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やさしい世界

作者: 春花とおく

ある青年は寝転がって、漫画を読んでいた。彼はもう三十も半ばになるが、定職についていない。特に、今はバイトをクビになり、する事もなかったためにダラダラと過ごしていた。所謂、最近で言うところの、ニートというやつだ。


こんな生活を続けて、かなり経つ。その間に筋力は衰え、であるが日に日に身体は横に大きくなる。

彼の母親はそんな青年を心配し、最近ではほとんど泣きつくように「まっとうに生きてくれ」と言うのだ。流石の青年もその時は情けない気持ちになる。

しかし、彼はまったく行動に移さない。


いったい、どうしてこんなことになったのだろう。


そう青年は考える。が、人に触れずただネットを見たり漫画を読んだり、頭を使う習慣のなくなったために頭は上手く回らない。俺は悪くない。周りの大人が定職につけ、外に出ろ。そう、耳が痛くなるほど言うものだから反抗してしまうのだ。俺は悪くない。周りが厳しすぎるのだ。もっと、やさしくしてくれれば…


その時、廊下から物音が聞こえた。母親が来た、と青年は身構える。どうせ、働けと口酸っぱく言われるに決まっている。


彼の予想通り、ドアを開けて入ってきたのは母親だった。最近、目にはクマができ、シワが目立つようになってきた。


「ねえ、あなたのおじさんがいい職場を紹介してくれるって…」


「うるせえな。やる時は自分でやるよ」


いつもなら母親は悲しそうな顔をして、引き下がる。

しかし、この日は違った。すうっと息を吸うと、大声で言ったのだ。「もう我慢の限界よ!じゃあ自分で生きてみなさい!」そして、青年を家から追い出したのだった。



「なんて厳しい母親だ」


それでも青年はブツブツと言うのだった。


しかし、そうは言ってもお金は無く、寝る場所を借りるあてもない。

彼は公園で一夜を明かすこととなった。

寒空の下、彼は手を擦り、少しでも暖を取ろうとした。傍目では何かに祈っているようでもあった。

実際、願ってはいなかったが、呟いた。「皆が俺にやさしい世界だったらいいのに」


その時、奇跡が起きた。


目の前に老人が現れたのだ。その老人は月も出てないのに、何故か光輝いて見える。まるで、神様のようだ。いや、それそのものだった。


「ひとつ、願いを叶えてやろう」神は言った。神はたまたま近くを巡回していたのだった。比較的平和な日本では、仕事も多くない。暇を持て余していた所に、祈りが届いたのだ。暇つぶしのつもりで、神は言ったのだった。


「ああ神様。どうか、全ての人が僕にやさしい世界にして下さい」


青年は疑うこともなく言った。


「本当にそれでいいのか?願いは、一度きりだし、やり直すことは出来ないぞ」


青年が「ええ」と頷くと、神はなにやら呪文のようなものを唱え始めた。すると、なんとなく空気が変わったような気がする。


「お前の願いは叶えてやった。さらばだ」と神は言い残して、消えた。煙のように消えたものだから、どうやらこれは本当らしいと青年は思う。


やさしい世界になったということで、青年は家へ向かう。やさしい母親なら暖かく迎え入れてくれるだろう。そして、働かずとも何も言わまい。周りの口うるさいやつらも、みんな、許してくれるに違いない…

そう考えながら家のドアを開けると、目前に母がいた。


「お前が家賃を払わないなら家にも入れないよ!さっさと出ていきなさい!」


青年の予想を裏切って、母親はそう言った。本当にやさしい世界になったのかと、疑問が浮かんだ。さらに、「求人情報を貰っておいたから持っていきなさい!」とまで言う。俺の母親はやさしい世界でも口うるさいのだ、疑問を頭の隅に押し込んで、青年はそう考える。


仕方なく公園のベンチで寝た。固いは寒いわで、到底安眠とは言えなかったが、それでも「やはり俺は一人で生きていけるのだ」と青年は自信を持った。


寝不足で冴えない頭のままこれからどうしようと思う。働こうか…いや、母親も幾日か経てば許してくれるだろう……


あてもなくふらついていると、知った顔に会う。思い出せば、高校時代の友人であった。彼は、たいそうやさしいことで有名で、皆から信頼されていた。そんな彼なら、今の俺も何とかしてくれるやも知れぬ。なにせ、やさしい世界ときたもんだ。


「やあ、久しぶりだね」と青年は言う。「やあ、こんな時間にふらついてどうしたんだい?」そう言った友人はスーツ姿で、通勤途中だろうと思われた。


「それが、今家を追い出されて困ってるんだ。助けてくれないか」青年は友人がかつてのように助けてくれることを望んだ。しかし、その友人は冷たく突っぱねたのだった。「無職なんだ。はやく働きなよ。僕の上司に掛け合ってみようか?それにしても、こんなところでうだうだしてる暇はないよ」


かつてのようなやさしい口調ではあったが、その言葉は冷たく、青年を見下しているようにも感じた。彼でさえも俺に厳しいのか。青年はほとんど泣きそうになって退散した。


一度ならずも、二度もやさしくない人に会った。これは、本当にやさしい世界になったのだろうか。先程の疑念が自己主張を始め、青年は思案する。


そして、最も彼に甘い、祖母の家に行こうと思い立つ。祖母までもが厳しいことを言うのならば、あの神はニセモノだ。


チャイムを押して、出てきた祖母は開口一番に言った。


「あら、仕事はどうしたんだい?」


青年はゲンナリした。だが、これは祖母なりの冗談かもしれない、普通の祖母ならそんな事は言わない…そう思いなおし、「家を追い出されて困ってるんだ」と言った。


「あらあら、それは困ったねえ」


いつも口癖のように言うそのセリフを祖母は言った。

青年はゲンナリした気持ちはどこへやら、安心感に打ち震え「だからさ…」と続けようとする。それを遮るように祖母は手を振った。


「孫がこんなだって、おばあちゃん恥ずかしくて外も出歩けなくて困ったものだよ」


青年はハッとした。祖母はふざける風でもなく、至って真面目な顔だ。いつも「あなたはあなたのやりたいようにやればいいのよ」という口で「早くまともに働いてくれればいいのに」と言っている。


どうやらこれはおかしいぞと青年は思う。


あの髪を名乗る老人はただのインチキジジイだった。

手品か何かで消えた風に見せかけて、いたいけな若者を騙す性根の腐った老害だったのだ…疑惑はだんだんと怒りに変わり、知らず青年は祖母の家を出、走りだしていた。


しかし、やはりどこにも行くあてもなく、この怒りを晴らす矛先も見当たらない。腹いせに犯罪でも起こしてやろうか、すれ違う女を横目に思う。

その女と目が合ったと思った瞬間、彼女は露骨に嫌な顔をした。青年は怒りよりも、悲しみに打ちひしがれた。誰も俺に優しくなどないのだ。俺は家どころか、この世から追い出されるべき存在なのだ…


気がつくとどこかのビルの屋上にいた。看板が目に入る。「△◇商社」その名に見覚えがあった。確か、叔父の会社だ。あの優しくない母親に紹介された、忌々しい会社。


残酷な考えが頭をよぎった。


青年はあまり高くない柵を乗りこえ、ビルの縁に立ち、地上を見下ろした。


大通りでは多くの人々でごった返しているが、ビルを見上げるものは一人たりともいない。皆疲れていて、下を向いているのだ。青年は思う。この世界は優しくなんてない。この世には神も仏もないのだ。


そこでまた奇跡が起った。


目の前に、いつかの老人が、神が現れたのだ。

どう見ても浮いているようにしか思えない。優しい世界にはしてくれなかったのに、神であるのは間違いないのか。忘れかけていた怒りがまたふつふつと湧いて出てくる。


「せっかく願いを叶えてやったのに、どうしてそんなことをする」


神は言った。


「おい、お前はインチキ神様だ。全く優しい世界にはなってないぞ」


青年は目をいからせる。とうとうとこの一日の事を語る。神は何も言わずに聞いている。


「もういい、死んでやる」


そして青年は言った。


「おい、待て。それは困る」


神は青年を制止した。


「どうしてお前が困るのだ。俺はもうこんな冷たい世の中にはうんざりなんだ」


「いや、そもそも母親や、かつての友人、祖母が働く事を勧めたのはお前を思ってのことなのではないか。彼らはお前がいい人生を送ることを願い、今の状況を抜け出させるために、自分が嫌われ役になってまでお前のことを考えたのだ。つまり、彼らは真にお前に『優しく』したのだ」


「ええい、そんなこと知るか。どれだけ俺の事を考えていようが、それはお節介と言うもんだ。俺の思うようにならない世界なんて『優しく』ないんだ」


青年は飛んだ。


世を恨むどころか、むしろ自分を誇らしく思うような、そう感じさせるような跳躍、いや、飛翔と言ってよかった。


落下していく青年を眼下に神はため息をついた。


「はあ……あれ程自分を思ってくれる人がいたというのに。どうも人間には優しさを取り違えているものが多い」


普段から人でごった返す大通りにはさらに人が集まっていた。何やらかを囲むように、円になっている。

その中心にはくたびれた青年がいて、時々嬌声が聞こえる。数人項垂れている者もいた。


「それよりも…どうしたものか、仕事も少なくなった上にちょっかいを出して人を殺してしまうとは…神の座を降ろされてしまうかも知れない。私は悪いことをしてはいないのに…この世は神にまでも優しくないというのか」


神はふと思い立って、浮遊をやめてみた。


神は一直線に落下する。




人々は隣でドサリと音がなったのに気が付かない。


気付いたものもいたかもしれないが、その方を見ても何もないのだ。そこでは見えないまでも、神が倒れていた。神とはいえ、見えないだけで実体はあるのだ。


人々は神が死んだことに気が付かない。


人々は『優しい』世界が永遠に消えたことに気が付かない。

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