばかりいってないで、早く、治療を」
「わたしを殺さぬのか?」
息せき切って告げるリアンに、不思議そうにも問う魔女。突き刺さった刃を抜く事すらせぬままま、寝台に横たわっていた。
「僕は、貴女の死を望んでなんか、いない」
「千載一遇のチャンスであろうに…、だが、いとしいお前が望むのならば」
頑是無い子供を見るような笑みを浮かべた魔女は、決まり文句を口にしては、いつか少年の彼にしたようにその頭を撫でた。
「うん。塩辛いな…あぁ、お前は舐めるなよ」
「……敢えて口に入れる神経が理解できません」
とある街の海岸沿いで、砂浜を歩く二つの影があった。
髪も衣服も黒々とした女が白い浜辺を歩く姿は酷くミスマッチであったけれど、当の二人は気にしてはいない様子だった。
「……そういえば、何故、祝福と仰ったんですか?」
さわと、浜風が魔女の長い黒髪を揺らすのを眺めながら、リアンは口を開く。
今、この海沿いの街に来ているのも、自身が本を見ながら『海が見たい』等と呟いたからという実に他愛のない理由で、呆れるやら笑うやらである。
「『汝、愛をもってのみ滅びる』これが真実の全てならば、この世から魔女なぞとうに消えて居るだろうよ――元来、魔女というものは惚れっぽいものだからな」
「……は?」
人と異なる力を持つ魔女は、性質の差はあれど、凡そ忌まれることは多くとも好かれる事は少ない。
それゆえか、人恋しく思う者が多いのか、所謂惚れっぽい者が多いのだという。
「片方のみの想いだけでは、まじないは成就せぬということさ」
「……」
目を見開いて固まったリアンを、魔女は――フィーネベルデは面白い物を見たという顔で暫し眺めると、小刻みに肩を揺らし始める。
「…それを祝福と言わずして、なんと言うのだ」
薄明色に染まる空と海の境目に、楽し気な笑い声が響いた。