1.怪我をした狼を拾いました
晴れわたった空を切り裂くように冷たい風の吹きすさぶ、冬の入り口だった。
屋敷の大きさに比べそれなりに広さのある庭の手入れを終え、かじかむ指先を吐息であたためていたミアは、渦を巻く強風の中に人の声を聞いた気がした。
王都の外れにあるこの子爵家を訪れる人は少ない。正義感の強かった父親が失脚の憂き目にあってからは皆無といってよい。派閥争いの余波を受けて婚姻の整わないまま歳を重ねてしまったミアを指さす者もいたけれど、わざわざこんなところまで笑いにはきまい。
しかし耳をすませば、やはりびゅうびゅうと鳴り響く風音の合間に男の叫びが聞こえる。
(……なんだろう?)
玄関の前を横切り、屋敷の裏へと足を向ける。屋敷の背後には鬱蒼とした森がそびえている。この秋晴れの突風に葉を散らしながらも、森はやはり日光を通さぬ厚い影をつくっていた。
と。
その森から、黒い小鳥たちが幾羽も飛びたった。逃げるように、しかしゆく先もないようで風にあおられながら森の上を旋回している。
チィチィと鳴く鳥たちをながめ――地上に視線を戻して、ミアははっと息をのんだ。
目の前に、銀色の狼がたたずんでいた。
銀の狼は森と庭の境界線で歩みをとめ、紫の眸でミアをじっと見つめている。
後ろ足はまだ森の影に隠れて見えない。敵意はまるで感じられなかった。むしろ狼はミアを警戒している。ここで声をあげれば狼は森へと去るのだろうと直感した。
そのほうがいいはずだ。ここは人の棲み処、狼には元いた場所へ帰ってもらったほうが。
そう思うのになぜか、追いはらう声が出ない。
「……!」
緊張に縛られたまま視線を動かしたミアは、狼のわき腹に大きな傷を見つけた。腹を斜めに、一直線にまたぐ傷は、銀の毛なみに変色しかけた血をまとわせている。よくよく目をこらせば、牙のはえた大きな口からも赤黒い血がたれていた。
死の気配が銀狼をつつんでいた。
それも、徐々に濃くなり、やがては銀毛を染めきってしまうだろうほど深刻な。
しずかに息をすいこみ、ゆっくりとはく。
尖った耳がぴくりと揺れる。森へと向いていた両の耳先がともにミアに向かってひらかれる。
けれども銀狼は逃げない。ミアの意志を理解しているかのように。
ゆるりとほほえみを浮かべ、できうるかぎりの落ち着いた声で、ミアは告げた。
「《治癒魔法》が使えます。……怪我をしているのでしょう?」
「中へ、入っていろ。外は危険だ」
答えはすぐだった。
狼の口吻からくぐもった言葉がつむがれると同時に、数滴の血が地面へと落ちた。ミアは驚かなかった。いや、驚いたけれども、それを表に出さないだけの心の準備ができていた。
彼がただの野獣ではないことは、理性的な目を見ればわかる。言葉を交わしたことでそれは確信に変わった。
「なら、あなたもどうぞ」
「いい。かまうな。……ほうっておけ」
「ほうっておけば、あなたは死ぬのではありませんか?」
森へと戻らないのならば、背後から迫るのは銀狼にとっての危機。躊躇しているのはミアをおもんぱかってのこと。それがミアの推測だった。
「俺にかまうな」
狼の表情に一瞬だけ戸惑いの色が浮かんだ……ように、ミアには感じられた。鼻すじに皺が寄り、耳が下を向く。それから背後の森をふりかえり、またミアを見た。
ミアを責めている目だった。きっとこの狼は、ミアに逢わなければ人知れず骸になるつもりだったのだろう。それが、……どうやらその決心が、揺らぎはじめているようだった。
自分のなにがそれほどに狼の心をかき乱しているのかはわからないが。
ミアからすれば、よい兆候だ。
目を逸らしたら負け。
ふたたびあった視線を真正面からとらえ、ミアは紫の双眸を見据えつづける。徐々に翳りをおびていく眸は、いまにも光を失いそうに見えたが。
やがて、観念したように息をつくと、銀狼はゆっくりと身体を動かした。
銀糸に輝く全身が太陽の下にあらわれる。やや色褪せて見えるのは失われつつある生命のせいだ。
後ろ足の付け根には二本の矢が刺さっていた。傷む足をかばうように震わせながら、狼は歩く。ミアもまた駆けよった。
狼は傷をさらしながらどさりと倒れた。もはや立っていることすらできないのだ。
「俺は討伐対象だ。お前もまきぞえを食うぞ」
「そんな。あなたは聖獣ではありませんか。王家を守護するはずの」
「ほう、そんなお伽話をまだ信じている輩がいたのか。敬虔なことだ」
長い口元が弧をえがいてつりあがる。皮肉を言われたのだとわかったがミアは何も言わなかった。それよりもまずこの銀狼を癒してやらねば。
(月と知識の女神よ、癒しの御業を顕し賜え……)
両手を組んで女神に祈りをささげる。
魔力が身の内からわきあがってくるのが感じられた。あたたかな魔力が身体の中心から腕へと流れだしていくのをたしかめ、銀毛に覆われた腹へと手をさしのべる。
すべてを治すことはできないが、止血をして傷をふさぐくらいならできる。
ミアが魔法を使う様子を、銀の狼はしずかに見守っていた。
矢を引き抜かれてもうめき声の一つも立てなかった。傷口の様子で矢に毒が仕込まれていたことを知り、ミアは眉をひそめた。
銀の狼といえば王国の守護獣である《フェンリル》だ。しかも見たところまだ子ども。フェンリルは成長しきれば馬車ほどもある大きさになるはずで、普通の狼と変わらない体長の彼は手傷にひどく衰弱している。
(誰がこんなひどいことを……)
念入りに傷のあった箇所を撫でているあいだに、狼はくんと鼻を鳴らした。
「お前、この国は好きか?」
突然の問いかけに顔をあげる。
守護獣たるフェンリルは、もうこの国に愛想をつかしてしまうのだろうか。貴族たちは私腹を肥やし、神を恐れなくなった。ミアの父親はそれを糾弾し左遷された。
それでも、生まれ育った国だった。この国にしかないものがたくさんある。
「はい、好きです。私はこの国のためになりたいと願っています」
「そうか」
狼の答えはそれだけだった。両足のあいだに顎をおき、ふーっと鼻からながい息をつく。
どのように受けとられたのかと思ったもののまずは治療に意識を戻す。
解毒の魔法をほどこし、足の傷もふさぐと、ようやく紫の眸に光が戻った。血と泥に汚れていはするが、毛なみも銀の輝きをとり戻しつつあるようだ。
ミアはほうっと安堵の息をついた。
狼は身体をふるわせ、のっそりと立ちあがる。
「礼を言おう」
「いえ、まだ――」
回復するまでは家へ、と言いかけたミアの言葉よりも早く。
地面を蹴ってのびあがったかと思うと、銀の狼はミアの頬を舐めた。
つるりとした感触が頬を撫でていく。
「お前がこの国を愛するなら、俺もこの国を愛そう。またくる、未来の番よ」
「あっ、ちょっと!」
咄嗟にのばした手は、やわらかな尻尾の先に触れただけだった。
刷毛のようなこわい手触りを手のひらに残して、後ろ姿さえも見せずに狼は消えていた。
森へ戻ったのだ。
それはわかるのだが――去り際に残した台詞が。祝福のあとに続けられた《未来の番》という言葉が、どことなく不穏なものを感じさせてミアは眉を寄せる。
己の回復魔法が役に立ち、フェンリルの心をやわらげたのならよろこばしいが。
それ以上に、厄介な引き金をひいてしまったような気がする。
いつの間にか風はやみ、小鳥たちは巣へ戻ったようだった。
そういえば聞こえていた男の声はやんでいた。
あれは狼の声とも違ったように思えたのだが。
***
そのころ、樹々に覆われた森の暗がりでは、銀狼と王国の兵たちとが、茂みを挟んで対峙していた。
狼はすでに先ほどの様子とはまったく違っていた。銀の身体はミアが訝しんだときの三倍ほどに巨大化し、毛なみは燃えさかる炎のようにさかだつ。
たくましく育った足元には意味をなさなかった毒矢の残骸が転がっていた。
本来の力をとり戻したフェンリルに、人間の武器など通るわけがなかった。
隊列を組んだ兵士と銀狼はたしかに向かいあってはいたけれども、それはもはや対峙というにはおこがましく。
青ざめてがたがたと震える男たちをながめて上機嫌に尻尾を揺らしながら、フェンリルはにんまりと笑った。
「お前たちは生かしておいてやる。俺の番は殺生を好まぬふうだったからな。だが――」
うっとりと細められた狼の目には、ミアの姿が映っている。
死を覚悟した己の前に番となるべき人間が現れたのは、女神による《運命》――そう狼は結論づけていた。
この国にも命にも未練はなかった。
しかし愛しい番が暮らす土地となれば話は別だ。
「兄上には……表舞台から消えていただこう」
その言葉を、叛逆だと咎められる者はその場にはいなかった。