29.王妃の過去
心の清らかな者にしか、フェンリルは現れぬ。
心の清らかな者にしか、フェンリルの血を継ぐ者は産めぬ。
マリエッタはその伝承を一笑に付した。
そんなものは、嫁いできた妃に身勝手をさせぬための体のよい方便にすぎぬ。あれは駄目だこれは駄目だと縛りつけるのにフェンリルの名を使っただけ。
その証拠に見よ、この百年というもの、記録に残っている限りでフェンリルの血を発現した者など一人もいない。
ならばこちらの伝承のほうが信憑性があるのではないか。
悪しき者、王位に手をかけしとき、国を守るべくフェンリルとその巫女が立ちあがるであろう――。
自分のような者がいれば現実にフェンリルが現れるかもしれぬ。
マリエッタはそう嘯いた。
マリエッタは公爵家の長女として生まれた。
数年前に生まれていた王太子との婚約は、物心もつかぬうちに決められた。気づいたときにはマリエッタは次期王太子妃であり、その先に見えるのは王妃の座だった。
誰もがマリエッタを褒めそやし、取り入ろうとした。それは心地のよい感覚だった。
それに慣れすぎたマリエッタは、苦言を呈する者たちを煩わしく思った。
彼らが武器に使うのは信仰だ。この国はフェンリルによって建てられた国だから、フェンリルの怒りに触れてはいけないという。
くだらない。
フェンリルを祀らなくとも公爵家は権勢を拡大した。自分は生まれながらに王妃であった。
フェンリルに関する研究を重ねているというエルメール子爵家とその一族。
教育熱心で、数々の女傑を輩出してきたマイケン子爵家。そのほか、とるにたらない伯爵家やそれ以下の貴族たち。
一応の古株の家臣たちだ、しおらしい態度をとりながら、マリエッタは彼らの助言を聞き流した。話を聞いたところで意味がないのは彼らの爵位自身が示している。
ところが、幸福はある日突然に音を立てて崩れた。
国王がどこかから見つけてきた伯爵家の娘が、男児を産んだ。それはよい。王位継承権は我が息子ヘンリックにあり、公爵家の後ろ盾もあるマリエッタの地位は盤石。
娘は男児を産んでのち数年を患い、つつましく息をひきとった。
残されたアルフェルドも、自分の立場はよく理解していたらしい、王妃やヘンリックと関わることなく、国王の気を惹こうとすることもなくすごした。
状況が一変したのは、アルフェルド八歳、ヘンリック十歳のおり。
アルフェルドが、銀狼と化したのだ。
フェンリルの血が顕現した――それを知ったのは一部の家臣たちだけだったけれども、走った動揺はマリエッタの想像以上だった。
そのときようやくマリエッタは気づいた。
フェンリルの名のもとに築かれていたのは、信仰ではなかった。
王座の正統性だ。
――心の清らかな者にしか、フェンリルの血を継ぐ者は産めぬ。
したり顔で忠告していた下級貴族たちが脳裏によぎった。
どうして――どうしてよりにもよって、わたくしの時代に。
マリエッタは王に詰め寄った。
不届き者たちは第二王子が獣になったというだけでヘンリックに反旗の目をむけている。国王が定めた王太子を無視する行いだ。
「国王陛下、あなた様の偉大さを示すのに、目にも見えぬフェンリルの加護は要りませぬ」
幸いにも国王はこれを聞き入れた。かの凡庸王には、公爵家の融資を失うことのほうが恐ろしかったのである。
フェンリル祭を廃止し、異を唱える者たちを宮殿の要職から追放した。アルフェルドはふたたび孤独の底でうずくまり、目立たぬ存在となった。
これでいい。
あとは機を見計らいつつアルフェルドを始末してしまえば、王宮はもとどおりの平穏を取り戻すだろう。
マリエッタにとってヘンリックは道具にすぎなかった。
本来ならば世継ぎの候補となる者をもう少し産んでおきたかったくらいだ。しかしそうならなかったのは、憎らしいアルフェルドとその母親のせい――。
すでに一人はもういない。もう一人も、いずれ排除してみせる。
しかし平穏はふたたび破られた。
王妃の命じた暗殺を引き金として、アルフェルドが真のフェンリルとして覚醒してしまったのだ。
どうやら番を――心の清らかな乙女を巫女として手に入れることが、フェンリルの力の源であるらしい。
神獣フェンリルとしての武力で国王を押さえつけたアルフェルドは、マリエッタの逆をした。
追放した家臣たちを王宮へひき戻し、フェンリル祭の再開にむけて動きだした。それはあきらかにヘンリックを王太子の座からひきずりおろし、己の正統性を主張するため。
金をばらまいて味方につけた高位貴族たちも、国王の下知とあらば表立って批判をするわけにもいかず、ただ沈黙して成り行きを見守るだけ。
状況がヘンリックがアルフェルド暗殺の咎で幽閉されるに至り、マリエッタは激昂した。
彼女に見えていたのは一つの道筋だけ。
番であるミア・エルメールの死と、それによるアルフェルドの無力化。
ヘンリックを唆し、幽閉を解いた。自らの痕跡は残さぬようにして。それが失敗してもなお、刺客を送りこんだ。
侍女シェリル・イーエス伯爵令嬢。
彼女を脅し、ミアの部屋に他愛もない呪符をしかけさせた。
もとより恐怖を植えつけられていたシェリルは自らの手で主人に呪いをかけることによってますます心の均衡を失ってゆく。
そこにつけこんで、魔術で意識を乗っ取れば。
今度こそうまくいく――はずだった。