15.女史の助言
「最初に学んでいただくのは、もっとも大切な礼儀作法です」
レズリーのそんな宣言ののち、妃教育は始まった。
妃となれば、目上の者はほとんどいなくなる。結婚相手であるアルフェルド、その父の国王陛下、あるいは他国の人々だ。
国内ではミアはほとんどすべての者にかしずかれる立場となる。
それは正式に妃とはなっていない現在でも同じ。
「礼の仕方、席順、お言葉遣い。すべてを改めていただきます」
先ほどまでとはうってかわって、レズリーの口調ははきはきとして声の響きも張りがある。背筋をのばした姿からやさしげな雰囲気は消え去り、教師としての厳しさがうかがえた。
浮かべているのが笑顔でなければ、先ほどのやりとりがなければ畏縮してしまっていたかもしれない。しかしレズリーの人柄が理解できたおかげでミアに訪れたのはほどよい緊張感だった。身がひきしまる思いにミアも背筋をのばす。
「ところで……いますでに、なにか気になることがあるのではございませんか?」
「えっ」
問われてミアは驚きの声をあげた。
頭の片隅でちらりと、ブリーナに叱られたことを思いだしたのだ。
上に立つ者としてふさわしくふるまえという要求もわかるが、横柄な態度をとることが是であるとは思えない。
「あの……」
「はい、なんなりとお聞きください」
レズリーはほほえむ。ミアは顔をあげた。
「妃らしいふるまい、というのが、私にはどうしても気が引けてしまって……これまで子爵家の娘として生きてきたのです、急に私のほうが立場が上と言われても、……」
言いながら、ミアはふと自分の言葉に違和感を覚えて口をつぐんだ。
呼び捨てにしろと言われて抵抗があったけれども、問題はそこではない。呼び方や態度が慣れないというのではなくて――。
レズリーはまたにこりと笑う。人を安心させるための笑みだった。
「お気づきになられたようですね。やはりミア様は聡明なお方です」
「私は……しきたりや作法に馴染めないのではなく、自分に自信がないのですね……」
大きく肩を落とすミアにレズリーはなにも言わなかった。それをわざわざ肯定する必要もないという配慮からだろう。
そう、自分に自信がないのだ。
攫われるのも同然にアルフェルドにつれられて、心の準備もできぬままに王宮へ来てしまったミアには、アルフがこの国の第二王子で、自分が妃になるのだとはとうてい実感がわかない。
ちらりと寝転がっているアルフを見る。
自分の中ではまだアルフェルドよりもアルフといた時間のほうが長い。
「ミア様。たとえ高いところから見下ろそうと、どんな呼び方をしようと、堂々たる威厳がないのでは相手はミア様を認めてはくれないでしょう。逆におだやかにほほえむだけの仕草であっても、気品があれば人はかしずくのですわ」
アルフがこちらをふりむく気配がした。
どきんと鼓動が音を立てる。
「知らないことに戸惑うのは当然です。だからわたくしがいるのです。一緒に学んでゆきましょうね」
レズリーの笑顔には自信が満ちている。
彼女は、教師としての自分に誇りを持っている。それがわかる立ちふるまいだった。対して自分はどうかといえば、おろおろと狼狽えるばかりだ。
おまけに、もう一つの問題に、ミアは気づいてしまう。
「アルフェルド殿下のために王宮に入ろうと決心なされたミア様ですもの。必ずや立派な妃になりますわ」
レズリーの信頼たっぷりの言葉に、ミアはあいまいな笑顔を返した。
――自分はアルフェルドに、恋愛感情を持っているのだろうか?
***
昼食は、宣言どおりアルフェルドの部屋でとった。
食事をならべさせたあとは給仕も侍女たちもさがらせて、正真正銘の二人きりだ。扉の向こうには皆がひかえ、呼び声一つでいつでも駆けつけられるよう待機している。
しかしアルフェルドはあまり気にした様子もなく、のびをすると大きく息をついた。
「はー、これでやっと気が抜ける」
言った途端、少年の頭には狼の耳が生えていた。ついでにズボンの後ろからは尻尾がのぞく。
やはりこれはよろしくないのではとミアは思う。
狼の耳は髪の隙間から突き出ているだけだからいいのだけれど、尻尾が……ズボンや、さらには下着ともどう折り合いをつけているんだと気になってしまう。いきなり脱げたりしないのだろうか。
ちらちらと視線を送っていると、気づいたアルフェルドがすくと立ちあがった。そのまま背を向けられて、ミアは思わず「ひゃわっ」と声をあげた。
「ん? 魔力に反応して形を変える、人工繊維でできた服だ。ミアの期待するようなことにはならん」
「き、期待ではないです。心配です」
くすくすと笑い声がふってくる。
アルフェルドの言うとおり、ズボンの尻の部分は尾のつけねだけを避けて、ぴったりとつつみこむように生地が折られていた。もちろん肌は見えない。落ちそうになる心配もない。
席についたアルフェルドは、カトラリーに手をのばした。
「なにも心配はいらぬ」
その言葉がほかの意味も含んでいるように思えてミアは顔をあげる。
視線のあったアルフェルドは、にやりと口の端をつりあげた。
人の姿になったアルフェルドはまだ幼さの残る少年だ。ミアにとっては真ん中の弟と同じ歳。
細い絹糸のような銀髪、紫の眸という色彩も相まって、その容姿には華奢な印象さえある。
けれども、眸の奥に煌めくのは、肉食獣の自信。
「ミアは俺を好きでなくとも、この国のことは好きだろう。ならば自分を信じてやればいい」
「――……それは」
ミアの逡巡に、気づいていたのだ。
「逃げようとは思わぬことだ。みすみす逃す気はないからな」
ふっと笑ったアルフェルドは視線を下げ、切り分けた肉を口元へ運ぶ。
薄くひらいた唇から見える、並びのよい白い歯。それはあの夜、ヘンリックをかみ殺そうとした存在が持つ牙と同じもので。
ミアの感情など関係なく、あらゆる手を使って《番》であるミアをこの城にとどめおく気であると、アルフェルドは言っている。
そくりと背筋をのぼったものは、なんだったのか。
恐怖に限りなく近い、でも恐怖ではないもの。
どきんどきんと鼓動を打ちはじめた胸に手をあて、ミアは息をついた。