6.いまさら気づいてももう遅い
「ひ……っ、は、が、くる、なぁ……っ、ひいぃ……!」
武器を飛ばされたヘンリックは勢いをなくし、尻もちをついた姿勢のままガタガタと震えている。口からは懇願とも呼吸ともとれる切れぎれの言葉が漏れだすだけ。
先ほどとは真逆の光景。
手足をばたつかせて床をうごめくヘンリックの腹を、狼の太い前足が押さえつけた。
ながい口吻がゆっくりとひらき、上下に生えそろった鋭い牙列を見せつける。大きな口は一噛みで首をもぐことすらできるだろう。
「ぎぁ……!!」
死が近づいてくるのをヘンリックは見た。
生あたたかい吐息を感じた。
牙が己の喉に突き刺さるのを。
断末魔の叫びすらあげられず、ヘンリックが絶命しようとした、そのとき。
「だめです……!!!」
我に返ったミアが、その腕を差しだした。
ヘンリックの頭上に。狼の口の中へ、自ら腕を捧げるように。
閉じようとしていた顎がぴたりと止まる。
ミアは狼の眸をのぞきこんだ。
紫色の虹彩に問いただす視線をのせて、銀狼もまたじっとミアを見る。
本音は、人殺しなどしてほしくないからだが。
それで納得する相手ではないと、獣の視線は語っていた。
人の番に手を出しておいて、どうしてのうのうと生かしておくのか。
狼はそう尋ねている。
そこにあるのは獣の本能であり、人の理性ではなかった。
大切な者を殺そうとした相手だから、殺す。ただそれだけだ。
アルフは、自身が死ぬほどの毒や傷を受けてもなお、ミアをまきこまぬよう静かに去ろうとする狼だ。
その彼があまりにも純粋な怒りを見せているのは――ひとえに、ミアを傷つけられたから。
怒りはあまりにも透きとおっていて、深い。清廉な泉の水のように。
なんと言えば、納得する?
ミアは必死に考える。
「――相手はもう無力化されています。戦う気概はありません。……なら、一思いに殺すより捕縛して情報を聞きだしたほうがよろしいかと」
「ヒィッ」
殺されないように説得してやっているというのに、ヘンリックは情けない悲鳴をあげて気絶した。白目をむき、口の端から涎がたれている。
まぁ、『情報を聞きだす』というのは遠まわしに『拷問』を意味するのだが……。
正気に戻ればアルフは大人しくてやさしいから、拷問などしないに違いない。たぶん。おそらく。そうじゃないかな。
祈るような気持ちでアルフの眸を見つめる。
銀狼は言葉の意味を考えるようにぱちぱちと目を瞬かせていたが、やがてミアの腕をぺろりと舐めた。
「そうだな」
のびているヘンリックをもう一度足蹴にすると、アルフは廊下を塞ぐほどの身体をのそりと動かし、尻尾を揺らす。
「ついてこい。傷の手当と、服の替えが必要だ」
いつのまにか喧騒はやんでいた。
裏口から外をのぞけば松明の光が揺れ動き、甲冑を着た騎士たちが歩きまわっている。兜に刻まれているのは王家の紋章。狼藉者たちは残らず制圧され、捕縛されたようだ。
王家……王家が動いている。
先ほどヘンリックに告げられた言葉が脳裏をよぎって、ミアは思わず銀色の尻尾をつかんだ。
「アルフは……うちの庭に遊びにきていたあの狼は、アルフェルド殿下だったんですか?」
そしていま目の前にいる、巨大なフェンリルもまた。
膝の上に頭をのせて眠りこけていた狼も、先ほどヘンリックをかみ殺そうとした狼も。
ミアのことを番だと言った狼。
彼が、この国の第二王子、アルフェルドと同一人物だと?
それはつまり。
自分は、アルフェルド殿下から、求婚されているということだろうか。
従兄の青ざめた顔がよみがえる。
父にも話は通してあるのだと、従兄は言っていた。
巨大な銀狼は首だけをまわしてミアをふりむき、薄く口をひらいて笑った。
「いまさら気づいてももう遅い」
早くこい、と尻尾でひきよせられて、毛皮のコートにつつまれているようだと思いながらミアは歩きだした。
自分が連れてゆかれる先が王宮だと気づいたのは、それからしばらくたってからである。
アルフの言うとおり、なにもかもがもう、反論するには遅かった。