5.別の王子様がやってきました
政変は突如起きた。
女神より『悪しき者、国にあり』との神託がくだった。
すぐに第一王子が幽閉されたという。
盤石だと思われていた第一王子の転覆に、貴族社会には激震が走った。
第一王子ヘンリックを捕らえたのは第二王子アルフェルドであった。罪状はアルフェルドの暗殺未遂。
神殿の訪問からしばらくしてアルフェルドは毒を盛られた。どうにか生きながらえて回復し、自身に使われた毒の分析を進めるうち捜査線上にヘンリックが浮上。本人のいない隙に部屋を捜索したところ同じ毒が見つかった――というのである。
神託はその前日に降りた。
もとよりヘンリックの横暴をよく思っていなかった下位貴族たちは、こぞってアルフェルドについた。
ヘンリックの母――マリエッタ王妃の実家は公爵家である。小さな家ではひと睨みされればつぶれてしまう。けれども、団結した家の数は多かったそうだ。
それこそ、国王がヘンリックの非を認め、幽閉を命じる程度には。
父は何も言わなかったけれど、「家へいろ」とあのときの少年と同じことを言った。
今度ばかりはミアも黙って従った。
表だってヘンリックを擁護する者はいなかったが、側妻の子であるアルフェルドを王太子として認めるかはまた別の議論があったようである。
王宮の政務はしばらくのあいだ混乱を極め、父はながらく家に帰らなかった。
アルフもまた、姿を現さなくなった。
神殿のフェンリル像を語る機会を失ったまま、ミアは家に閉じこもっていた。
*
その夜の騒動もまた突然だった。
わっと人の声がこだましたかと思うと、門を打ち破る音が響く。やがて、けたたましいノックの音にかぶせるように、メイドが叫んだ。
「お嬢様!! 賊です、お逃げください!!」
ミアはベッドから飛び起きると窓の外を見た。まだ朝を迎えていない暗い庭園に、人のうごめく気配がする。
庭園を踏みつぶしてのりあげる馬車やふるわれる剣の拵えを見るに、彼らは第一王子派の者たち。
なぜ、我が屋敷に――と考えれば、心当たりは王子たちの確執しかない。父が王宮への出仕を再開してから事態が動きだしたのだ。旗印を掲げる者だと判断されたのだろう。
「あなたも逃げて! 戦えぬ者は逃げなさい、無理に刃向かう必要はないわ!」
ネグリジェのままの姿にガウンを羽織る。着替えている暇はない。
母と弟を――と考えながらドアを開けたところで、階下から大きな物音がした。屋敷の門も破られたらしい。一人や二人ではない、賊たちが徒党を組んで押し入ってきた。
いったいなぜ?
いくら父が第二王子と接触したからといって、ここまでしてちっぽけな子爵家を狙う意味などあるのだろうか。
考えても仕方のないことが頭の中をめぐる。
ミアは頭を振って余計な思考を追いはらった。それよりも逃げなくては。
裏口へと走る。
しかしそこにもまた賊は迫っていた。
目指す扉が外側から軋みをあげて破壊された。
破片となった扉から、黒いローブをまとった男が現れる。
ローブの影からもわかる眸は爛々と燃え、殺気よりも禍々しい薄暗い愉悦が宿っていた。
一瞥で知れる、男の狂気。
――逃げなければ。
「おっと、逃がさぬぞ」
「……!!」
きびすを返したミアの髪を、無遠慮な手がつかんだ。重心をくずした身体は壁にむかってよろける。
男は厭らしい笑みを浮かべてミアの頬を打った。手加減も何もない衝撃に頭を壁へしたたかに打ちつけ、一瞬目の前が暗くなる。
頭がガンガンと痛い。吐きそうだ。
しかし髪を握られているせいで座りこむこともできない。
ふらつく身体をなんとか立たせると、ミアは目の前の不届き者を見た。
壮絶な表情でミアを見下ろすのは見知らぬ男――。
……いや、どこかで面影を。
そう考えて、よぎった顔に目を見開いた。
王宮で出逢った、アルフに似た色の王子様。彼に顔つきが似ているのだ。そして落ちかけたフードからのぞく赤みがかった金の髪に、瑠璃色の眸。
会ったことはないが、王妃の美貌を引き継いだと言われる特徴には覚えがあった。
彼は――、
「王太子……ヘンリック殿下……?」
驚愕の表情となったミアに男は残虐な笑みを返した。
その歪んだ唇は肯定である。
第一王子、ヘンリック・ヴォルフクライン。ミアではとうてい目通りすることの叶わない身分の人間。
しかしヘンリック王子は幽閉されているはずだ。
なぜ、こんなしがない子爵邸へのりこみ、ミアを打ちのめさなければならないのか。
口角のつりあがった唇から白い歯がのぞいた。それが獣の牙ではないことを不思議に思う、そのくらいにヘンリックの様相はもはや人からかけ離れていた。顔は青ざめ、目は見開かれて輝いている。乱れた髪はまるで逆立っているようだった。
手負いの獣。
しかしその野獣は、獲物を手に入れた興奮に満ちていた。
「お前がアルフェルドの《番》か? ずいぶんと年増ではないか」
ミアの顔をのぞきこみ、侮蔑の嘲笑を投げかける。
たしかにミアは成人をとうにすぎた歳、ヘンリックよりもなお年上だ。
年増だと蔑まれたことを憤るだけの余裕はなかった。それよりもこの一年間、問いたくとも問えなかった単語とありえない名前がいっしょに呼ばれて、ミアは思わず声を漏らしてしまった。
「アルフェルド殿下の……?」
とたん、弾けるような哄笑が響いた。
とうに狂ってしまった、憎しみに満ちあふれた嗤いにつつまれて、ミアは己の失言を悟った。
「はははははは!! ははははははははは!!! これはいい!! 本気だということか、あの弟が!!! 正体を知られれば関係が壊れるとでも!? おびえているのか!!」
「ぃ……っ」
髪を引かれ、苦痛に顔をしかめる。
けれども疑問は尽きない。
弟、アルフェルド殿下。の、番? 私が? 私に番と告げたのは、アルフだ。銀の狼の。フェンリルにしては小さな……。
思考をめぐらせるその顔が、ヘンリックに刺激を与えてしまったようだった。
「本当に知らないのだな。お前のもとへ通う狼がなんなのか。自分が誰の、何の番になるのか。なぜ殺されようとしているのか」
まるで口が裂けたかのような、醜悪な笑顔でヘンリックは腕をひいた。首がおかしな方向へまがりそうになって倒れこむ。その身を革のブーツで蹴りあげられた。
漏れそうになる悲鳴を必死にこらえる。
床へ這いつくばり、逃げ道を探すミアに、宝飾の剣が振りかざされる。
実戦ならば役に立ちそうにもない、貴族趣味の剣だ。きっと切れ味も鈍いだろう。けれどミアを害するには十分。
「ならばそのまま逝け。あいつに後悔させてやろう」
薄暗い夜の廊下で、柄に嵌めこまれた宝石が光った。
心臓をめがけて銀の刃が落ちる。
「……!!」
――しかし、ぎゅっと目をつむったミアに、予期していた衝撃は訪れず。
代わりに「ぎゃああ゛ぁっ!!!」という醜い叫び声が聞こえた。
ドタン、ガチャンと重たいものの落ちる音。
おそるおそると目を開ければ。
そこにあったのは、刃の銀ではなく。
よく見慣れた、銀糸の毛皮。
ただし《彼》はミアの知る大きさではなかった。
人間を一口で飲みこんでしまえるほどの《大狼》が、いままさにヘンリックへと牙を剥き出しにしていた。