7.剣師
「ウィルに会いたい――」
そんな思いを胸に抱きながら、ハーシェルは慣れない王宮生活を送っていた。
ある日の午後のこと、城で迷子になったハーシェルはある人物と遭遇する。
アイリスの花が咲きみだれる、穏やかな野原。
その小屋の近くに座っていたハーシェルは、あっ、と声を上げた。
「やっと来た! もうウィル、遅いよ」
ごめんごめん、と言いながら、ウィルが歩いて丘を登ってくる。その先には、道案内をするように蝶々がひらひらと舞っていた。
「それで、今日はなにして遊ぶ?」
丘の上に到着したウィルの問いかけに、ハーシェルは元気に答えた。
「鬼ごっこ!」
えー、とウィルは嫌そうな表情をした。
「鬼ごっこなら、昨日一日中やったじゃないか。他のにしようよ」
「別に今日もやってもいいじゃん」
「でも、ぼくはもう飽きたよ」
ウィルは顔をしかめた。
ハーシェルは、うーん、と考えた。
「じゃあ、かくれんぼは?」
「いいよ」
「やった! じゃあウィルが先に鬼ね!」
そう言うなり、ハーシェルは駆け出した。後ろでウィルが「いーち、にーい、……」と数を数え始める。
どうしようかなぁ……。小屋の後ろは、前に使ったからだめだ。すぐに見つかる。あと隠れられる場所と言えば――
あっ、そうだ!
ハーシェルは近くにあった木に手をついた。そして太い幹の分かれ目に足をかけると、木の上に登り始めた。
どんどん、どんどん、上に登った。
やがてそれ以上登れなくなると、ハーシェルは足を止めて景色を見渡した。
そこからは、アイリスの野全体が一望できた。その向こうには、なだらかな森が延々と広がっている。
下を見ると、ウィルがうろうろと歩いてハーシェルを探していた。
ここなら絶対に見つからないだろう。
ハーシェルはほくそ笑んだ。
体勢を整えようと、ハーシェルは足の位置を少しずらした。
その時だった。
足がずるりと滑った。その拍子に、木から手が離れる。
鮮やかな緑が視界から遠ざかる中、ハーシェルは思った。
(あ、落ちる……)
ハーシェルは目を開けた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。目の前には、真っ白な高い天井が広がっている。
早くウィルから隠れなきゃ……
ぼーっとする頭で起き上がろうとしてやっと、ハーシェルは気づいた。
そこは、城の中の自分の部屋だった。大きな窓からは、朝日がさんさんと床に降り注いでいる。
(夢……)
体を起こすと、ハーシェルは布団のすそをぎゅっと握りしめた。
そりゃそうだ。アイリスの野に、野原全体を見渡せるほどの高い木なんてない。あったのは、小屋よりも低い低木だけだ。
――それに、そもそも、あの場所へはもう戻れないのだ。
手の力を抜くと、ハーシェルはあきらめたように小さくため息をついた。
城に来てから、約一週間が経った。
城下街では三日間にわたる盛大な祝いが開かれ、今や王女の存在は国中の知るところとなった。城で毎晩のように開かれる宴は、豪華な料理やきらびやかな衣装を身にまとった人々であふれ返り、ハーシェルは目が回る思いだった。その宴もようやく終わりを迎え、今では生活も落ち着いたものへと変わってきた。
ヘステラが言った通り、ハーシェルが母に会える時間は、王宮に入る前と比べてずい分と少なくなっていた。この数日でも、片手で数えられるほどの回数しか顔を見ていない。ラルサに関しては、あれから一度も顔を見ていなかった。
……ウィルは、どうしているだろうか。
ハーシェルのこと、探してるかな。
ハーシェルはベッドの上で、自分のひざを抱え込んだ。
お別れのあいさつも言えなかった。急にいなくなって、怒ってるかな? それとも、寂しくて泣いているだろうか。
ハーシェルはウィルの泣いている顔を想像しようとしたが、一度も泣いたことのないウィルの泣き顔を想像するのは無理があった。たぶん、怒っている方に違いない。
――ウィルに、会いたかった。
ウィルがいれば、城での生活は見違えるように楽しくなるだろう。迷路のような城は、かくれんぼをするのには最適だ。鬼ごっこなんて始めたら、永遠に終わらないかもしれない。城じゅうを二人で探検するのもいい。
それに、ウィルは決してハーシェルに頭を下げたりしない。実は一国の王女だったのだと告げたところで、きっと、「夢でも見てたんじゃないか?」と言って笑い飛ばすだろう。
……帰りたかった。
ウィルがいて、母がそばにいる、あの野原に。
だがおかしなことに、ハーシェルはもう帰っているのだという。見覚えのない場所に、たくさんの知らない人たち。それでも、この場所こそが、自分の本当の故郷なのだ。
窓際の方に目をやると、その側の机の上には一輪の青色の花が挿してあった。
そう言えば、あの日作った花冠、部屋の窓に置いたままだ。持ってくれば良かったな……
そこでふと、あの冠ももうとっくに枯れてしまっていることに気づく。いつの間に、そんなに時が過ぎてしまったのだろう。ハーシェルの心の時は、まだ夢の中で止まったままだというのに。
ハーシェルは、しばらくぼーっとその花を眺めた。
鮮やかで美しいそれは、ハーシェルが住んでいた野原にはなかったものだ。青い花はあったけれど、もっと小さくて低い。あったのは、白い花が大半で……
ひらりと花びらが一枚、机の上にこぼれ落ちた。
「――約束、守れなかったな」
ハーシェルは小さくつぶやいた。
その時、部屋の扉がノックされた。
朝のあいさつとともに、侍女が部屋に顔を出す。やがて朝食をとり、服を着替えると、ハーシェルは最初の授業へと向かった。
(しまった、完全に迷った……)
時刻は昼過ぎ。
先ほど帝国学の講義を終え、次の授業までまだ時間があるため、ハーシェルはいったん自分の部屋に戻ることにした。
部屋の位置を覚えたと思ったハーシェルは、付き添いを断り、自信満々に部屋に戻っている最中……の、はずだったのだが、どこで間違えたのか、気づけばまったく見たことのない場所に来ていた。
あわてて引き返すも、似たような風景にもはやどこで曲がったのかも分からない。戻ろうとすることで余計にこじらせてしまったようで、今では完全に道を見失っていた。
重い本を両腕で抱え、ハーシェルはとぼとぼと廊下を歩いた。
(あーあ。なんで部屋を覚えたなんて思っちゃったんだろう。お城の中は、こーんなにも広いのに)
ハーシェルは吐き出すように深くため息をついた。
その時、どこかでびゅんっ、と力強い音がした。
ハーシェルは、はたと立ち止まった。
そこは、中庭に面した一階の渡り廊下だった。城のはずれの方まで来てしまったのだろう、あたりを見回すも、周りには誰もいない。
そこで、再びびゅんっ、という音が響いた。
音をたどるように、ハーシェルは廊下の角をひとつ曲がった。
そこにいたのは、ラルサだった。
中庭に立つラルサは、右手に長い棒のようなものを構え、なにやら真剣な表情をしている。
そして、フッと息を吸い込むと、勢いよく棒を振り下ろした。
びゅんっと音が鳴り、草地が風を受けてサーッと左右に広がる。
ハーシェルは目を見開き、釘づけになったようにその場に立ち尽くした。
横に振れば木々が揺れ、縦に振れば草地が揺れる。周囲と連動したその動きは、まるでその場の空気をあやつっているかのようだった。
思わず惹き寄せられたように見入っていると、不意にラルサがこちらを振り向いた。
ハーシェルはどきっと身じろぎをした。
ラルサとはあの日、目の前でひざまずかれて以来会っていない。もしまたあのような態度を取られるのであれば、即刻逃げ出そうかと思った。ひざまずくラルサは、ハーシェルの知っているラルサではない。
驚いたような顔をしたラルサは、腕を下ろすと言った。
「よう、嬢ちゃんじゃねえか。どうしたんだ? こんなところで」
最初の言葉を聞いた時にはもう、ハーシェルは走り出していた。
廊下から中庭への段差を飛ぶように駆け下り、緑の地面を走り抜ける。
「お~じぃさぁ~ん」
そしてラルサの近くまで来ると、そのまま体当たりするように大きな体に飛びついた。
「うおっ⁉」
驚いたラルサは地面に棒を落とし、あわててハーシェルを抱き止めた。
それは、まぎれもなくハーシェルが知っているラルサだった。
陽気で大らかで、食いしん坊で、よく笑うラルサ。あまりの嬉しさに、ハーシェルは涙が出そうになった。
ラルサは困ったように笑うと、ぽんぽん、とハーシェルの頭を優しくなでた。声には出さなかったが、なんとなくハーシェルは「悪かったな」と言われているような気がした。
しばらくラルサにくっついていたハーシェルは、やがて落ち着くと離れて顔を上げた。
「おじさん、ここでなにしてたの?」
「ああ、ちょっくら時間があったから、鍛錬をな。時間が空いたとき、ここでよくこうしているんだ」
「たんれん?」
「体を鍛えるってことさ」
なるほど、とハーシェルは思った。
ラルサの体は大きくて、腕も太い。きっと、とても強いのだろう。そしてそれは、こうしていつも体を鍛えているからなのだ。
「ねえねえ、さっきのもう一回やってみせて!」
「さっきの?」
目をキラキラさせながら言うハーシェルに、ラルサはいぶかしげに眉をひそめた。
「なんか、びゅんってやったら、ブワーってなるやつ!」
ああ、あれか、とラルサは納得がいったように苦笑した。
そしておもむろに地面の棒を拾い上げると、数歩後ろに下がった。
「危ないから、近づくんじゃねえぞ」
うん! とハーシェルは元気にうなずいた。
棒を構えて立ち止まると、ラルサは目を閉じた。
すーっと深く息を吸い込み、深呼吸する。
静かに目を開くと、片手でスッと棒を振り上げた。
次の瞬間、びゅんっという音とともに、周囲に風が巻き起こる。草が揺れ、近くに咲いてあったたんぽぽの綿毛はあっという間に空へと舞い散った。
息をするのも忘れて、ハーシェルは口を半開きにしてラルサを見つめた。
ふわふわと、静寂の中を綿毛がただよう。
「す……」
ハーシェルは口を動かした。
「すごーい! やっぱりすごいよおじさん! それ、どうやってやってるの?」
ハーシェルは興奮で頬を紅潮させながらラルサにたずねた。
「いやぁ、こんなに手放しでほめられたのは久しぶりだなあ」
ラルサは照れたように笑った。
「どうやって、か。まず最低限必要なのは、棒を勢いよく振り下ろせるだけの筋力だな。力がなけりゃ、どんなに鋭い剣でも槍でも、まるで話にならない。それこそ相手が小っちゃい小刀しか持っていなかろうと、力の差が大きければ大きいほど、負ける確率は格段に高くなる。……嬢ちゃんが箒振り上げて手ぶらの俺に襲いかかってきても、俺には勝てない。それと同じことさ」
ニッと笑うラルサに、ハーシェルはふくれっ面になった。
「今度はフライパンにするもん」
「おうおう、楽しみにしてるぜ」
ラルサはおもしろがるような調子で言った。
「二つ目にだ。何も、力任せに振り下ろしゃあいいってもんじゃない。部分的に力を抜くこと、つまり、力をコントロールすることも大切になってくるんだ。肩に余分な力が入っていちゃあ、それは他の必要な力の邪魔になる。無駄な力は抜いて、だが必要な力はしっかり入れて、棒の重みを利用しながら振ることが大切なんだ」
うんうん、とハーシェルはうなずいた。
「それで終わり?」
ラルサはにやりと笑った。
「いや、もう一つある。まあ、ここで終わるやつも多いんだが。実は、最後が一番重要でな」
ラルサは続けた。
「最後に精神力。つまりは気持ちだ。俺が棒を振る前、一度目を閉じたろう?あれは、いったん心を静かにして、すべての集中力を引き出すためにやったことだ。いくらその前に怒っていようと喜んでいようと、その時にはその気持ちをきちんと鎮めなければならない。だから俺は、嬢ちゃんに会えた喜びを必死に押し殺して、静かな心で棒を振ったわけさ。ああ~、つらかったぜ」
そでに目を当て、ラルサは泣くフリをした。
ハーシェルは声を上げて笑った。
「だが最近は、これを忘れて感情と力だけで突っ込んでくるやつが多くてなぁ。まったく困りもんだよ。――とまあ、俺からの説明は以上だ。分かったか? 嬢ちゃん」
「うん!」
ハーシェルは大きくうなずいた。
ラルサの説明は簡潔で分かりやすい。きっと兵士たちに教える時も、こうやって丁寧に教えているのだろう。
「ねえそれ、ハーシェルも練習したらできるようになる?」
ハーシェルはわくわくした表情で聞いた。
ラルサは意外そうに眉を上げた。
「嬢ちゃんがか?」
うーん、と、ラルサが難しそうな表情で考え込む。
「まあ、二、三十年練習したらできるようになるんじゃないか?」
「にさんじゅうねん!」
びっくり仰天したように、ハーシェルが叫んだ。
その驚きように、がははっとラルサは愉快そうに笑った。
「そりゃそうさ。筋肉をつけるのも精神力を磨くのも、それなりに時間はかかる。けどまあ、嬢ちゃんの言う『びゅんってやったらブワーってなるやつ』は難しいが、そこらへんの泥棒を捕まえるくらいなら、七、八年もすればできるようになるんじゃないか?」
ハーシェルはちょっと目を見開いた。
いったん口をつぐむ。それから、確かめるようにつぶやいた。
「七、八年……」
急に静かになったハーシェルを、ラルサは不思議そうな顔で見つめた。
何やら考え込むように黙り込んでいたハーシェルは、やがてぱっと顔を上げると言った。
「決めた! ハーシェル、おじさんみたいに強くなる! それで七年後にはどろぼう倒せるようになって、それでいつか、びゅんってやってブワーってできるようになる!」
はじけるような笑顔で言うハーシェルに、ラルサは一瞬、驚いたように真顔になった。
しかしすぐに表情を戻すと、いつものように、にかっと笑って言った。
「おう! そうかそうか。まあ、強くなるのはいいことだ。じゃあ早速、アスリエル王に剣を習いたいって頼んでみるとい――」
一気に表情を暗くしたハーシェルを見て、ラルサはあわてて言葉を変えた。
「ああいや、王には俺から伝えておこう。ちょうどこの後用事もあったしな」
父親となんかあったな、とラルサは思った。
ハーシェルはいくらか表情を取り戻し、「うん」と嬉しそうにうなずいた。
それから、ラルサはわずかに眉をひそめた。
「それとな、嬢ちゃん。……俺は、嬢ちゃんに言っておかなきゃならんことがあるんだ」
ハーシェルは、ラルサの声色が変わったことに気づいた。
ハーシェルはきょとん、とラルサを見上げた。
「なあに? おじさん」
一呼吸置くと、ラルサはその言葉を告げた。
「嬢ちゃんを『嬢ちゃん』って呼ぶのも、今日が最後ってことだ」
「え――」
ハーシェルは大きく目を見開いた。
ラルサは言った。
「城に戻った以上、嬢ちゃんはもうただの女の子じゃない。ナイル帝国という、一国の王女だ。そしてそれと同様に、俺はナイル帝国の将軍だ。立場には、それぞれの立ち居振る舞いってもんがある。俺は王家に仕える者で、嬢ちゃんは王家の人間だ。だから俺はもう、嬢ちゃんのことを嬢ちゃんっては呼べない。……分かるな?」
優しく言うラルサに、ハーシェルはうつむいて小さくうなずいた。
本当はもう分かっていた。
この一週間、みんながハーシェルに対して頭を下げて、それはなんだか悲しくて、寂しかった。だけど、侍女がヘステラに、ヘステラがセミアにそうしているのを見るうちに、ここでは、それが守らなければならないルールなのだと思った。
そして、そう振る舞われることに違和感を感じるのは、きっとまだハーシェルが姫になりきれていないからだ。それならば、これから、頭を下げられるに値する立派な姫になればいい。そう思った。
それに……
ハーシェルは顔を上げた。
「もう大丈夫だよ、おじさん。だって、おじさんはなにも変わってなかったってこと、ちゃんと分かったから。呼び方や態度が変わっても、おじさんはおじさんだもん。そうでしょう?」
そう言って晴れやかに笑うハーシェルを、ラルサはまじまじと見つめた。
てっきり落ち込むかと思っていたが、そうやわではなかったらしい。『ハーシェルはそんなことでへこたれたりしないわ』――そう言っていたセミアの顔が、頭に浮かんだ。
この子は、思っていたよりも強い。
ラルサはうなずいた。
「ああ、その通りだ。俺は俺だ。そんでそれは、嬢ちゃんも同じことだ。姫になったからって、今までの嬢ちゃんが消えちまうわけじゃない。嬢ちゃんは、嬢ちゃんらしくしていればいい。だから、あんまり頑張りすぎて、自分を押し殺すんじゃないぞ?」
心を見透かされたような言葉に、ハーシェルは目を瞬いた。それから、「うん!」と笑った。
その後、ラルサは部屋までハーシェルを送り届けてくれた。
すごく遠くまで来てしまったような気がしていたが、どうやらそうでもなかったらしい。ものの五分で、ハーシェルは自室に到着した。単に城の裏側の方に来ていただけだったということは、後で分かったことだ。
ラルサに会えて、ハーシェルは心が軽くなった気がした。
王宮での生活はこれまでの日々とはまったく違っていて、まだまだ戸惑うことも多い。けれど、ラルサやセミアのように、自分のことをちゃんと知ってくれている人もいる。慣れないことはこれから慣れていけばいいし、知らないことは、これから知ればいい。そうすればきっと、いつか本当の姫にもなれるだろう。
そして、立派な姫になったその時には――
ハーシェルはふわりと微笑んだ。
自分の足で、ウィルに会いに行こう。母は戻ることはできないと言っていたけれど、向こうからこっちには来れたのだ。きっと帰ることもできるはず。地理を知って、馬に乗って、あの場所へ帰るのだ。野原に行けば、きっとウィルに会える。そして、賢くて立派な姫へと成長したハーシェルを見せて驚かせてやるのだ。
そう思うと、ハーシェルは何でもやれる気がした。
* * *
トントン、と扉をノックする。
さりさり、と書き物を書く手を止め、こちらを振り向く気配がした。
「誰だ」
「私です、陛下」
ラルサが答えると、部屋の主は中に入るよううながした。
そこは、王の執務室だった。王の間の裏に位置しており、部屋にはたくさんの本や書類が所狭しと置かれている。一国の王がいる場所としては、いささか華やかさに欠けた部屋ではあるが、王は好んで一日の大半をこの部屋で過ごしていた。
奥の机で、書類に埋もれるように書き物をしていたアスリエルは、ラルサが入ると顔を上げた。
「何か用か?」
ラルサはおもしろそうな顔をした。
「用がないと、来ちゃいけないんですか?」
王に対するにはいくらか砕けた口調で、ラルサは言った。
アスリエルはうなずいた。
「ああ、そうだな。見ての通り、私は忙しいのでな」
かと言って特に追い出すふうもなく、再び書き物を再開する。
二人は、かつて同じ戦場で共に戦った仲だった。互いに背中を預け合い、倒した敵は数え切れぬほど。「王と将軍が組めば、向かう先敵なし」、そうとも言われていた時代もあった。それほど、二人は深い信頼関係と、並外れた強さを持っていた。
そのためか、周りに誰もいない時は、ラルサは口調が緩むことが多かった。アスリエルも、ラルサに対しては気を休めることができた。
「あの子に、何か言ったでしょう」
ラルサが言った。
「誰のことだ?」
アスリエルは眉をひそめて顔を起こした。
「ハーシェル様ですよ」
「ああ……」
アスリエルの顔に理解したような色が浮かんだ。
ラルサはアスリエルの方に歩いていくと、近くの椅子に勝手に腰かけた。
「ちょっと厳しすぎるんじゃないですか? たった一人の娘なのに、もう少し優しくしてあげてもいいでしょう。部屋から出てきた時、あの子ひどい顔してましたよ」
まあ、あの時追い打ちをかけるように厳しい態度をとったのは自分だが……。
ラルサは、その時のさらにショックを受けたようなハーシェルの顔を思い出して、自分の行動を悔やんだ。
一方アスリエルは、全く態度を揺るがす様子もなく言った。
「何を言っている。厳しくするのは当然のことだろう。この国でただ一人の姫ということは、それだけ困難や危険も伴う。今のうちにしっかりしてもらわねば、いつか欲や陰謀の渦に飲み込まれるぞ」
書類を書き上げると、印を押して隣の束の上へ置いた。束の厚さは、すでに十センチを優に超えている。いつものことながら、よく一日でこれだけの量をこなせるな、とラルサはあきれつつも感心した。
アスリエルは再びインクをつけようとして、ふと手を止めた。
「――それに、石のこともあるしな」
低くつけ足した言葉に、ラルサは表情を硬くした。
「……やはり、アッシリアは動くでしょうか」
アスリエルはうなずいた。
「ああ。まず間違いないな。これまでアッシリアとは冷戦を保ってきたが、じきにそれも崩れるだろう。力関係がナイルに傾き、それを恐れたアッシリアは何らかの手を打ってくる。そして、石を目覚めさせたのがあの子だと知った時――」
アスリエルは、ラルサの目をひた、と見据えた。
「ハーシェルの命は危険にさらされる」
ぴん、とその場の空気が張り詰めたようだった。
ラルサは静かにアスリエルの瞳を見つめ返した。糸を張ったような静寂が、淡々と部屋を流れる。
しかしそこで、場違いにもラルサはにやりと笑った。
「ここで陛下に、一つ朗報がございます」
アスリエルは意外そうに眉を上げた。
「申してみよ」
「ハーシェル様が、武術に興味をお持ちのようで。強くなりたい、とおっしゃっています」
「ほう?」
アスリエルは少し驚いたような顔をした。
ラルサは続けた。
「本来、王族……特に女性ともあらば、守られるべきもの。自身が力をつける必要はございません。しかしこのような状況下、本人が強くなるのも悪くないかと」
「確かに」
アスリエルは同意を示した。
周りの者で守り切ることができればそれで良いが、万が一、手が届かないこともあるかもしれない。その時、結局自分を守れるのは自分自身だけなのだ。
「よし、いいだろう。ハーシェルには生き残るためのすべを身につけてもらう。しかし、稽古は極秘で行う。理由は……分かるな?」
アスリエルがちらりと目をやると、ラルサは無言でうなずいた。
もし姫に武術のたしなみがあることが敵に知れたら、敵はそれだけ強い刺客を放ってくる。知らない方が相手は油断し、こちらに有利に働く。つまり、隠し玉というわけだ。
アスリエルは薄く微笑んだ。
「では決まりだ。あと必要なのは、師匠だな。そうだな、ハーシェルを教えるのは――」
* * *
ハーシェルは上機嫌で城を歩いていた。
今日から、剣の稽古が始まるのだ。
今朝、ヘステラがアスリエル王から伝言があると言って、ハーシェルを訪ねてきた。
『昼食を済ませたら、以前迷子になった場所に来ること。そこで、お前の剣の師匠が待っている』
また、このことは人にはあまり言いませんよう、とヘステラに言われたが、なぜかはよく分からなかった。
迷子になった場所とは、おそらく、偶然稽古中のラルサと居合わせた場所だろう。あの時は迷子の道すがら、たまたまあの場所にたどり着いただけだったが、今回は自分の意思をもって、しっかりとした足どりで目的地へと向かった。
だんだんと人気が少なくなり、あたりが静かになる。
左手には、あまり手入れの行き届いていないような草地に、いくらかの花が咲いていた。花壇があるところを見ると、昔は人が訪れていたのかもしれないが、今ではそれもほとんど放置されているようだ。
この先の角を曲がれば、ラルサと出会った場所だ。
そこにいるのは、いったいどんな人だろうか?
数理学の先生のように、目つきが鋭くて、やたら厳しい人だろうか。それとも、ヘステラのように、おだやかで優しい人かな?
後者であればいい、と思いながら、ハーシェルは廊下の角を右に曲がった。
そこで待っていた人物に、ハーシェルは目を丸くした。
背を向け、庭の石に腰をかけていた男は、ハーシェルが来たことに気づくとくるり、と振り返った。
茶色のふさふさしたひげ面に、熊のように大きな体。しかし一見怖そうな姿をしていても、実は優しい瞳をもっているということをハーシェルは知っていた。
「おじさ……ラルサ!」
ぱっと顔を輝かせたハーシェルに、ラルサはいつものように、にかっと笑った。