透明な輪郭
朝倉さんは綺麗な人だ。
大学を卒業するまでバレエをやっていたらしく、社会人三年目の今でも背筋はぴんと伸びていて、指先まで気が配られているような、洗練された仕草をする。
立ち居振る舞いの美しさが際立つのは、服装とか髪型とか、身なりに気を遣っているためでもあるだろう。
「あれ、朝倉さん、化粧どうしたの」
だからデスクで顔を合わせるなりそんな言葉が口をついてしまったのだ。
色むらのあるファンデーション、左右非対称の眉、上がっていないまつげ、はみ出した口紅。いつもの彼女らしくない、まるで子どもに化粧をされたとでも言えそうな顔だった。
ああしまった、と思ったのは、周囲の人々が凍り付いたように固まったからだけではない。
まぶたに何ものっていない目が大きく見開かれ、みるみる潤んでいく。俺に差し出しかけた書類が震える。
「今日、寝坊しちゃって。ごめんなさい、見苦しいですよね」
「いや、そんなことは――」
雫がこぼれ落ちそうだ、と思った瞬間、彼女は書類を置いて執務スペースから出て行った。
もっと別の言い方があっただろう。そもそも指摘するべきだったのか。後悔する俺の脇腹が、横からつつかれる。
「いつも小綺麗にしてる女の子が突然ぼろぼろになってたらさ、何かあったんだって察してあげるべきじゃない?」
隣に座る藤木が、これだから男は、という顔でふんぞり返っている。同期の藤木はいつも俺に容赦がない。
「悪かったと思ってるよ」
「あとで楓ちゃんに謝りなさいね」
「やたら偉そうだな」
「楓ちゃんとは今度一緒にバレエ観にいく仲だから」
「お前にバレエの良さがわかるのかね」
「悔しいからって嫌み言わないでくれる?」
……悔しいなんて思っていない。
「田宮はさ、楓ちゃんのこと、ちょっと気になってるでしょ」
出し抜けに言われて、怯んでしまった。出来た間が肯定しているようなものだ。
「藤木には関係ない。……朝倉さんには後でちゃんと謝る」
始業直後で、フロアには人が多い。もう少し密度が減ったら、タイミングを見て謝りに行こう――そう思っていたものの、デスクに戻ってきた朝倉さんは鬼気迫る勢いで仕事にとりかかり始めた。
顔を洗ってきたらしく、血の気すら引いた必死な表情がよくわかる。声をかけたら今度こそ涙が零れてしまうのではないか、と様子をうかがうことしかできず、煩悶とした昼休憩から戻ってみれば。
「楓ちゃん午後休とったよ」
朝倉さんの姿はなく、藤木のため息が俺を待っていた。
朝倉さんはてきぱきと動く中で引き継ぎを済ませ、休暇を取ったらしい。それほど気分を害してしまったのか。唸るように、藤木の非難に応える。
「明日謝るよ」
「しっかりね」
言われなくても。好きな子に嫌がらせする小学生ではないのだから――そう思っていたのに、謝ることはできなかった。
朝倉さんは翌日も休んだ。その翌日も、次の週になっても。
「しばらく休みたいって連絡があったみたい」
藤木は言った。
「これは田宮の顔を見たくない以外に何かあるね」
冗談を呟きながら、彼女は頬杖をついて無人のデスクを見遣る。……顔云々は、冗談だよな?
「メッセージは送ってるけど、様子が変だし。返信も短くて、ちゃんと答えてくれないの。来週のバレエも行けないから他の人と行ってくれって言われちゃったし」
朝倉さんのデスク上は整頓されていて、人が使っていた気配がない。このまま埃を被っていくのだろうか。
「もしかしたら何か大変なことになってるのかも」
藤木の呟きが、耳に残った。
飲み会で連絡先を交換する藤木に便乗していたから、朝倉さんの連絡先は知っていた。
しかしトーク履歴にはひと往復のやりとりがいくつかあるだけ。同じ部署でもチームが違うし、ちょっとした連絡やお礼だけで終わっていた。
直接顔を合わせて、と考えていたが、最早そんな悠長なことは言っていられない。
『失礼なことを言ってしまって申し訳ないと思っています』
俺は朝倉さんに謝罪メッセージを送った。堅すぎるかと思ったが、軽すぎるよりは良いだろう。
『おきになさらず』
二十分後、返ってきたのはそれだけだった。これ、怒ってるだろう。謝ったところで俺の印象は最悪なままではないだろうかと思うが、それだけ傷つけたことに対して落とし前をつけなければならない。
『デリカシーに欠ける発言だったと反省しています。藤木にも怒られました。何か言いにくいことがあれば、藤木に言っていただければ善処しますので』
だから会社に来てください、と書きはしなくとも思いは込めた。すぐに既読マークがついたが、返事がきたのは十分後。
『ちがうんでし』
――『でし』?
誤字だろう、それはわかるが、なんだか携帯を持ちたての母親とメールしているような気分だ。今まで何度かやりとりした中では、誤字も、文章の短さも、返信の遅さも気にならなかったのに。
首を傾げていると着信画面に変わる。朝倉さんから――驚いて受話マークをタップする。
「もしもし?」
『あの、田宮さん、ごめんなさい、ちょっとその、スマホが使いにくい状況で』
「故障中?」
『ええと、その、目が悪いというか』
奥歯に物が挟まったような言い方だ。
「大丈夫だよ、誤字なんて気にならないから。そのために電話くれたの?」
つとめてゆっくり話すことを心がける。緊張で、つい早口になりそうだ。耳元で響く朝倉さんの声はこそばゆい。
『その、長文だと打ちにくくて。電話の方がお伝えしやすいかと思ったんですけど、今お時間よろしいですか?』
「うん、大丈夫」
『藤木さんに怒られたって書いてらっしゃいましたけど、大丈夫ですか? あの、紛らわしいタイミングでお休みとってしまって、もしかして田宮さんの責任になってしまっているのかなって思って。他の女性社員の当たりとか、きつくなってないですか』
脳裏にここ数日の出来事が思い起こされる。今日はなんだか暑いな、という課長の呟きに『いつも朝倉ちゃんが空調気にしてくれてたんですよ』と一瞥を寄越す先輩女性社員、『毎朝コーヒーマシンも用意してくれてましたよ』『あの書類だって』『備品だって』と援護射撃をする社員達。
朝倉さん宛の電話をたまたま取り、『朝倉さん今日もお休みなの? セクハラあったって本当?』と他部署の人間に聞かれたときはひやりとした。受け取り方は人それぞれだが、俺の言葉はハラスメントではなかった、と信じたい。
「……大丈夫」
『本当に、田宮さんのせいではないんです。わたしの都合で急にお休みすることになって』
「いつまで休むの?」
『……ちょっと、わからなくて』
「答えたくないならいいけど、理由は?」
『…………』
このまま電話を切られてしまうのではないかと思った。
――『もしかしたら何か大変なことになってるのかも』
藤木の言葉が頭を過ぎる。
「一度会えないかな?」
『え』
「大丈夫って言われても心配だし。俺はやっぱり、責任を感じるよ。話せる部分だけでも、会って話せないかな」
押しつけがましいかもしれないけれど、ここで引くことはできない。
『……わかりました』
意を決したように、彼女は返事をした。
「わたし、透明人間になってしまったんです」
化粧気のない、普段はかけていない眼鏡をかけた彼女は、至極真面目な顔でそう言った。
待ち合わせ場所は、会社から三駅離れた少し高めの居酒屋だった。落ち着いて話せるように個室のところを選んだが、そのおかげで誰に聞かれる心配もせず済んで良かった。
「ええと……?」
透明人間を自称する彼女の姿は、はっきりと見える。おそらく化粧をしていないすっぴんで、普段下ろしているロングヘアは一つに結わえられている。服装はいつもよりもラフな感じ。
「自分にだけ、自分が見えないんです。大学卒業したくらいから、時々手や足が透けてみえてたんですけど、だんだんひどくなってしまって。この前はとうとう全身見えなくなって、それで、お化粧もできなくて」
早口で言い募る朝倉さんだったが、俺の顔を見てうつむいてしまう。しまった、気を抜いて呆然としてしまっていた。
「信じられないですよね、こんな話。頭がおかしいと思われても仕方ないと思います、でも、田宮さんのせいではないことは確かなので。ご心配おかけしてすみません」
彼女はテーブルを這うようにウーロン茶のグラスに手を伸ばす。指先がぶつかり、輪郭をなぞるように掴み、ゆっくりと口元に運ぶ。慎重な手つきだったが、グラスが前歯にぶつかった。そしてやっと一口だけ口に含む。
「信じるよ」
親しかったわけではないが、こんな嘘をついたり、演技をしたりするような人間ではないはずだ。信じがたい話ではあるものの、かといって彼女の精神が錯乱しているようにも見えない。
「信じていただけるんですか」
すんなり信じるとは思わなかったのだろう、彼女は困惑していた。
「そんな嘘ついて利があるわけじゃないし、俺のせいじゃないって言うために来てくれたんでしょ。切羽詰まってるみたいなのに」
俺より彼女と仲が良い藤木は、遊びに行く約束も、会うことも断られたと言っていた。化粧する余裕もない朝倉さんが俺に会ってくれたのは、俺の責任になっていることを心配して、そうではないと言うためだ。自分が変人扱いされるのも厭わずに。
彼女の緊張がふっと緩んだのがわかった。いつもよりあどけない印象の瞳が、涙で潤んでいく。
「あ、朝倉さん?」
「友達に話したこともあるんですけど、冗談だと思われて。それから誰にも言えなくて、誰にも信じてもらえないと思っていたので」
すみません、と謝りながら、彼女は涙を堪える。
こんなときはどうしたらいいんだ、とたじろいでしまう。つい見ていたくなるが、それは失礼なのだろう。とりあえず話題を変えてみる。
「会社はどうするの? 出勤は難しいんだよね」
「……お見苦しい格好になりますけど、出勤だけなら、たぶんできるんです。でも、わたし、自分の物も見えなくなってしまって」
訥々と、彼女は語った。
最初は手足だけ、数分見えなくなる程度だった。しかし、透明になる時間も範囲も徐々に増えていき、数週間前から顔も見えなくなるようになった。会社を休んだ日からは全身ずっと見えないままになり、自分の服も、手に持ったものも見えなくなってしまったのだという。
自分が着ている洋服すら視認できないから、物との距離感が掴めない。目的のものを手に取れても、見えなくなるからどこかにぶつけたりしてしまう。
「こんな状態じゃ、仕事はできないと思います」
朝倉さんは紙ナプキンに手を伸ばし、場所を確かめるように口元を拭いていく。
頼んだ料理は揃っていたので勧めたのだが、食べることすら困難らしかった。彼女には見えない箸で料理を掴むことも、掴んだことで見えなくなった食べ物を口に運ぶことも、感覚で行うしかないらしい。口に入れる途中で落ちたり、箸が口の横を突いたり、とにかく食べづらそうだった。
「お見苦しくてごめんなさい」
いつも伸びていた背筋が丸くなり、しゅんとなる。
「いや、仕方ないよ」
明るい声を出し、ウーロン茶に手を伸ばす。彼女に合わせて良かった、アルコールを摂取するような雰囲気じゃない。
「外に出ても迷惑をかけるだけなんです。会社も、まだ有給は残ってるんですけど、このままだと辞めるしかないと思ってます」
ウーロン茶を噴き出しかけた。「何も辞めることは」言いかけて、気づく。解決策もわからないこの状態で、彼女にどうしろというのだ。
「突然出社しなくなって、皆さんに、特に田宮さんにはご迷惑をおかけしてしまったと思います。でも、わたしがいなくても仕事に支障はないんですよね」
「いや、それは俺だってそうだよ」
その人しかできない仕事は、基本的にはあってはならないものだろう。代わりがいないといえば聞こえはいいが、特定の人物がいないことで回らなくなる会社は危機管理がなってない。
「前から思っていたんです、もしわたしが突然いなくなっても誰も困らないだろうなって。風邪でお休みしても、新入社員の女の子がきっちりその日の仕事を代わりにしてくれたりして」
「それは朝倉さんがちゃんとマニュアルとか用意してたからじゃ」
「誰にでもできることなんです、わたしが任されていることは。何日も家にひきこもっていて、いまさらわたしが会社でできることなんてありません」
意外だった。
朝倉さんはいつも背筋をぴんと伸ばして、身嗜みが良くて、にこやかに受け答えしてくれる、どこか完璧な像を持った女性だった。
今目の前にいるのは、外装が剥がれ落ちた、自信がない透明人間だ。しかし、俺にはその本当の輪郭がやっと見え始めている。
「じゃあ、会社辞めてどうするの?」
「田舎に帰ります。実家は農家なので、畑でも手伝います」
それは困る、と思った。
「もうちょっと解決策を探ってからにしよう。家の中にいたって何も変わらないだろうし、気分転換を兼ねて外に出よう。俺も付き合うから」
「でも、これ以上ご迷惑をかけるわけには」
「朝倉さんが復帰するのと復帰しないの、どっちが迷惑だと思う? 主に女性社員の態度という点で」
電話では大丈夫だと答えたが、朝倉さんが心配してくれていたことだ。俺の失言で出社しなくなった(と思っている)者達が、彼女が退社してしまったらどんな態度を取るか。思い当たったらしい朝倉さんは、眉尻を下げる。
「……すみません」
申し訳なさそうな顔に、罪悪感が胸を刺す。もっとうまく言えば良かった。
「放っておけないから、手伝わせてほしいんだ」
「……よろしくお願いします」
どうにか助けたいというのは本心だ。ひとまずの了承を得て、俺は一息ついた。
次の約束は、平日の昼過ぎにした。
待ち合わせの駅で、朝倉さんは心細そうにたたずんでいた。清楚な紺のワンピースに白いカーディンガンというフォーマルな服装だったが、前回と同じすっぴんに眼鏡で、まだ透明なままなのだろうとわかる。目が合うと、頭を下げられた。
「あの、お休み取られたんですか?」
「うん」
午後半休を取った俺は、通勤鞄にスーツのまま。しかしこれはこれでちょうど良い。
「ごめんなさい、もしかして藤木さんからお話聞かれてたんですか」
「俺も一度行ってみたかったから」
「それに、美容院の予約まで……」
「誘ったのは俺だし」
フォーマルな格好をする場所で、自分で化粧ができない彼女を連れ回すつもりはない。もちろん本人が気にしないならすっぴんでも個人的には構わないが、彼女はそういうタイプではないだろう。
だから美容院に電話して、メイクとヘアセットの予約をしたのだ。何をするにも難儀だろうからと初めて予約の電話をかけたわけだが、緊張したことはいうまでもない。それを暴露するのはスマートではないから、余裕を取り繕う。
「予約の時間があるから、行こうか」
平日の昼過ぎとはいえ、都心の駅は混んでいる。予約の時間まで間もない。歩きながら腕時計を確認し、朝倉さんを振り返り――「あれ」一瞬、迷子になったのかと思った。
朝倉さんは行き交う人々を過剰なまでに避けて、うまく進むことができないようだった。初めて上京してきた高校生でももっと前進できるだろう。彼女のもとへ戻り、尋ねる。
「どうしたの」
「自分の姿が見えないので、擦れ違う人とどれくらいでぶつかるかがわからなくて」
不安げに、小さな鞄を抱え込む。
ああそうか、と腑に落ちた。彼女には自分の手も荷物も見えない。余裕なく早足で行き交う人を掻き分けて進むのは、怖いだろう。もしかしたら待ち合わせ場所に来るまでにも、誰かにぶつかって嫌な思いをさせてしまったかもしれない。配慮が足りていなかった。
「ごめん、朝倉さん。荷物貸して」
自分の鞄は肩にかけ、戸惑う彼女から荷物を受け取る。そしてもう片方の手を差し出した。
「手、繋いだら歩けると思うんだけど」
下心からではない。その存在は否定しないが、手を繋ぐことは合理的なはずだ。
手を繋いで歩けば、人混みの中でも俺が壁になって進める。荷物を預かったのも、荷物を他人にぶつける心配がないようにするため、ただ歩けるようにするためだ。
朝倉さんの頬がほんのり赤くなる。そういう反応をされると、こちらも照れくさい。
「嫌だったら、鞄でも――」
「いえ、あの、よろしくお願いします」
自分の手が見えない彼女は、躊躇いがちに手を伸ばす。彼女の気が変わってしまわないうちに、手を掴んだ。小さな細い手を守るように、焦らなくていいようにゆっくりと、壁として前を歩いた。
手を繋いでいるのは、先程と同じ。それなのに、緊張は増している。
「オペラ劇場に来るの、大学生ぶりです!」
目を輝かせた朝倉さんが、間近で俺を見上げる。美容院でのメイクは普段よりも派手で、艶やかな色気を引き出している。髪は全体を巻いて後ろでゆるくまとめ、耳の後ろに後れ毛を流していた。眼鏡はすっぴんをごまかすための伊達だったらしく、今は外されている。
そんないつもと違った雰囲気で笑顔を向けられたら、どぎまぎするのも仕方がないだろう。俺は平静を装って、建物に目を向ける。
「結構広いんだね」
通路は広く、天井も高い。暖かな色味の照明で、磨かれた床は光を湛えているように見えた。壁際にはチケットカウンターとクロークが並び、スーツ姿の案内人が複数立っている。ドレスコードが決められているわけではないが、観客も小綺麗な格好が多く、一流ホテルのロビーみたいだ。
藤木に事情を簡単に話して、俺はバレエのチケットを譲ってもらっていた。今日はそのバレエの上演日で、大きなオペラ劇場で行われる。
元気を取り戻した朝倉さんの手を引いて奥へと進んでいくと、彼女が「あ」と声をあげる。視線の先ではチケットのもぎりが行われていて、何か冊子を渡されている。
「パンフレット、もらった方がいいですよ。物語の解説が書いてあるんです、バレエはセリフがないので、読んでおいた方が楽しめると思います」
受け取ったパンフレットには、『コッペリア』と演目が書かれていた。彼女の言う通り、中にはストーリーが紹介されていた。
ヒロイン・スワニルダとフランツは婚約中。しかしフランツはコッペリウスという男性の家の窓辺にたたずむ、スワニルダそっくりのコッペリアに心惹かれてしまう。
しかし、コッペリアはコッペリウスが作った人形だった。
「上演前に鞄にしまった方がいいかもしれません。手に持ってると、カサカサ音がするので」
控えめに、朝倉さんが助言をくれる。当たり前といえば当たり前だが、隣の席だから距離が近い。
藤木が取ったというチケットは、一階の中ほどの一番良いランクの席で、これまた当然だが連番だった。俺汗臭くないかな、と思いつつ、ストーリーをざっと確認しパンフレットを鞄にしまう。
席に座りながらも、朝倉さんはそわそわと周囲を眺めている。前方で音を出しているオーケストラや、音が反響する独特な造りの天井や壁、座席の感触すら楽しんでいるようだ。
「楽しそうだね」
そう声をかければ、はっとしたように居住まいをただす。別にそのままでいいのに。
「注意したわけじゃないよ、楽しそうならそれでいい」
「いえ、なんだか子どもみたいでお恥ずかしいです」
はしゃいでくれる方が、素が出ているようでこちらとしてもうれしいのだが。
「オペラグラス使いますか?」
話題を変えようと、朝倉さんが膝に置いていた鞄を探る。しかし所有物が見えない彼女は、手探りで見つけることが困難だ。
「オペラグラス? 双眼鏡みたいなやつだっけ」
「はい。近いので使わなくても見えると思いますけど、オペラグラスがあれば表情までしっかり見えるので」
自分のオペラグラスを持っていたということは、演じるだけでなく鑑賞も何度も行っていたのだろう。だからこんなに楽しそうなのだ。
「いいよ、朝倉さんが使いな。俺は初めてだし、このまま見てみる」
「でも、わたしは見えなくて落としたらだめなので……」
オーケストラの音が小さくなっていくのに気づくと、朝倉さんは鞄を床に置く。
「始まります」
ささやき声が耳をくすぐって、照明が落ちた。そこに指揮者がやってきて、一礼すると拍手が起こる。
そして、しんと静まり返る会場。幕が上がる。
『コッペリア』は第一幕と第二幕、第三幕に分かれていた。
第一幕はフランツがコッペリアに会いに、コッペリウスの屋敷に忍び込むところまで。愉快な調子でストーリーは展開していたが、スワニルダを放ってコッペリアに惹かれるフランツの様子に、どこかひっかかるものを感じていた。そこで、休憩が挟まれた。
俺は朝倉さんの手をひいて、ロビーまでエスコートする。ロビーにはちょっとしたブッフェコーナーができていた。シュークリームやローストビーフ、寿司まである。会場の客はほとんどが席を立って、あたりを行き交っていた。
「お腹すかない?」
もう八時近い。ヘアメイクの待ち時間にカフェには入ったが、空腹感がある。
「ちょっとお腹すきましたね。でも、わたしはうまく食べられないので……。田宮さんはお好きな物を召し上がってください、わたしは向こうの端にいるので」
するりと、手がほどける。朝倉さんは人を避けながら、誰もいない、チラシも何もない壁に張り付くように立つ。
そんな風に気を遣う必要はないし、彼女にやせ我慢をさせるつもりもない。
「朝倉さん」
窓に顔を向けていた彼女に、皿を差し出す。正方形に切られた小さなサンドイッチが、皿の上に載っている。
「手で掴むなら、まだ食べやすいでしょ」
そう言って手におしぼりを握らせると、彼女はまごついたようだった。
「あの、ありがとうございます」
「どういたしまして」
しかし遠慮しているのか取りにくいのか、彼女は動かない。
「手、貸して」
断りを入れて、彼女の手を掴みサンドイッチに誘導する。そうしてサンドイッチをひとつ掴み、彼女は恥ずかしそうに俺をうかがう。
「あの、もしパンくずが顔についてても、教えていただけますか」
「教える、教える」
「メイクが崩れてもですよ?」
「うん」
自分の顔が見えないから、そんなことにも困ってしまうのだろう。大変なことになっているんだから落ち着けと、いじらしく見上げられて跳ねた鼓動を宥めた。
人が食事するところをじっくりと見るものではないから、俺も食べながらちらちらと様子をうかがった。彼女は小鳥がついばむようにゆっくりと食べていく。手だからだろう、箸のときのような食べにくさは感じさせない。彼女はきちんと食べてくれて、皿は空になり、ほっとした――だからつい、口が滑った。
「パンくずも化粧も大丈夫。綺麗だよ」
彼女の顔が真っ赤に染まるのを見て、頬が熱くなるのを感じる。これはまずい。
「皿返してくる」
「は、はい」
逃げるように飛び出したが、不自然すぎる。これも悪手だ。彼女に気持ち悪がられていなければいいが――肩越しに振り返ってみる。まだ頬が赤い彼女は、パンくずを払うように袖口を手ではたいていた。
バレエが終わったのは九時過ぎだった。もうずいぶんと遅い時間になってしまったので、最寄り駅まで送ることにした。朝倉さんは遠慮していたが、電車に乗ると堰を切ったようにバレエの話を繰り広げる。
電車は飲み会帰りの会社員が多く、混雑はしていないが座席は空いていない。ふたり横並びで立ちながら話に相槌をうつ。技術的な話にはついていけず、上手く見えたとか、踊りが難しそうだとかくらいしかわからない。それがつまらなさそうに見えたのかもしれない、朝倉さんは不安げに尋ねた。
「田宮さんも面白かったですか?」
「面白かったよ、もちろん。バレエの技術はわからないけど、音楽も衣装も楽しめたし。ストーリーも、考えさせられた」
「考えさせられた、ですか……どの辺りですか?」
「コッペリアが婚約者のスワニルダそっくりなのに、フランツは人形のコッペリアに恋をしたところとか」
窓辺から見える姿に、フランツは惹かれたのだろう。自分の婚約者と外見は同じように作られているのに。
「あとは、コッペリウス。スワニルダそっくりの人形を作って、それに命を与えて満足しようとしてただろう」
スワニルダに妨害され、結局人形は壊れてフランツたちは元の鞘に戻るわけだが。
スワニルダの中身は、心は、フランツもコッペリウスもどうでも良かったのだろうか。自分好みの女性像を追い求めて、スワニルダ本人を省みないなんて。
まるで、つい先日までの自分のようだ。
ただ綺麗なひとということで朝倉さんを気にして、相談にかこつけて食事に誘って。本当の彼女は綺麗な像じゃない。自信がなくて、遠慮しがちで、かわいらしい人だ。
彼女が自分の姿を見られないのは、そういう風に、他人も彼女をきちんと見ないからではないだろうか。本当の彼女がぼやけてしまったから、彼女自身にも見えなくなった。
「不愉快でした?」
まっすぐに訊かれた。だから、正直に応えた。
「不愉快ではない。でも、ハッピーエンドじゃない。嫌いじゃないけど」
否定的な言葉に彼女は気を悪くするだろうかと思ったが、杞憂だった。
「そうですね」
彼女はあっさり肯定する。
「全体的には、喜劇なんだと思います。でも最後、コッペリウスはコッペリアが壊れてうなだれますよね。コッペリアがスワニルダの代わりにならないことに気づいたからじゃないかと思うんです。舞台の上は夢みたいにきらきらした世界ですけど、だからこそ、垣間見える本質も胸に残るのかもしれません」
彼女の大きな瞳には、舞台のきらめきが宿っている。
――彼女は本当にバレエが好きなのだ。
そのとき突然、電車が揺れた。朝倉さんはとっさにつり革を掴むが、身体を支えきれずにこちらにぶつかる。
「ご、ごめんなさい」
「朝倉さん、会社、辞めてもいいよ」
「え」
驚きに見開かれた目が、俺を見上げる。
「バレエ、再開した方がいい。好きなんでしょ」
会社を辞めないでほしいのは、俺のエゴかもしれない。だから会社のために残るのではなく、彼女の好きなバレエのために。
「見えるようになってるでしょ、自分のこと」
はっと息を呑んで、朝倉さんはつり革を掴んだ手を胸元で組む。とっさにつり革を掴めたこと、それだけならまぐれかもしれないと思っただろう。
「休憩時間のとき、袖についたパンくず払ってたよね」
そう、自分のことが見えないはずなのに、触ったものも見えなくなっているはずなのに、彼女は汚れを落とすことができていた。少なくともそのときには、自分の触れているものが見えていたはずだ。
「ごめんなさい。騙すつもりはなくて」
さっと顔が青白くなって、朝倉さんはうつむいてしまった。
「怒って言ってるわけじゃないよ。バレエを観に行ったのが良かったんだと思う。あんなに楽しそうにしてて、生き生きして、あそこが朝倉さんの世界なんだって納得した。未練を残すくらいなら再開してみた方がいいよ」
「違うんです。バレエに、踊ることに未練はなくて」
朝倉さんは慌てて首を横に振る。次が朝倉さんの最寄り駅だというアナウンスが流れる。
「今日は本当に楽しくて。第一幕が終わったとき、手だけ見えるようになったことに気づいて。でもそのことを言ったら、もう田宮さんと出かけることもないかもしれないって思ったんです。もしかしたらバレエがつまらなくて、もう帰ってしまうかもとも思って」
勢いづいて、彼女は手を握りこむ。必死に伝えようとするその様子が、まさか、と期待を持たせる。
「話を聞いていただけて、バレエにも付き合っていただけて、うれしかったんです。正直、わたし、他人からも見えなくなってしまうんじゃないかって思っていたんです。でも田宮さんがわたしに付き合ってくださって、このまま消えたくないって思いました。だから、田宮さんのおかげなんです。田宮さんにはご迷惑かもしれませんけど」
電車が止まる。朝倉さんの最寄り駅だ。
「――朝倉さん」
力が入った彼女の手を掴み、電車を降りる。ホームに人がまばらなのを確認して、呆気にとられた朝倉さんに向き直る。
「下心なかったと思う? こうして近づいて、手を握って」
素直に明かせば、朝倉さんはわずかに怯んだ。降りたばかりの電車が走りだし、風が朝倉さんの前髪を撫でる。髪の間から、悪戯っぽい目がのぞいた。
「わたしにも下心はありました。見えること、隠したんですよ」
弱気じゃない、彼女の新しい一面が不意をつく。
「――週末あいてる?」
「え?」
「出かけよう、バレエ関係なく。そうしたら、見えるようになったのがバレエのおかげかわかるでしょ」
バレエのおかげだったら、少し残念だから。
まだ見えない輪郭も、なぞれたらいいと思った。