14.殿下ですなんて言えない
妃教育は複数人の教師により行われるそうだ。
その中でも年長のレズリー・マイケン女史が監督であり教師たちの管理者であるという。
名前だけを聞いていたときには厳しそうなイメージを持っていたが、会ってみれば母を思い起こさせるふくよかな体格のやさしい女性だった。
アルフはまたもやミアにくっついてきて、丸くなって床に寝そべっている。絨毯の敷かれたミアの部屋とは違い、ここは大理石の床である。人である時間のほうが長かったはずのアルフは冷たくないのだろうか。
そわそわと視線を走らせていると、レズリーが部屋の隅からクッションを運んできた。
アルフの前にしゃがみこみ、クッションを見せてから床に置く。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
言ってから、自分が礼を言うなんて変だったかしらとミアは思った。
アルフはゆっくりと身を起こしてクッションの上に横たわる。リラックスしているらしい。
ミアの礼をレズリーは気にしなかったようだ。
目尻の皺を深めながら、にこりと笑う。
「いいえ、ミア様がおつれの犬は好きにさせよと言いつかっておりますから」
「……」
犬ではなく狼なのだが。
指摘する勇気はなかった。言いつけた主はアルフェルドだろうから本人も納得してるということだ。それにもっとも重大な事実は種類が狼であることではなく中身が第二王子であることである。
それに……いまさらだけれども、アルフが己の飼い犬として見られていることにミアは気づいた。滅相もない話だ。どちらかといえば突然連れてこられてわけもわからぬままに飼われているのは自分で……。
(いやいや、なにを考えているの)
ミアの煩懊に気づかぬまま、レズリーはいたわりの表情を浮かべた。
「慣れない王宮生活はたいへんでしょう」
「……いえ、まだ、なにもしていませんから……」
ミアは控えめな否定を口にした。
たしかに大変で、疲れている。
でもそれを口にしてはいけないくらいの分別はある。子爵屋敷では使用人とともに掃除だって花壇の世話だって、たまにはベッドメイキングだって自分でしていた。皆の大変さは知っているのだ。
途端、レズリーの口から、ふふっと笑い声が漏れる。
「合格です、ミア様」
「合格?」
「と、わたくしが申しあげるのはおこがましいですね。ミア様はいちばん大切なものをもっておられるということです。安心しました」
「いちばん大切なもの……」
「下々の者を思いやるお心ですわ」
なんと答えればよいのか悩みつつ、ミアはもう一つのことにも気づいた。レズリーがミアの視線の意味を理解しアルフにクッションをさしだしたのは、彼女もまたアルフにやさしい気持ちをもっていたからにほかならない。
「この王宮には、それが欠けていました。そしてわたくしたちも声をあげることはできなかった」
レズリーは眉を寄せ、顔をうつむけた。
沈痛な表情にドキリとする。彼女の後悔が伝わってくるようだった。
妃教育の教師になる身分とはいえ、政治的な立場はないに等しい。ミアの父親もそうだった。諫言をしたことで王宮を追いだされた。
行動に移さず口をつぐんだ人間はたくさんいただろう。しかしだからといって、彼ら彼女らが心を痛めていなかったわけはない。
「ミア様は立派なお妃さまになれますわ。わたくしがお手伝いいたします」
レズリーはミアの手をとった。両手をしっかりと握りしめられ、ミアより少し背の低い彼女は顔をあげるとまっすぐにまなざしをむけた。
「以前のわたくしは、アルフェルド殿下のお力になれなかった。だから選んでいただけて本当にうれしいのですよ。誠心誠意お仕えいたします」
「ありがとうございます……こちらこそ、よろしくお願いします」
ミアもまたレズリーの手を握りかえす。
ちらりとアルフを見ると、銀狼は身体を丸くしてそっぽをむいていた。顔を見せないようにしているのは気恥ずかしいのに違いない、と普段あまり読めない彼の心情を、そのときだけミアは確信した。
ミアのあとを必ずついてまわるアルフの意図を理解できていなかったけれど、なにか意味があるに違いない。この人選にも。
「アルフェルド殿下も、お気持ちはわかっておられます。あまりご自分を責めないでください」
アルフェルドも、自分の父もそう言うはずだ。
彼らはかばってくれなかったほかの者たちを恨むような人間ではない。
ミアの言葉にレズリーは一瞬、驚きを表情にあらわした。
それから、皺のある目尻にうっすらと涙が浮かぶ。「失礼しました」と詫びながらレズリーはそっと涙をハンカチでぬぐった。
「ありがとうございます」
笑顔の戻ったレズリーに、ミアもほほえむ。
そんなミアを前に、レズリーはなにかを決心したような顔になった。真剣な表情はこれから告げられることが冗談ではないことを表している。
ミアもまた緊張に身をひきしめる。
「ミア様、申しあげておかなければならないことがございます」
そして、声をひそめて囁かれたのは。
「王妃様の布かれた緘口令で、一部の貴族や古株の使用人しか知らないことですが――アルフェルド様は、フェンリルの血を継いでいらっしゃるのです」
「……まぁ……」
なんとかそれだけ返事をするのがやっとだった。
「ご兄弟の諍いの原因はそこにあったのです。信じられないことだとは思いますが……」
「いえ、信じますわ」
正体を知っていることを明かしたほうがよいのだろうかと迷いつつも、そこに寝ている犬が実は狼で、その殿下本人ですとは言えない。
また自分が選ばれたのはアルフェルドがミアを番だと思い詰めたせいだというのも、言いだしづらい。
(緘口令が布かれていたのね……)
どうりでこの国にフェンリルがいたことをミアも知らなかったし、侍女たちもアルフの正体にまったく気づいていないはずだ。
これまでは、第二王子がフェンリルであることを知れば処罰が待っていたのだろう。
いまだってどうなるかはわからない。王宮の情勢はまだ収まりきっていないはずだ。
ミアはふたたびアルフに視線をやった。
アルフはやはりそっぽをむいて寝たふりをしている。
今度は恥ずかしいのではなく口止めだ。背中全体をこちらにむけている姿からは、「言うなよ」という無言の圧力が放たれている気がした。