10.アルフェルドの過去(前編)
アルフェルドを生んでからしばらくして、その母はこの世を去った。
もともと病弱な体質だった。それでも産みたいという母親の愛と、王の子ならば確保しておきたいという臣下の打算が一致した。すでにヘンリックの立太子は確実なものだという正妃の驕りもあっただろう。
そうしてアルフェルドは生まれ、たった数年という短いあいだではあったが、母の愛情を目いっぱいに受けて育った。
もともと伯爵家出身で愛妾の位置づけであった母は王宮内での権威などほとんどなく、本人もアルフェルドさえいればいいのだとつつましく暮らしていた。
母亡きあともアルフェルドに野心などなにもなかった。
正妃マリエッタに邪心があるのは見抜きながらも、物心もつかぬ子どもにできることなどない。それよりも我が身を守るためには、目立たぬよう生きるだけ。
それは成功した。ヘンリックの驚異になりえぬアルフェルドを、王妃についた者たちは無視した。そのころにはまだ国王も愛妾への寵愛を覚えていたから、表だってアルフェルドを傷つけようという者はなかった。
危機が訪れたのは、アルフェルド八歳のときである。
アルフェルドの中に流れる《聖獣》の血が、突如として発現したのだ。
銀の狼に変わってしまった己の姿を、アルフェルドは驚きに満ちてながめた。
鏡に映るのはたしかに狼だ。しかし自分が意志を持って手足を動かせば、そのとおりに動く。
王国にはフェンリルの伝承がある。
その昔、姦計により傷を負ったフェンリルが荒野で死を待っていた際、一人の乙女が現れた。乙女はかいがいしく彼に仕え、傷を癒した。フェンリルは乙女に感謝して彼女を娶り、その地で王国を打ち立てた。そのような建国神話だ。
年に一度のフェンリル祭は、この起源を人々に語り、王家の権威を高めるための祭りだった。王家にはフェンリルの血が流れている。王家はフェンリルの子孫であり、その加護を受ける。
王宮とならんで建てられた神殿もその象徴だった。
しかし時代は流れ、人々はそれをただのなじみあるお伽話だと信じるようになった。
まさか実際にフェンリルの血が流れているなど。
しかもそれが妾の子であるアルフェルドに強く発現してしまうなど。
当のアルフェルド本人にも、信じることが難しいくらいだった。
無論、困惑につつまれたのはアルフェルドだけではなかった。
これまでヘンリックをかつぎあげてきた者たちも、それに逆らう術を持たなかった者たちも、この事態をどう考えればよいのかわからなかったのだ。
混乱しているうちに主導権を握ったのは、王妃マリエッタとその実家のフックス公爵家であった。
彼らは血筋の正統性よりも迷信を重視する蒙昧な家臣たちを非難した。
過去の遺物に拘泥することは国の先進を阻害すると、もっともらしい言葉で王を説きふせた。表面上は信心ぶかい貴族たちも、金をばらまかれれば目に見える御利益を選んだ。
彼らによってフェンリル祭は廃止され、それに異議を唱えた者たちは王宮を追放された。
国民の反発は大きかったが、そんなことは王妃たちの知ったことではない。
国の保護を失った神殿は精彩を欠き、数年のうちに驚くほどさびれていく。人々はフェンリル祭をなつかしみながらも、王妃派の思惑どおり徐々に国の守護獣を忘れた。
「それ見たことか。金より銀が貴いはずがない。兄より弟が秀でている理由もない」
ヘンリックの蔑みと嘲笑を、幼いアルフェルドはじっと耐えた。
刃向かわないことが恭順を示す一番の道だ。殴られても蹴られても、王族とは思えぬボロ服をまとわされてもアルフェルドは黙っていた。
王妃派はすでに家臣を王宮から追放するという強硬手段をとった。このうえ自分が何か意志を示せば、国が割れる。
ただしいことではないとわかっている。それでも、より混乱を招く方向へ国を率いるのは、第二王子としても守護獣フェンリルとしても、やはりただしくないことだろう。
自分には力がない。
ただしずかに、時機を待つのだ。
アルフェルドは冷静な眸で状況をただ見守りつづけた。
そうして数年がたち、民の目がフェンリルから逸れ、貴族たちの目がアルフェルドから逸れたところで。
王妃は突如として命を下した。
第二王子アルフェルドに謀叛の疑いあり、かの者は自身を聖獣と偽りし魔獣なり。
討伐せよ、と。
アルフェルド十三歳の秋であった。