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作者: 満月五月

「クリスマス」「戦争」「ガラスボトル」のお題で書いた短編です

 冴え渡る冬の夜。(しろがね)色の月が落とす霜のような光が、綿津見の穏やかな水面を静かに照らしている。波が砕ける音は遠く、どこまでも続く凪いだ海。その底なき濃紺の水面に、小さな小舟が一艘、月華を受けて浮かんでいた。


 舟の上にいるのは、一人の若者だけ。纏う藍の衣には、この辺りを統べる主付きの医師(くすし)団であることを示す紋様が染め抜かれ、背の中ほどまで伸ばした髪は、飾り紐で一本に結われている。身につけたそれらが示すのは、彼が医師団に属する若き良医であるということだった。


 彼は舟の上で月を眺めていた。衣に染み付いた薬草の残り香と潮の匂いが、彼の鼻をくすぐる。音といえば、小さな波が舳先に当たる水音だけで、他は静かに月が浮かんでいるばかりだ。陽が沈む頃にここに来た彼は、月が天頂へと上りきるのをずっと待っているのだった。


「いい月だ」


 ふいに若者が口を開いた。もちろん、彼の言葉に答えるものはいない。波間のしじまに、彼の言葉は消えていく。


「あなたたちを弔うには、いささか美しすぎる」


 彼の手には、一本の壜が握られていた。庶民はお目にかかることさえないような、繊細な装飾の施された優美な品だ。ただ、財に星の一粒ほどの興味も示さぬ彼には、手に余る一品でもある。弔事に用いるにも瀟洒すぎるが、美しい品であればこそ、これに入れてやりたいというのも彼の心だった。玻璃の中には、白く細かな粉が半分ほど詰められていた。





 一月前の戦で、多くの者が命を落とした。


 智慧に恵まれおおらかな主は若く、そして優しすぎたのだ。老獪かつ豪胆な隣国の長は手強く、容赦がない。彼は経験豊かな先代が崩御するのを虎視眈々と狙い、今の主になった途端に激しい侵攻を始めた。主はこれまで、民を巻き込まぬよう国境近くで布陣を敷いていたが、今や領内にも戦火は広がりつつある。戦況は悪化するばかりだった。その結果が、一月前の戦だ。


 兵が足りず、主は草兵動員という苦渋の決断をせざるを得なかった。村々に課せられた出兵人数を埋め合わせたのは、身寄りのない者や奴婢ばかり。彼らは貧弱な得物と粗末な鎧だけを恃んで戦地に赴き、、そしてあっけなく散っていった。誰にも顧みられぬ、泥にまみれた戦場でひっそりと──。


 遺された身体に、引き取り手などは当然付かぬ。まとめて荼毘に付したが、名も出身も知れぬものばかりだった。故郷に返してやることもできず、仕方なく戦さ場のそばに小さな碑を建てて埋めるしかなかった。


 この壜の中に入っているのは、その一部だ。水の豊かな彼の故郷では、昔から、戦で死んだ者は水葬をするという習わしがある。静かに土に還るのみでは、あまりに報われぬ。彼は頭領の承諾を得て、今宵ここに来ているのだった。





 青年は、故郷で唱えられていた弔いの詩を唱え、その壜をそっと水面に浸けた。


 この粉のどれほどが、酷い死を迎えた者の骨かは想像に難くない。酷い戦だったと聞いている。主に仕える身である手前、決して口にはできぬが、この戦に勝ち目などなかった。それでも続ける他はない。ここで降伏すれば、民の扱いは奴婢同然になってしまう。この先も、死に絶えるまで争い続けるのだろう。


「せめて、あなたたちは安らかに」


 今宵は、西方では聖夜なのだという。偉大な神の生誕を祝う祭りなのだそうだ。この荒れた故郷より遠く離れた彼の地なら、死にゆく彼らにも手向けがあるかもしれない。顧みられなかった彼らが、西方でなら天の慈愛を受けるかも知れない。祈るのは、ただ安らかな眠りだけだ。願わくば、次の世でこそ幸福な生を歩まんことを。


 若者は、天頂の満月が映る波間に壜を放した。ちゃぷちゃぷと音を立てながら、それは船を離れていく。彼は澄み切った闇の中に紛れていく玻璃の骨壺を、見えなくなるまで長いこと見送っていた。

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