8.戦いの幕開け(前編)
長いので、二つに分けることにしました。少し時間が進み、数年後の話になります。
「……とまあこのように、国のあり方に対する意見の食い違いから、ナサラ族とアルーシャ族は二つに分断されたというわけです。こうして長く続いた国家は千年前に滅び、ナサラ族はナイル帝国を、アルーシャ族はアッシリア王国を建国しました。その後、未だ小さな国のまま収まっているアッシリアに対し、ナイルは大きく領土を広げ、飛躍的な経済発展を遂げて今のような姿に――って、聞いてます? 姫」
白髪を食べかけのわたあめのようにふわふわさせた老人は、疑わしそうな目をハーシェルに向けた。
頬に手をつき、あらぬところをぼへーっと見ていたハーシェルは、ふっと姿勢を正すとペラペラと手元の本をめくった。
「へ? ……ああうん、聞いてる聞いてる」
「いえ、聞いてないですよね? 本のページ、違いますよ」
開いたページを無言で見つめ、ハーシェルは顔をしかめた。
王宮に入ってから五年の月日が流れていた。
十二歳になったハーシェルはようやく王宮の生活にも慣れ、姫としての立ち居振る舞いも、多少、それらしくなってきた。肩を少し過ぎた髪は三つ編みにされることが少なくなり、軽く二つに結わえられている。
図書館で行う歴史学の授業は嫌いではなかったが、いささか退屈だった。ハーシェルの先生であり、歴史学者でもあるスコットは、とがった鼻に小さな丸眼鏡をひっかけた少々変わった人物であった。思い出したように話が飛ぶのはよくあることで、今も、百年前のナイルの外交状況について話していたはずだったのに、いつの間にか話は千年前のナイル建国にまでさかのぼっている。
ハーシェルはあきらめたように、ぱたん、と本を閉じた。
「だって、もう聞き飽きたんだもの。先生の話の回数でいくと、もう二十回はナイルが建国されてるわよ。何かもっとおもしろい話はないの?」
スコットは信じられない、という顔をした。
「あなたは、私の話がおもしろくないとおしゃっるのですか!」
はい、と言ったら怒るだろうか。
眉をひそめて返答に悩んでいると、ハーシェルはいいことを思いついた。
「あ、じゃああの話してよ。えっとなんだっけ……そう、『王の石』」
「またその話ですか?」
スコットはあきれたような顔をした。
「それこそ、もう何度もお話ししたでしょう」
「だって、勉強の息抜きにちょうどいいし、それにおもしろいんだもの。パルテミア時代の勉強にもなるでしょう?」
「それはそうですが……」
スコットは不服そうな表情をした。自分の話が、暗におもしろくないと言われたことが不満なのだ。
じっとハーシェルが見つめていると、やがてスコットは負けを認めたようにため息をついた。
「まあいいでしょう。それで姫の気が済むというのなら。ただし、話が終わったら、その後はきちんと私の講義を聞いてくださいよ?」
「うん、分かった」
ハーシェルはおとなしくうなずいた。
スコットは、コホンと一つ咳払いをした。
「えー……遠い遠い昔のことです。
あるところに、パルテミアという一つの小さな国がありました。
その国には、二つの民族が暮らしていました。
一つは、ナサラ族。西の地からやってきた、細い眉に、白い肌をもつ民族。もう一つは、アルーシャ族。東の地からやってきた、頬骨の張った顔に、濃い眉をもつ民族です。
二つの民族は、とても仲良しでした。
この頃から、それぞれの民族にはすでに”王族”というものが存在していました。国のあらゆる政治は王族が行い、そして王は、数年ごとに二つの王族の中から交代で選ぶことが決まりでした。
ナサラ族の者が王だった、ある年のことです。
その年、パルテミアでは、かつてないほどの大干ばつに襲われていました。作物は枯れ、飲み水さえもままならず、人々は飢えと渇きに苦しんでいました。
王は悩みました。
人々をこの苦しみから救うには、いったいどうすればよいのだろうか。
眠れぬ夜が、何日も続きました。
しかし、神に雨乞いをしていたある日のこと、奇跡は起こりました。
すべての王族と神官が集まり、雨乞いの儀式をとり行うその御前に、天から神が舞い降りたのです。
神は言いました。
『信心深いそなたらに、この石を授けよう。王が石を手に抱き、天に願いを込めたとき、大地はうるおいで満たされるだろう。ただし、その力もつは王のみ。その後は、血をもって後世にまで受け継がれていくだろう』
神は、王に一つの石を授けました。そして、その石をあやつる力を、今の王と、次の王と定められていたアルーシャ族の男に与えました。
ナサラ族の王は、神の言葉通り石を抱き天に願いを込めました。
するとどうでしょう。
乾き切った空の中に、みるみる雲が作られていくではありませんか。そしてすぐに、雲からは大量の雨が地上へと降り注ぎました。
人々は大喜びしました。
それからというもの、パルテミアが自然の脅威におびえることは一切なくなりました。
王は、大地が乾けば雨を降らし、嵐が来れば嵐を治めることができました。王が持つ石の力によって、国は平和に保たれたのです。そしてそれは、次の王に代わっても同じことでした。
その後、その力は、先代の王の血とともに後世の王族たちへと受け継がれていきました。二つの民族が交代で王となるルールに加え、石も、その時の王が持つことになりました。王たちは神から授かった石を大切にし、石を使って民の暮らしを守りました。人々は、王族を”神の力を持つ者”として崇めたてまつるようになりました。
――しかし、平和は永遠には続きませんでした。
その頃、周辺の国々では戦争が多発していました。近いうちに、パルテミアも巻き込まれる可能性は十分にありました。
アルーシャ族の王はこう考えました。
『もしもこの国が他国に攻め込まれるような時には、石を使って国を守ればいい』
しかし、ナサラ族の王族は反対しました。
『石は、あくまでも自然の脅威から民を守るため、神より授かったもの。戦に使うなど、とんでもない』
いつまで経っても、意見がまとまることはありませんでした。
いつしか二つの王族は対立し、それはやがて民にまで広がっていきました。国は大きく二つに割れ、ついに人々は武器を持って立ち上がりました。
――その時です。
石が、小さく震え始めました。そして、ぴたりと止んだかと思うと、弾けるように砕け散ったのです。
争いの元となった石は消えました。
しかし石がなくなったところで、一度始まった争いが治まることはありませんでした。
決着は着かず、二つの民族はそれぞれ新しく国を建国することにしました。
ナサラ族は『ナイル帝国』を。
アルーシャ族は『アッシリア王国』を。
その後、二つの民族が手を取り合うことはありませんでした。
こうして、長く繁栄したパルテミアは、無意味な争いによって終わりを遂げたのです――
――と、ご満足いただけましたか?」
やれやれ、という表情で、スコットはハーシェルを見た。
ハーシェルは、腕を組んでうーん、とうなっていた。
「石は、なんで砕けたのかなぁ? 争いを止めたかったから?」
もともと、石は民の暮らしを豊かにするために授けられたものだった。争いを好まなかった石は、自分が砕けることで争いを鎮めようとしたのではないだろうか。それとも、国が割れた時点でもう必要がなくなったからか。
スコットは肩をすくめた。
「さあ。私には分かりませんね。そもそも、これはただのおとぎ話です。実際には石なんて存在しませんし、国が分かれた理由もきちんと別にあります。誰かが、子ども向けにパルテミアの歴史をおもしろおかしく作り変えたんでしょうよ。史実通りの部分もあるので、ある程度の勉強にはなりますが」
スコットはたいして興味がなさそうに言った。それから、じろりとハーシェルをにらんだ。
「そんなことより、これで私の話を真面目に聞いてくださるんでしょうね?だいたい、いくら全部覚えているからと言って、話を聞かなくていい理由にはならな――」
その時、「あっ!」と突然ハーシェルが声を上げて立ち上がった。スコットはびっくりして首を縮めた。
「私、もう次の授業に行かなくちゃ。危うく忘れるところだったわ」
そう言うと、ハーシェルはばたばたと本をカバンにしまい始めた。
スコットはぽかん、と口を半開きにした。
「え、あ、ちょっと姫……?」
図書館の本も、すばやく本棚に戻す。あっという間に帰り支度が完了すると、ハーシェルはかばん片手にスコットを振り返った。
「じゃあ先生、続きはまた今度ね!」
「いや、まだ話は終わってな――――姫……姫ー!」
スコットの叫びも虚しく、吹き抜けのらせん階段をするすると降りると、ハーシェルの背中は瞬く間に遠ざかって行った。
その姿を遠くから見送りながら、スコットはやれやれ、と力なく首を横に振った。
「今日も完敗ですか……」
授業があるというのは嘘ではなかった。
ただし、授業は授業でも、ラルサとの稽古のことだ。
時間を見つけては、ハーシェルはほぼ毎日のように城の裏庭でラルサと稽古をしていた。その内容は馬や弓、剣、体術など、様々な分野に及んでいる。
その中でも、ハーシェルが一番得意とするのは剣だった。最初は重くて力任せに振ることしかできなかった剣も、今ではすっかり手になじみ、動きを自由にコントロールすることができる。
ハーシェルは真剣を手に、右に二回、左に二回すばやく剣を振り下ろした。剣を振るたびに、ヒュンッと風が音を立てる。その後も一通りの型を行うと、最後にくるりと回転して木の間に向けて剣を振り放った。
数枚の葉を巻き込み、赤い紐の位置で枝が切れる。枝はぱさり、と音を立てて地面に落ちた。
静かに剣を収めると、ハーシェルはいくらか得意げな様子でラルサを振り返った。
「どうかしら?」
腕を組んでハーシェルの型を見ていたラルサは、軽くうなずくと言った。
「そうですね。まあ、泥棒くらいは倒せるようになったんじゃないですか?」
からかいが入り混じったようなラルサの口調に、「やめてよ、子どもの頃の話は」とハーシェルは顔をしかめた。
「それに、城に泥棒は入らないわ」
もし城で盗みを働けば、死刑はまぬがれない。そんな危険をおかしてまで盗みに入ろうとする者など、いるはずもなかった。
ラルサは肩をすくめた。
「ですが、城だからこそ入ってくる者もいますよ?」
ラルサの言葉に、ハーシェルは首をかしげた。
「なあに?」
「――刺客です」
二人の間に沈黙がただよった。
一瞬きょとん、としていたハーシェルは、すぐにからからと笑い飛ばした。
「ありえないわ。城は、この国一番の警備を誇っているのでしょう? 刺客が入る隙間なんて、どこにもないわよ」
城の安全性を疑いもしないハーシェルを、ラルサはやや額にしわを寄せて見つめた。
そろそろ潮時か。これまで幼さゆえ話してこなかったが、石のことを抜きにしても、ハーシェル自身にも少しは危機感をもたせるべきだろう。もう子どもじゃないのだ。
ラルサが口を開こうとしたその時、廊下の方から足音が聞こえた。ハーシェルは音の方を振り向くと、ぱっと顔を輝かせた。
「母様!」
気品のある亜麻色の薄絹に、白いレースの肩かけを羽織ったセミアは、裏庭に下りるとまっすぐにこちらへと歩いてきた。後ろにはヘステラも連れている。
ハーシェルは足どりも軽くセミアのもとへ駆け寄った。
「母様が来るなんて驚いたわ。リディアの大使との話はもう済んだの?」
今日は、隣国のリディアから新大使が着任のあいさつに来ているのだった。リディアはナイルと古くから同盟を結んでおり、親交も深い。
セミアはにっこりと微笑んだ。
「ええ。今度の大使は、話が短そうな方でよかったわ。前任のハステアン大使なんて、話し出したら二時間は止まらなかったもの。――ところで、稽古の調子はどう? ラルサの指導は、決して生やさしくはないでしょう」
「ええ、まあね」
ハーシェルは、手の甲にできた小さなかすり傷をさりげなく背中の後ろに隠した。
ラルサの剣を受けた時に転んで、地面とこすれたのだ。姫の体の傷にはうるさいヘステラに知られるとやっかいだ。ハーシェルはちらりと横目でヘステラを見やったが、幸い気づかれてはいないようだ。
「でもね、さっきちょっとだけラルサにほめられたのよ。少しは上達したんじゃないかしら?」
ちょっぴり誇らしげに言うハーシェルに、ラルサは横から釘を刺した。
「あまり慢心されませんよう。確かに動きは良くなってきましたが、いくらか正確性に欠けるところがあります。それに筋力も足りない。そのようでは、いくら他が良くとも、すぐに力負けしてしまいますよ」
「わかってるわよ」
ハーシェルは不服そうに顔をしかめた。
「しかしまあ、」
ラルサはセミアの方を見た。
「ハーシェル様は、なかなか優れたセンスをお持ちだ。このまま修行を積んでいけば、きっといい剣の使い手になるでしょう。はねっ返りな性格もそうですが、これもおそらく父親譲りでしょうな」
珍しく直球なほめ言葉に気をよくしかけたハーシェルだったが、最後の一言に憤慨した。
「ちょっと!私と父様の性格の、いったいどこが似てるって言うのよ!」
ラルサとセミアは声を立てて笑った。年を重ねた今の姿からは想像もつかないが、若い頃はアスリエル王もなかなかおてんばだったのだ。
しかし、冷淡で無愛想なアスリエルしか知らないハーシェルにはさっぱり分からなかった。
(父様と私が似てるなんて、まっぴらごめんだわ……)
そこで、ハーシェルはふと思い出した。
「そう言えばラルサ、今朝、部屋で父様と話し込んでいたようだけど、何かあったの?」
朝食の後、たまたまラルサが父の部屋に入っていくのを見かけたのだ。そして授業終わり、近くを通りかかると、ちょうどラルサが同じ部屋から出てくるところだった。もしその間もずっと話をしていたのだとしたら、少なくとも二時間は話し込んでいたことになる。
ラルサはたいしたふうもなく言った。
「いやなに、仕事の話ですよ。ナイルの東方にあるウェルズ湾岸周辺で、ちょっとした戦が起きているとか。原因は、おそらくその隣のイエスタ公国でしょうね。あの国は、よくナイルに突っかかってきますから。争いが広がってからでは面倒なので、明日、城からも軍隊を出兵させることになったのですよ」
いつもと変わらぬ様子のラルサに対して、ハーシェルの心はちっとも平常ではなかった。
ハーシェルはどくん、と心臓が脈打つのを感じた。
「戦って……つまり戦争……?」
はい、とラルサが答えた。
「ラルサも行くの?」
「ええ。ですから、明日からしばらく稽古はお休みです」
まさか、ナイルでそんなことが起きているなんて……
ハーシェルはショックを受けた。
知らなかった。
自分がこうして城で安全に暮らしている間にも、傷ついている人がたくさんいるのだ。
しかし、考えてみれば当然のことだった。常に世界のどこかでは戦争が起きているし、現にナイルでも十二年前、王妃と王女が身を隠さなければならないほどの大きな戦が起こっている。それなのに、戦争は歴史の中のものだと思って、何も考えていなかった自分が恥ずかしかった。
だから、ハーシェルは言った。
「私も行く」
ラルサは耳を疑った。
「はい?」
セミアも、目を丸くしてハーシェルを見つめた。その後ろのヘステラにいたっては、今にも失神しそうな表情をしていた。
ラルサを見上げるハーシェルの瞳は、真剣そのものだった。
「私だって戦える。それなのに、自分だけが安全な場所にいるなんておかしいわ!私もみんなの力になりたいの」
あまりに突拍子な発言に、一同はそろって石のように沈黙した。
一番最初に口を開いたのはヘステラだった。
ヘステラは、まるで過呼吸でも起こしたかのように胸に手を当て、ぜいぜいと息をしていた。
「ありえません!姫様が戦に出るですって?変なことをおっしゃるのはやめてください。わたくしの心臓を止めるおつもりですか」
ヘステラはヒステリックに声を上ずらせて言った。
ハーシェルは、助けを求めるようにラルサを振り返った。ハーシェルの剣をずっと見てきたラルサなら、あるいはいいと言ってくれるかもしれない。
しかし、ラルサは厳しい表情をしていた。
「だめです。強いとか弱いとか、そういう問題ではありません。あなたは、戦争がどういうものか全く分かっていらっしゃらない。第一、王がお許しにならないでしょう」
ハーシェルはすがるような目つきでセミアを見た。セミアは、静かに首を横に振った。
(母様まで……)
ハーシェルは唇をかんだ。
「……そう。ならいいわ。私が直接父様に頼んでくるから」
決心したように言うと、ハーシェルは踵を返してその場を立ち去ろうとした。
三人はぎょっとした。
ラルサはあわてたように、後ろからハーシェルの腕をつかんで引き止めた。
「やめておきなさい。怒られるか、あきれられるかが関の山です。そうやってわざわざ波風を立てたところで、何の意味もないでしょう」
ラルサは思わず大きな声を出したが、ハーシェルは引き下がらなかった。
「そんなの、言ってみないと分からないじゃない」
ハーシェルはラルサをにらみつけると、腕を振り払った。
「私が父様を説得して見せるわ。そして、私も一緒に戦うの。それに実践でもしないと、自分の本当の強さなんて分からないでしょう?」
言ってから、ハーシェルははたと口をつぐんだ。
あれ?
私今、何かおかしなこと言った……?
ラルサの目が冷たく細められた。
「それが本音ですか」
急に温度が下がったような声に、ハーシェルはぎくり、と身をたじろがせた。
ラルサの瞳には軽べつの色が入り混じっていた。
「あなたはただ、戦場で自分の腕を試したいだけだ。そんな甘い覚悟で、戦争に行くだなんて簡単に言わないでいただきたい。戦争は稽古とは違います。血も流れるし、人も死ぬ。それなのにあなたは、戦争を稽古の延長線とお考えなのですか」
激しい口調で言うラルサを、ハーシェルはあっけに取られたように見つめた。
……そう、だったのだろうか?
確かに、稽古ではラルサとしか手合わせができないため、自分の力量が分からないなとは思っていた。王族や貴族の女性が武術を磨くことは本来好まれないため、稽古は極秘で行っているからだ。無意識に、腕試しの場がほしいと思っていてもおかしくはない。
だが、決してそれだけの感情でもないはずだ。
「……と、とにかく。私は父様のところに行くから。もしだめだったら、その時はあきらめるわよ」
ハーシェルはいくらか決まりが悪そうに言うと、背を向けて足早にその場から去って行った。
今度は、ラルサも引き止めようとはしなかった。
ただ、まだ幼さの残るその背中を、どこか不安そうな表情で見つめていた。
「ならぬ」
王の返答は、極めて簡潔なものだった。
分かってはいたものの、実際に面と向かって言われるとあまりいい気持ちはしない。ハーシェルは眉をしかめ、王座に居座る父を見上げた。
「どうして?」
片ひじを椅子に預けたアスリエルは、ひょいと片眉を上げた。
「その理由を私がわざわざ言わねば分からぬほど、そなたは愚かなのか?」
父の皮肉にももう慣れたものだった。
特に表情を変えるわけでもなく、ハーシェルは少し考えると言った。
「私がまだ子どもだから?」
「いいや、違う」
アスリエルはあっさりと否定した。
それから、よく響く低い声で言った。
「この国の姫だからだ」
またか。
ハーシェルは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
父もヘステラも他の人たちも、何かにつけて「姫だから」とハーシェルの意志に口を出し、行動を制限しようとしてくる。一度もそのようなことを言ったことがない人なんて、母のセミアくらいだ。セミアはいつだって、ハーシェルを一人の娘として真正面から向き合ってくれる。
「じゃあ、私が王子だったらよかったわけ?」
苛立った ハーシェルは、ぞんざいな口調で言った。
アスリエルは目つきをやや険しくした。
「その言葉づかいは聞き捨てならんが、今回は置いておくとしよう。王子か。そうだな、場合によっては考えたかもしれぬな」
やっぱりそうなのか。
ハーシェルは眉をひそめた。
思えば、ハーシェルが姫に生まれたことが不運の始まりだったのかもしれない。王子であれば堂々と剣を習うこともできたし、もっと自由に行動することもできただろう。そもそも、自分の性格と周囲が押しつけてくる姫の理想像が合っていないのだ。
アスリエルは続けた。
「しかしそなたは姫だ。一国の姫が戦に出るなど、天地がひっくり返ってもありえぬ。そのようなこと、いちいち言わずとも分かると思っていたがな。そなたは、私が思っていた以上にとんだ大馬鹿者だったようだ」
表情こそほとんど変わらないが、その声音には沸々と煮え立つ溶岩のような熱がこもっていた。
普通、王をここまで怒らせたとなれば、人々は一目散にしっぽを巻いて逃げるだろう。しかしハーシェルは引き下がらなかった。
「だけど、私は戦えるわ。国や人を守ってこその剣じゃないの。そうでなければ、私が今まで積み重ねてきたものの意味がなくなってしまうわ」
真っ直ぐにアスリエルを見据える茶色の瞳に、偽りの影はなかった。
その瞳を見返し、アスリエルははた目には分からないほど、ごくわずかに眉根を寄せた。
(自分の命さえ守ればそれでよいというに。まったく余計なことを……)
ハーシェルはふと、王から怒りの波が徐々に引いていくことに気づき不思議に思った。いったいなぜだろう?
そして、次に発せられた言葉に耳を疑った。
「では、私と勝負しろ」
「……え?」
思わず目を点にするハーシェルをよそに、アスリエルは王座を立ち上がるとカツカツと壇上から下りてきた。
「私に勝ったら、戦に行かせてやってもいい。ただし負けたら、即刻この場から立ち去れ。それと一週間、部屋からの外出は一切禁止だ。よいな?」
ハーシェルが断らないことを分かっているのだろう、同じ床上に立つと、アスリエルは邪魔になる肩かけを床に捨て置いた。
ハーシェルはひそかに歓喜の声を上げた。
父が剣を振るっているところなど一度も見たことがない。きっとそうする必要がないからだろう。護衛は山のようにいるのだ。
それに比べ、ハーシェルは毎日のようにラルサと剣を交えている。剣を使っていたと言ったって、もう昔のことだろう。自分が負けるはずがない。その上、幸いにもハーシェルは稽古着のままだ。先ほどまでリディアの大使と対談をしていたアスリエルの服装は、肩かけを取ったところであまり動きやすいとは言えない。
(女だと思って見くびってたら大間違いよ……)
ハーシェルは腰を低くし、剣の柄に手をかけた。
一方のアスリエルは、肩かけを外したこと以外、まるで構える様子が見られない。アスリエルは、いつものように淡々とした口調で言った。
「相手を勝てぬ状況まで追いつめた方が勝ちだ。殺すのはなしだが、少々のけがは認めよう。戦場で傷一つつかぬなどありえぬからな」
そう言うと、アスリエルは緊張感の感じられない動作で柄に手をかけた。
「さあ、いつでもかかってきていいぞ」
ハーシェルは、疑うようにじろりとその姿を見つめた。
本当に戦う気があるのだろうか?
……まあいい。勝てないと思って言ったことなのだろうが、すぐに後悔させてやる。そして明日、自分もラルサと共に出陣するのだ。
ハーシェルは目を閉じると、深く息を吸った。そして、剣を引き抜くと同時に動いた。
冷たい石の床を一直線に駆け抜ける。
走りながら正面に向かって腕を動かすが、それはフェイクだ。すばやく後ろに回り込み床をけり上げると、ハーシェルは空中でアスリエルに向かって剣を振り放った。
しかし、剣がまさに肩を切り裂こうとするその時になっても、アスリエルは動こうとしなかった。
ハーシェルの瞳が焦りに揺れた。
どうしよう。このままじゃ本当にけがをさせてしまう。
そう思った瞬間だった。
気づけば、ハーシェルの剣は勢いよく弾き飛ばされていた。くるくると宙を舞った剣は弧を描いて床に落ち、流れるようにその上を遠く滑っていく。
目の前に立つアスリエルは、すらりと長い抜き身の剣を構えていた。動いたときにめくれたのだろう、普段そでに隠れてほとんど見えない腕は筋肉質で太く、よく鍛えられていることを示している。
ハーシェルは呆然と立ちすくんだ。
いつ、剣を抜いたのかすら分からなかった。そもそも普通、あんなにぎりぎりから動いて間に合うものなのだろうか? どれだけ動きが速いんだ。
ショックで固まるハーシェルに、不意に影が差した。
側に立ったアスリエルは、冷たい瞳でハーシェルを見下ろしていた。
「うぬぼれるな。たとえ許可したところで、その程度の腕では戦場に足を踏み入れたその時に殺されてしまうだろう。自分の技量を判断する能力もなしに、よくその口で行くなどと言えたものだ。それに、最後のはなんだ。そなたは敵を前にして、殺す目前になったら手を緩めるのか? ここが戦場なら、あの瞬間に確実にそなたは死んでいた。甘いにもほどがある」
ハーシェルは何も言い返すことができなかった。それは、ひとえにアスリエルの言葉がすべてが正論だったからだ。
「それと、私が剣の修行を欠かしたことは、ここ数十年、一日もない。どうやら見くびっていたようだが。それすらも見抜けぬようでは、やはりまだまだだな」
アスリエルは剣をさやに収めた。床に落としていた紺の肩かけを拾い上げ、無造作に背中に羽織り直す。
(そう言えば昔、父様は強いとかラルサが言ってたっけ……)
ハーシェルはぼんやりとしながら思い出した。
「先ほど言ったように、そなたには一週間の謹慎処分を命ず。よく頭を冷やしておけ」
最後にちらりと振り向いて言うと、アスリエルは衣をひるがえしてその場から立ち去った。
一人になっても、ハーシェルはしばらく動くことができずにいた。