18.黒フェンリルの乱入
ミアが王宮を訪れてから、ひと月。
妃教育にも徐々に慣れた。相かわらず厳しい視線をむけてくるものの、ブリーナからふるまいを指摘されることは減った。がんばりを認めてくれているということらしい。
今日の妃教育は庭園へ出て、お茶会の実践だった。
貴婦人たちの社交の場であり、思わぬ情報が交換されることもある。女主人の役割の中で欠かせないものの一つ。
ミアも何度か声をかけてもらい参加したことはあるが、王宮で行うとなれば規模が違う。庭の中にいくつものテーブルを置き、客をもてなしつつ給仕たちを取り仕切らねばならない。
ブリーナとシェリルも客役として駆りだされていた。
「まずは開催のご挨拶を――」
同じく招待客として席に着いたレズリーが正面に立ったミアに声をかけた。
そのときだった。
不意に、視界の隅をなにか黒いものが横切った。
と思えばそれは投げだされるように弧をえがき、茶器をならべたブリーナのテーブルへと勢いよく落下する。
「!?」
はずみでテーブルは倒れ、中身のない茶器は地面へ落ちると音を立てて割れた。
ブリーナはこわばった表情でテーブルから離れるとミアのもとへと走り寄った。異常があった際にはミアを守るのが侍女の務めだ。シェリルも立ちあがりブリーナの隣へとならぶ。
しかしミアは、気づいた。
城壁を飛び越えてきたとしか思えないその黒い塊が、生き物であることに。
そして――アルフよりも二回りほど小さいが、アルフに似た、尖った耳と、刷毛のような尻尾を持っていることに。
(……フェンリル……?)
緊迫した空気が流れるなか、芝生の上の黒い塊はもぞりと身を揺すった。長い毛なみから手足がのぞく。
目立った外傷はないものの、小さくふるえる足先から、弱っているのはうかがえた。
(どうしよう、《治癒魔法》を使ってもいいのかしら……?)
アルフの受けた毒矢の傷すら癒したのだ、効果はあるだろう。
しかしアルフが言うには、ミアの使う《治癒魔法》はフェンリルとの絆を結ぶための魔法であるという。この黒いフェンリルと絆が結ばれてしまっては困るし、なによりアルフになんと言われるか――。
「ミア様、お気をつけを。魔物かもしれません。シェリル、あなたは衛兵を呼んで」
ブリーナはミアを守るように手を広げ、シェリルに指示を出す。
王宮全体には守護結界が張られていて早々魔物は入りこまないが、高い城壁をのりこえて普通の動物が侵入することはそれより稀だろう。ブリーナの判断は正しい。
けれども、衛兵にあの黒狼が捕らえられれば、それこそ魔物だと判断されてしまうかもしれない。
「あの、ブリーナ、シェリル――」
駆けだそうとしたシェリルに、ミアは声をかけようと手をのばす。
しかしその手は、別の手に受けとめられた。
まだ線の細さの残る、それでいてミアのものよりも大きな男の手。
ハッと息をのむ気配が周囲から伝わる。
ふりかえれば、銀の髪に紫の瞳の少年が、堂々とした威厳をもって立っていた。
「アルフェルド様……」
ミアが名を呼ぶと同時に、ほかの者は皆頭をさげて視線を伏せる。
「ここは俺があずかろう。それは魔物ではない。ただの犬だ」
突然現れた王子自らにそう言われてしまっては否定するわけにもいかず、ブリーナたちは黙りこんだ。
アルフェルドは躊躇なく歩みよると黒い獣を抱きあげる。
ミアだけは、その行動から、やはりフェンリルなのだろうと察した。ただの犬であればアルフェルドが姿を見せるわけがない。なんらかの気配を感知したのだろう。
「……腹が減って弱っているだけだな。やわらかい食事を用意させてくれ」
「承知いたしました」
アルフェルドの言葉に今度こそシェリルが城へと走る。
黒狼の子を抱いたままつづいて城へ向かうアルフェルドに、ミアもまた立ちあがると後を追った。
(まだ子どものようだし……喧嘩はしない、わよね?)
おぼろげな不安を、胸に感じながら。