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瑠璃の王石  作者: シエル
第1部 王女の帰還
7/16

6.王宮へ

 7年の時を経て、王宮へと戻ってきたハーシェル。そこでは、一体どんな暮らしが待っているのか。そして、ついに念願の父親とご対面!

 ハーシェルは一人、荒れ果てた大地に立っていた。

 そこには、何もなかった。

 花も鳥も、虫も、たった一本の草木さえ、まるで生き残ることを許されなかったように存在しなかった。重く渦巻く曇天のグレーと、どこまでも続きそうな暗い土色の地面、その二色だけが不気味にハーシェルの目に映る。

 その光景に、なぜかぞっとした。

 何があるわけでもない、だが、何もないことこそが、ハーシェルには恐ろしく思えた。少しでも心安らげられるものを求めて、ハーシェルは歩き始めた。

 地面は時折大きくひび割れ、裂け目があったり、盛り上がったりしている。焼け焦げた植物の残がいのようなものもよく見られた。しかしそれも、生ぬるい風にあっという間にさらわれて消えていった。

 何か、とんでもないことが起こったのだ。

 すべてのものが塵と化し、大地が割れるほどの大きな出来事。巨大な天変地異か何かか、それとも――

「わっ」

 考え込みながら歩いていると、つま先が何かにつまずいて転んだ。

 何もないと思って歩いていたのに、一体なんなんだ。若干腹を立て、どうせ木の枝かなんかだろうと足元を振り向いた。

 そのものを見た瞬間、ハーシェルは思わず悲鳴を上げた。



 ――そこにあったのは、体から切り離された人の腕だった――――




「うわぁっ!」

 ハーシェルは叫び声とともに、ベッドから飛び起きた。

 部屋の窓からはあたたかな日差しが差し込み、外からはチュンチュン、と鳥の鳴き声がする。奥のベッドに腰かけて荷物をごそごそしていたラルサが、「なんだぁ?」と言って振り向いた。

 先ほどとは打って変わって平和な風景に、ハーシェルはほっと胸をなで下ろした。じとり、とかいた汗が背中をつたう。

「大丈夫? ハーシェル。怖い夢でも見たの?」

 着替えを済ませたセミアが、心配そうにハーシェルを見て言った。

「うん、ちょっと」

 実際にはちょっとどころではなかったが、詳しく話す気にはなれなかった。思い出すだけでも、気分が悪くなりそうだ。

 いやな気持ちを振り払うように、ハーシェルはぶんぶんと頭を横に振った。

「どのくらいの間、寝てたの?」

 気を紛らわせようと、ハーシェルが明るい声で尋ねた。

「そうね、今が昼前だから、だいたい五時間くらいかしら? でも、悪い夢を見ていたのなら、早く起こしてあげたらよかったわね」

 セミアは微笑んで言った。

 その時、ラルサが「よっしゃあ!」と立ち上がった。

「嬢ちゃんも起きたことだし、下の食堂で昼飯食ったら出発だな。次の町、クムルスに着くのが今夜、その次のマリに着くのが明日、王都セインに着くのは明後日ってところか。まあ、少なくとも明後日の昼頃には王宮に入れるだろう」

「えー、そんなにかかるのー?」

 ハーシェルはがっかりした。ナイルに入ったからには、もうすぐそこに王宮があるのかと思っていたのだ。

「ま、昨夜みたいに夜通し馬をぶっとばせば別だがな。俺はそれでもかまわないが、そうするか?」

 ラルサはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

 ハーシェルは、昨夜の馬での疾走を思い返した。

 それは、どこからどう考えても快適とは呼べない時間だった。腰のあたりに、おそらく生まれて初めてであろう筋肉痛すら感じている。

「……いや、いい」

 ハーシェルはげんなりした目つきで言った。

 それから、セミアのリュックに入ってあったいつものワンピースに着替え、寝ている間にゆるんでしまった三つ編みを母に直してもらった。

 食堂に下りると、パンにサラダとスープ、ソーセージや卵の盛り合わせを食べた。食材はすべてタムナスの実家で採れたものや、近所の人の差し入れだそうで、どれも新鮮でおいしかった。

「また、いつでもいらして下さいね」

 見送りのため、玄関先に立ったタムナスが笑顔で言った。

 ハーシェルたちは、隣の馬小屋に預けておいた馬に荷をのせ、引いて出てきたところだった。時刻は昼をまわり、あたりには農作業をしている大人や道端で遊んでいる子どもがぱらぱらと見受けられる。道や畑で人がすれ違うと、ハーシェルが畑のおじいさんとすれ違ったときのように、親しげにあいさつを交わしていた。

 ラルサが言ったように、あたたかくていい村だな、とハーシェルは感じた。

 タムナスの言葉に、セミアが微笑んだ。

「ええ。お世話になりました」

 その時、なぜかタムナスの頬がぽっと赤く染まった。

 そして、急にラルサの腕をぐいっとつかんで自分の方に引き寄せると、早口でラルサにささやいた。

「最初に見たときから思っていたのですが、どうやってこんなにきれいな奥様を手に入れられたのですか⁉ 何かコツがあるのなら、私にも教えて下さいよ!」

 真剣な表情のタムナスに、ラルサはあいまいな顔で笑うしかなかった。

 馬に乗ると、三人は別れのあいさつを交わしてその場をあとにした。



 その晩、ハーシェルたちはクムルスの町に着いた。その後も旅は順調に進み、ラルサが言っていた通り、次の日の昼にはマリに入った。マリに着いてからなんとなく、ハーシェルはアッシリアにいた時よりも暑いように感じていた。「今日は暑いね」とラルサに言うと、ラルサがナイルはアッシリアよりも全体的に気温が高いのだと教えてくれた。言われてみると、町の人々の服装はアッシリアよりも薄着であることに気づいた。生地やデザインも、少し違うようだ。

 食べ物は、多くのものはアッシリアと変わらなかったが、知らないものも時々あった。その中でも、ハーシェルは「チュリス」という果物が特に気に入った。これはアッシリアのりんごに似ているが、りんごよりもひとまわり小さく、甘い。それに、色は赤よりも黄色に近かった。ハーシェルはこの果物をとても気に入り、三つも買ってしまった。ちなみに、食べ切れるのかどうかはまた別の話だ。

 ハーシェルはアッシリアにはない珍しい店やものを見つけると、すぐに立ち寄りたがった。最初はセミアとラルサも何も言わずついてきてくれたものの、「この調子じゃ、城に着くのは一週間後になっちまうぞ……」とラルサがあぜんとした様子で言うと、ハーシェルはぴたり、とはしゃぎ回るのをやめた。

 それでも、好奇心が抑え切れない時には勝手に駆け出してしまうこともあった。二、三回、迷子にさえなりかけた。



 そんなこんなで、王都セインを目の前にしたのは、アッシリアを出発してから三日目の昼過ぎだった。

 今、ハーシェルたちの目の前には巨大な門がそびえ立っていた。

 どっしりとした石造りの門は上がアーチ状になっており、両脇には二人の門番が槍を構えて立っている。これまで通ってきたどの町の入り口にも、このように立派な門はなかった。やはり、他の町と王都ではわけが違うようだ。

 ハーシェルたちはラルサを先頭に、堂々と門の真ん中を通過しようとした。

 その時、右側にいた門番の男に声をかけられた。

「おい、ちょっと待て」

 ハーシェルたちが立ち止まると、門番はすたすたとこちらへ歩いてやってきた。

 何か悪いことでもしたのだろうか。門番は厳しい表情をしている。

「ここでは、検問を受けなければ中へ入ることは許されない。何か身分を証明できるものや、紹介状はお持ちか?」

 え、とハーシェルは驚いた。

 周りを見回してみると、確かに、門番たちは門から出て行く人々については特に気に留めないが、入る人々については検問を行っているようだ。ちょうどハーシェルの後ろあたりでも、荷車を引いた商人風の男が左の門番に検問を受けている。

 まさか、ラルサはそのことを忘れていたのだろうか。

 疑いの目でハーシェルがラルサを見上げていると、ラルサは、ああっ!と何かを思い出したようにポンと手を打った。

「そう言えば、ナイルを出てから外してたんだったな。えーっと、どこにしまったっけな……」

 馬から下りると、ラルサは荷物の中を何やらごそごそと探し始めた。

 リュックの外袋を片っ端から開け、中身を全部地面にひっくり返し、中に入っていた巾着袋を探ってみたり、服のポケットを全部ひっくり返したりした。

 無惨に地面に放り出された荷物の数々をひと目見て、ラルサが普段どれほど荷物の整理をしていないのかが、ハーシェルにさえ分かった。

 マイペースに荷物の間を探すラルサを、ハーシェルはあきれたように、セミアはただ静かな様子で、門番は胡散臭そうな表情で見守った。

 それから約五分後、どこから取り出したのか、「あったあった」と言いながら、何かを手に取ったラルサがのん気に立ち上がった。

 手のひらに収まるほどの小さなそれを門番に見せると、門番はぎょっとした様子で姿勢を正して敬礼した。

「これは、大変失礼をいたしました!」

 ハーシェルはびっくりして、ぽかん、と口を開けた。

 ラルサはなんとはなしに「いいや、こちらこそ悪かった」と言うと、地面に広げた荷物をあっという間にもとの状態に戻していった。量の割に片づけが早いのは、何も考えずにぽんぽんとリュックや袋の中に放り込んでいっているからだろう。だから、あとで物を探すはめになるのだが。

 最後に「あ、そうだそうだ」と地面に残った手紙を拾い上げると、少し土を払って門番に渡した。

「これを、あとで王宮へ届けてくれ。急ぎではないから、手が空いている時でかまわんよ」

「はっ、かしこまりました!」

 手紙を受け取った門番は、ぴしっと直立して言った。

 ラルサが馬にまたがると、今度こそハーシェルたちは門をくぐり抜けた。

 ラルサの前で馬に揺られながら、ハーシェルが尋ねた。

「ねえ、さっきのなんだったの?」

「ああ、あれな」

 ラルサが後ろでうなずいた。

「これのせいだよ」

 ハーシェルが振り向くと、ラルサの手が胸元の小さなバッジを指し示していた。青い花のマークが描かれた盾に、金色のつるが絡みついたような形をしている。

「これはいわば、俺の身分を証明するもんだ。王家に仕える者の証とも言える。これをつけていれば、いちいち検問を受けずに通過することができるんだ。……俺はまあ、城ではそこそこ高い位だから、門番の兄ちゃんはあんな態度をとったんだろうよ」

 ラルサは、謙遜するようにちょっと言葉をにごして言った。

 横に並んだセミアが、微笑んで言葉をつけ足した。

「ラルサは将軍なのよ」

「ショウグン……?」

 聞き慣れない言葉に、ハーシェルはきょとんとした。

「ナイルの兵士や軍隊の中で、一番えらい人のことよ。たくさんの兵士たちに戦い方を教えたり、指揮したりしているの」

「へぇ……」

 目をぱちくりさせ、ちょっと感動したようにハーシェルが言った。

 大食いで大ざっぱで、底抜けに陽気なラルサだが、城では随分と立派な人のようだ。

 門の先は、幅広い石造りの橋になっていた。馬で荷を引いた商人や旅人、観光客など、さまざまな人々が往来している。

 そしてその橋の先に、先ほどくぐり抜けた門とは別に、少し小さめの門が建っていた。こちらの門には、特に門番のような者はついていないようだ。

 前を行く荷車に続き、ハーシェルたちはその門の下をくぐった。

「わぁ……」

 門の先の光景を目にしたハーシェルは、思わず感嘆の声をもらした。

 後ろで、ラルサがニッと笑った。

「ようこそ、王都セインへ」




 目の前に広がっていたのは、レンガ造りの建物と多くの露店が立ち並ぶ、見たことがないほどに華やかな街並みだった。

 塗り直したようにきれいな赤茶色や黒の屋根の家々は、どれも見上げるほどに背が高く、身を寄せ合うように密集して建っている。広い石畳の道の途中に、時折さりげなく飾ってある花壇に咲く花が、街をより一層美しく彩っている。

 人の数は、他の町の比にならないほどに多かった。街を行き交う人々の多くはこの国の人間のようだが、異国から来ている人も少なくはないようだ。服装や肌の色が明らかに違う人が、ちらほらと目につく。

「立派なもんだろう」

 街に見惚れているハーシェルに、ラルサは満足そうにうなずいた。

「だが、戦争が終わった当時はひどいありさまでな。三年かけて、ようやくここまで復興できたんだ。崩れた建物の多くが建て直され、道が舗装され、外から訪れる客も昔のように戻りつつある。もちろん、まだ修復できていない部分もいくつかあるがな」

 確かに、ぱっと目につくところはどこもきれいだが、よく見ると、ところどころ建物の一部が欠けていたり、屋根を直す作業をしているところもあった。にぎやかな街の音に混ざり、トントン、カンカン、と釘を打つ音が空高くあたりに響く。

 セミアは、街の光景を懐かしむように目を細めた。

「でも、ここの雰囲気や人は何も変わっていないわ。本当に、帰ってきたのね……」

 ハーシェルたちが乗る二頭の馬の蹄が、石畳を叩いて軽快なリズムを刻む。その隣を、三、四人の子どもたちが楽しそうに走り抜けて行った。白や黄色の布を張って屋根にした露店は、たくさんの客で活気にあふれている。その一方、ひっそりと通りの隅の地面に直接布を広げ、その上に陶器を並べて商売をしている者もいた。「いくらなんでも、この皿が金貨十枚は高すぎやしないかね……?一枚に負けておくれよ」「なに言ってんだいお客さん! これでも随分安くしてるんだよ」「いやしかし……」

 露店をうろんな目つきで見送りながら、ラルサは顔をしかめて鼻を鳴らした。

「ありゃどう見ても詐欺だな。あれが金貨十枚もするわけがねえ。俺が勤務中だったら、即取り締まってやるところだぜ……」

 自分の足で町を歩いてみたくなったハーシェルは、途中で馬から降りた。セミアとラルサも、一緒に付き合って降りてくれた。

 馬を引いて歩きながら、ハーシェルは好奇心のままにきょろきょろとあたりを見回った。たくさんのお店、街の音楽隊、石畳のすき間に生えている花、迷路のような路地裏まで。今までの旅と違い、いくら道草をしてもハーシェルは二人に止められることはなかった。もう城が近いせいかもしれない。

 そうして、街の中心部あたりまで歩を進めたときのことだった。

 ハーシェルたちは、円形の噴水を中心とした大きな広場に来ていた。大小二つの皿が縦に連なったような形をした噴水の中央からは、絹のようになめらかな水が、日の光を浴びてきらきらと輝きながら流れ落ちている。

 ハーシェルは噴水台の端に膝をついて、その先に手を伸ばして遊んでいた。水がひんやりと冷たくて気持ちがいい。

 その時、広場の外から声がした。

「ラルサ殿!」

 力強い声に、噴水から手を引っ込めて振り向くと、がっちりとした体格の男が向こうから歩いてくるところだった。他にも、後ろに数人の若者を引き連れている。

 ラルサは男に気づくと、眉をひそめて小さく舌打ちした。

「ちっ、もう来たか……」

 男はずんずんと大またでラルサに近づいてくる。なんだか怒っているようだ。

 そして、ラルサの前に着くやいなや、胸ぐらにつかみかかりそうな勢いでしゃべり始めた。

「やっと見つけましたよ! まったくもう、こんな大事な手紙をなぜ速達で送らなかったのですか! その上、『夕方頃には、無事城に到着すると思われます』……ですって⁉ いくらあなたの腕が立つとはいえ、このような大事なお二方を一人で城までお連れするつもりだったのですか!」

 右手に持った手紙をひらひらさせながら、男は鬼の形相で言った。

 あ、門の前でおじさんが渡してた手紙だ、とハーシェルは思った。

「ちょっと聞いてるんですか!」

 若干面倒くさげな表情を浮かべるラルサに、男はさらに声を高くした。

 ラルサは肩をすくめた。

「あー、悪かった悪かった。けど、観光くらいしたっていいだろう?」

「それでも、場所を指定して待っていてくださればいいでしょう! いったい私がどれほど探したか、おわかりですか⁉ そうすれば、もっと早くお迎えに上がれたものを………」

 悪びれる様子のないラルサに、男はイライラと歯がみする。

 そして不意にセミアの方に体の向きを変えると、片ひざを地面について最敬礼の姿勢をとった。

「ごあいさつが遅れて申し訳ありません。大変お久しゅうございます、セミア様。相変わらず、おきれいで」

 セミアがにっこりと笑みを浮かべた。

「ええ、本当にお久しぶりね。あなたは、七年前より貫禄が増したんじゃないかしら?ずい分と探させてしまったようで、悪かったわね」

 王妃の謝罪に、男は恐縮したように身を震わせた。

「いえいえとんでもございません! 王妃様が謝られるようなことは、何一つございませんので」

 それから、男は噴水のそばに突っ立っているハーシェルに目を向けた。

「あのお方が……?」

 男は確認するようにセミアを見上げると、セミアは黙ってうなずいた。

 すっと立ち上がると、男はすたすたとハーシェルの方に歩み寄ってきた。

 次の瞬間、男のとった行動に、ハーシェルは思わずぎょっと飛ぶように一歩後ろに下がった。

 セミアのときと同じように地面に膝をつき、ハーシェルに向かって頭を下げたのだ。

「お初にお目にかかります。わたくし、近衛隊長のサラバンと申します。お会いできて光栄です、ハーシェル様」

 ……さまぁ⁉

 かつてつけられたことのない敬称と態度に、ハーシェルは衝撃のあまり一時言葉を失った。

 少しの間のあと、気を取り戻すと「ええと、はじめまして」とハーシェルはぎこちなくあいさつを返した。

 だがサラバンは、何が気になるのかじーっとハーシェルを見つめたまま動かない。

 そして、口からすべり出たようにつぶやいた。

「本当に、大きくなられて……」

 その瞳が一瞬うるんだように見えたのは、ハーシェルの気のせいだろうか。

 しかしすぐにもとの表情に戻ると、サラバンは何事もなかったかのように続けた。

「お二人ともお疲れでしょう。あちらに馬車をご用意しておりますので、どうぞお乗りください」

「せっかくだけれど、遠慮しておくわ。馬車からだと景色がよく見えないもの」

 セミアがやんわりと断った。

 サラバンはうなずいた。

「分かりました。では、馬の方へどうぞ。周囲はわたくしたちが護衛いたします」



 噴水がある広場を出発して間もなく、街並みの奥に城の先端部分が見えるようになってきた。黄味がかった白い石壁に濃い灰色の塔の先が、まるで針のように空に向かって突き出している。

 ハーシェルたちが乗る二頭の馬は、周りを前方に二名、両脇に二名、後方に三名の計七名の護衛に囲まれていた。

 あまり目立たないよう、護衛は控えめにしておきます、と言っていたサラバンだったが、もう十分に目立っているとハーシェルは感じた。しかし、守られている当人たちは位の割にはずい分と質素な服装なので、武装した集団に囲まれて歩いている姿は、貴族の護衛というよりはむしろ罪人の護送のようだ。

 日は傾き、澄んだ水色の空は徐々に茜色に染まり始めていた。

 にぎやかな街中を抜け、密集するように建っていた建物もその数を減らすと、ハーシェルたちはちらちらと好奇の視線にさらされることは少なくなった。

 その頃にはだいぶ城に近づいていた。まだ城の全体が見えるようになったわけではないが、それでも、それがものすごく大きいことはハーシェルにも分かった。今見えている一部だけでも、街の建物が優に十個は入りそうだ。

 石畳とレンガ造りの家々が建ち並ぶ都会の風景は、いつの間にか乾いた土の地面と緑の草地に変わっていた。そして、丘のようになった坂道を、蛇のように曲がりくねりながら進んだその先に、ナイル城はあった。

 見上げるような高さとその存在感に、ハーシェルは圧倒された。

 いくつもの塔を伴ってそびえ立つ城の姿は、「美しい」「幻想的」というよりも、「重厚」「荘厳」といった言葉の方がよほどふさわしい。入り口となる城門の両脇からは厚い壁が延々とのび、城を大きく囲っている。左右の太い門柱の頂点にはワシの形をした石像がとまっており、今にも動き出しそうな様子でこちらを見下ろしていた。

 馬から降りたハーシェルは、おののくような気持ちで思わず後ずさった。

 自分は、本当にこのようなところに来て良かったのだろうか。

 街からそう離れたわけではないのに、ずい分と遠くへ来てしまった気がする。実はハーシェルがこの国の姫というのは誰かのとんでもない勘違いで、本当の姫は別にいるんじゃないか、そんな気さえしてきた。

 不安な思いの中、ワシの石像ににらまれながら、ハーシェルたちは門から門へと暗い通路を通過した。

 視界が一気にひらけ、明るくなった。

 その先の光景に、ハーシェルは目をぱちくりさせた。



「おかえりなさいませ、セミア様、ハーシェル様!」



 そこは、目を疑うほどに広大な庭園だった。

 アイリスの野がすっぽり入ってしまいそうな広さの中、色とりどりの花が咲きみだれ、枝分かれした道は模様を描くように前方へと続いている。それはまるで、カラフルな絨毯を一面に敷きつめたかのような光景だった。

 アイリスの野には自然が生み出したやわらかな美しさがあったが、この庭園には、人の手によって作られた洗練された美しさがある。荘厳な雰囲気の外観からは、とても想像できないような風景だ。

 そしてさらにハーシェルを驚かせたのが、出迎えの人の数だった。

 五十人はいるだろうか。女官や武官、文官、さまざまな身分の人々が、道をつくるように庭園に立っていた。ハーシェルたちがその間を通ると、みな、あふれんばかりの笑顔で話しかけてきた。

「よう、ラルサ。元気だったか?」

「お久しゅうございます。王妃様!」

「姫様も、よくぞご無事で」

「心配いたしましたぞ」

 見回すばかりの顔は誰もが幸せそうで、セミアとラルサもそれに笑顔で応えた。

 もっとも、ハーシェルにそんな余裕はなかった。このような大歓迎も注目も浴びたことがなかったハーシェルは、ただただ驚き、周りの人々を見回すだけで精一杯だった。自分は誰も知らないのに、みんなは自分のことを知っている。そのことが少し不思議に思えた。

 歓迎の嵐に飲み込まれるように庭園を進んだその先で、数段連なる階段を上るとハーシェルたちは城内に入った。

 そこでも、ハーシェルは何十人もの人々に歓迎された。

 いったい、城には全部で何人の人たちがいるんだ。ハーシェルは目が回りそうになった。

 城内も、庭園に負けず劣らずすばらしかった。

 床にはクリーム色の大理石が広がり、ドーム状の天井はどこまでも高い。その天井や壁、柱の隅々にまで細かく装飾や彫刻がほどこされており、いかに時間をかけてこの城が建築されてきたのかがよく分かる。

 仲の良い人を見つけたのか、城内に入るとセミアは近くの男性と親しげに会話を始めた。ラルサもどこかへ行ってしまい、暇をもて余したハーシェルが天井の装飾にぼけっと見とれていると、横から中年の女性に声をかけられた。

「さあさ、姫様。まずはお召し替えされませんと」

「おめしかえ……?」

「着替える、ということですよ」

 きょとんとした顔のハーシェルに、女の人は微笑んで言葉を付け加えた。

「王様にごあいさつにうかがう前に、身なりを整えなければいけませんからね」

「王様って……お父さん⁉」

 ハーシェルは、ぱっと顔を輝かせた。

 女の人はにっこりと微笑んだ。

「ええ、もちろんそうですよ。姫様にお会いできることを、心待ちにしていらっしゃいます」

 ずっと会いたかったお父さんに、やっと会える……!

 ハーシェルは城や庭園のどんなすばらしい光景よりも、そのことに一番心が浮き立った。

 足どりも軽くハーシェルは女の人の方について行こうとしたが、その前にセミアの方を振り返った。

「お母さんは一緒に行かないの……?」

 隣の男性と話をしていたセミアは、ハーシェルを見るとすまなそうに眉を下げた。

「ごめんね。お母さん、この後ちょっと用事があるから、先に行っててちょうだい」

 不安そうな表情になるハーシェルに、セミアは笑いかけた。

「大丈夫よ。用事が済んだら、お母さんも行くから」

「……分かった!」

 うなずくと、ハーシェルは女の人と、他に二人ほどの若い女性と一緒にその場を離れた。

 いくつもの廊下を抜け、階段を上がり、何度も角を曲がった。ハーシェルはもう、自分が城のどのあたりの位置にいるのか分からなくなっていた。もしも一人で放り出されたら、とてもじゃないが目的地にたどり着ける気がしない。

(お母さん、ちゃんとハーシェルがいるところまで来れるのかな……?)

 ハーシェルは、あっさり母と別れてしまったことを後悔し始めていた。

 不安な思いを抱く中、廊下の突き当りにさしかかったところでハーシェルはようやく部屋に通された。

 淡い水色を基調とした壁に、白の薄布をたらした天蓋つきベッド。左側には天井にまで届きそうな大きな窓が広がっており、夕暮れ時のうっすらとした日の光が部屋に差し込んでいる。

 全体的にすっきりとした部屋で、ハーシェルには好印象だった。それに、ずい分と広い。こんなに広い部屋、いったい何に使うのだろうか。

「今日から、こちらが姫様のお部屋になります」

「……ええ⁉」

 澄ました表情で言う女性に、ハーシェルはびっくり仰天して声を上げた。

 部屋の広さは、ハーシェルが住んでいた小屋の面積を全部足してもまだ届かないくらいだ。そもそも、自分の部屋すらもったことがないハーシェルにとっては、とんでもなく贅沢に思えた。

「申し遅れましたがわたくし、女官長のヘステラと申します。姫様のお世話は主にこちらの侍女たちがいたしましょうが、わたくしもたまにお手伝いさせていただくことがあるかと存じます。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 ヘステラがやわらかく微笑んだ。笑うと、丸い顔にえくぼができて愛嬌がある。

「えっと、はい、お願いします……?」

 ハーシェルは、たどたどしく言葉を返した。

 王都に入ってからというもの、会う人みなが妙に丁寧過ぎて、なんだかやりにくい。それに、「姫様」と呼ばれてもどうにも自分のことだという気がしなかった。

 ヘステラが衣装ダンスから服を取り出すと、ハーシェルは女性たちに手伝ってもらいながら着替え始めた。

 一から十まで、それこそ服をぬぐことから新しい服の簡単なボタン留めまで手伝ってくる侍女たちに、「服くらい自分で着れるよ」とハーシェルはわずらわしそうに言ったが、「姫様は何もされなくていいのですよ」とにこやかに一蹴されただけだった。ほぼ突っ立っているだけで、いつの間にか着替えは終了していた。

 ふんわりと軽い白の生地に、すそにかけてつるのような金の刺繍がほどこされている。その場で一回転すると、ふわり、となめらかな生地がひざ下で広がった。

「うわぁ……」

 感動の声をもらすハーシェルに、ヘステラはにっこりと笑った。

「よくお似合いですよ」

 それからなにやら髪まで整えられ、ちょっとしたアクセサリーをつけると、ようやくハーシェルは着せ替えから解放された。

 鏡に映った自分の姿を見て、ハーシェルは思わずため息をこぼした。

「本当にお姫さまみたい……」

「あなたは、正真正銘のお姫様ですよ」

 まるで自分が姫ではないかのような言い草に、ヘステラは苦笑しながら言った。

 (早くお母さんに見せたいな。お母さん、ハーシェルだって分かるかな?)

 ハーシェルはわくわくしながらセミアを待ったが、その後セミアが部屋を訪ねて来ることはなかった。

 ハーシェルは、一人で父に会いに行くことになった。



 王の間は、ハーシェルの部屋からそれほど遠くはなかった。

 ハーシェルはどきどきしながら扉の前に立った。今日通り過ぎてきたどの部屋よりも、大きくて立派な扉だ。

 ヘステラは小さく咳払いをしてから、扉をノックした。

「アスリエル様、姫様がお着きです」

 少しの間のあと、内側から低い声が響いた。

「入れ」

 扉が重々しく両側に開かれる。ハーシェルは中へと入った。

 部屋は広々とした造りで、磨き上げられた琥珀色の床が一面に広がっている。高い天井はアーチ状になっており、咲き乱れる花のような形をした照明が一つ、天井からぶら下がっていた。

 その奥、床より数段高くなったところに、この国の王はいた。

 ナイル帝国王、アスリエルは、鋭い眼光と濃い眉毛をもった、とても風格のある人物だった。口ひげを生やし、灰色がかったうねるような黒髪は、うなじの下で緩く一つに結わえられている。

 もうちょっと優しげな父親像を想像していたハーシェルは、その圧倒的なオーラで王座に居座る父を見上げて、思わず固まった。

「ヘステラ、そなたは下がってよい」

 アスリエルが言うと、ヘステラは「かしこまりました」と頭を下げて踵を返した。

 (いや待って行かないで!)

 ハーシェルは反射的に心の中で叫んだ。

 しかしそれも虚しく、ヘステラはあっという間に部屋から出て行ってしまった。ハーシェルは一人部屋に取り残された。

 しん、としばし二人の間に沈黙がただよった。気のせいかもしれないが、ハーシェルはその鋭い瞳でじっとアスリエルに観察されているような気がした。ちょっと居心地が悪い。

 アスリエルが口を開いた。

「まずは、そなたの帰還を祝いたい。よく戻ってきてくれた、ハーシェル。私はこの国の国王、アスリエルだ。そなたの父親でもあるな。覚えていなかろうが、私たちが会うのは七年ぶりになる。会えて嬉しいぞ」

 にこりともせずに、アスリエルが言った。

 (いや、ちっとも嬉しそうじゃないんだが……)

 ハーシェルはがく然と立ちすくんだ。

 アスリエルの声にも表情にも、久しぶりに娘に会えた喜びというものは一切感じられなかった。まるで、任務から帰ってきた部下を、表面上の言葉だけでねぎらうのと同じだ。

 こんなはずじゃなかったのに……

 ハーシェルが黙っていると、アスリエルはひょいと片眉を上げた。

「なんだ、ろくなあいさつもできないのか」

 ハーシェルは顔をしかめて口を開きかけたが、結局そのまま閉じてしまった。なんだか、この王の前では何を言っても否定されてしまいそうな気がした。

 たいして失望した様子もなく、アスリエルは続けた。

「まあよい。礼儀作法については、これから学ぶことになるだろう。また、国民には七年前にこの国に王女が生まれていたことはまだ知らせていない。明日には、国じゅうが上から下への大騒ぎになるだろう。帰還祝いの宴も開催されるゆえ、必ず参加するように」

 まるで業務連絡でもするように、アスリエルは言った。ハーシェルは思わず顔をしかめたくなった。

「ところで、アッシリアでの暮らしはどうだった? 不便等はなかったか」

「うん、まあ……」

 ハーシェルは言った。

 町におりるのがちょっと遠かったくらいだが、すでに慣れてしまったハーシェルにはそれほど苦ではなかった。

 それに、自信をもってあの場所が好きだと言えた。あれからたくさんのすばらしいものを目にした今でも、ハーシェルにとってアイリスの野が一番であることに変わりはなかった。

「そうか。ならば結構」

 アスリエルは表情を変えずに言った。

「アッシリアでの暮らしは、おそらくのんびりと平凡なものであったろうが、ここでは違う。明日から、そなたには王族として必要な多くの知識を学んでもらう。マナーはもちろんのこと、その他語学、歴史、地理学、天文学、法律、経済……など、他にもやることは山のようにある。それぞれの分野に適した先生をつけるゆえ、しっかりと勉学に励むように」

「え、明日から……?」

 父の言葉に、ハーシェルは戸惑ったように眉を寄せた。

「でも、まだ自分の部屋の位置も覚えてないのに……」

「安心せよ。移動の際は、必ず誰かが一緒についてまわることになるだろう。それに本来、これらは五歳の時から学ぶべきものだ。二年遅れているそなたには、一日の猶予もない」

 ハーシェルはさらに眉をしかめた。

 それにしても、あまりに急ではないだろうか。ハーシェルは、もう少し城のあちこちを見てまわる時間がほしいと思った。

「だけど、お父さ――」

「ああそれと、私のことは『父上』、または『お父様』と呼ぶように。母親についても同様だ」

 淡々と言う父親に、ハーシェルは、え、と目を瞬いた。

 お母さんを――?

 ――――。

「おい、聞こえているのか」

 突然何も言わなくなったハーシェルに、アスリエルは若干いらついたように言った。

 ハーシェルは口を開いた。

「いやだ」

「……なんだと?」

 ぴくり、とアスリエルは頬を引きつらせた。

 ハーシェルはキッと顔を上げた。

「いやだって言ったの! お母さんは、ハーシェルのお母さんだもん! ハーシェルがなんて呼んだって勝手でしょ⁉」

 アスリエルはたちまち表情を険しくした。

「いいや駄目だ。そなたはナイル帝国の姫として、それ相応の振る舞いを身につける義務がある。言葉づかいもそうだ。他国の前で少しでもおかしな真似をしてみろ、それは、ひいてはこの国の恥となるのだぞ」

「なんでお母さんのことをお母さんって呼ぶのが恥になるの? 意味わかんない!」

 声を高くするハーシェルに、アスリエルはイライラしたように言った。

「一国の姫は普通、母親に対してそのような呼び方はしないものだ。多くの王家では、親に対する敬意というものを重んじている。ハーシェル、そなたは一般庶民ではないのだぞ」

「ハーシェルだってお母さん大事にしてるもん!」

「話にならんな」

 アスリエルはすっと立ち上がった。

「そなたとは、これ以上話しても無駄なようだ。――もう帰っていいぞ」

 二人は無言でにらみ合った。

 やがてハーシェルはさっと回れ右をすると、むかっ腹を立てながらもと来た道を帰り始めた。

 アスリエルも壇上から降りて身をひるがえすと、さっさと奥の扉から出て行った。

 ハーシェルはずんずんと速足で扉へと向かった。

 なにが『ナイル帝国の姫として』、だ。こんなことなら、本当にラルサがお父さんの方がずっと良かった。

 ぶつぶつと腹の中で文句を言いながら扉を開けると、扉のそばにまさにその人が立っていた。

 初めて見るきちんとした身なりをしたラルサは、いつもより少しだけ若く見える。ちゃんとした服装をしてみればなるほど、将軍だというのもうなずけるような気がした。

「おじさ……」

 久しぶりに見知った顔に会ったハーシェルは、ほっとしたように声をかけようとした。

 しかし次の瞬間、目の前で信じられないような出来事が起こった。

 片ひざを床につき、右手こぶしを左手で包み込む正式な敬礼の姿勢、それは、サラバンがやった時のものと同じものだった。

 深々と頭を下げるラルサに、ハーシェルは呆然とその場に立ち尽くした。

「これまでの数々の無礼、どうかお許しください。これからは誠心誠意、ハーシェル様にお仕えすることをここに誓います。ご要望等ございましたら、いつでもこのラルサにお申しつけくださいませ」

 ハーシェルの方をまったく見ることなく、ラルサは言った。

「おじさん、なに言ってるの……?」

 ハーシェルはよろよろと後ずさりした。

 こんなラルサ、自分は知らない。知っているのは、いつも陽気で明るくて、ハーシェルをからかったり、大口を開けて笑ったりするラルサだけだ。目の前でひざまずくこの人は、いったい誰なんだろう……?

「わたくしのことは、ただ『ラルサ』と、そうお呼びください。ハーシェル様」

 ハーシェルは泣きそうな顔になった。

 ラルサに「様」なんて呼んでほしくなかった。いつもみたいに、にかっと笑って「嬢ちゃん」って呼んでほしかった。本当のおじさんは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。もう、ハーシェルが大好きだったおじさんには二度と会えないの……?

 締めつけられる胸をぎゅっと押さえると、ハーシェルは逃げるようにラルサに背を向けて走り出した。

 ハーシェル様!

 背後で、ラルサが自分を呼ぶ声を聞いた気がした。ハーシェルは聞きたくもなかった。

 行き当たった角を曲がり、何も考えずに階段を駆け下りる。

 その先で仲良く談笑しながら歩いていた侍女たちは、ハーシェルの姿に気づくとハッと足を止めた。そして「姫様よ」とその中の一人がささやくと、三人は道の端に寄り、そろって敬礼をした。ハーシェルが通り過ぎるまで動くつもりはないようだ。

 ハーシェルは、はたと立ち止まった。

 思わず数歩後ろに下がる。そしてくるりと背を向けると、侍女たちとは反対の方向へと走り出した。

 それからいくつもの廊下を抜け、幅広い階段を上がったり下りたりした。すれ違う人々は、みな知らない人たちばかりだ。その横を通り過ぎれば、誰もがあわてたように頭を下げた。

 なんでみんな頭を下げるの?王女はえらいから?自分は、そんなこと望んでいないのに……

 そこには、隣に立って話を聞いてくれそうな者など一人もいなかった。同じ場所に立っているはずなのに、ハーシェルは自分だけ全く別のところにいるような気がした。それはひどく孤独だった。

 もう何度目か分からない角を曲がろうとしたとき、何かにどんっとぶつかった。

「ぶへっ」

 変な声を上げて顔を離すと、そこにはふっくらとした女の人が立っていた。どうやら、頭から突っ込んでいってしまったらしい。

 ハーシェルは、あっ、と思った。

 (さっき着替えのときにいた人だ……)

 女の人は、ハーシェルを見ると目を丸くした。

「おやまあ、どうされたのですか? こんなところで。ラルサ将軍がそちらにいらっしゃいませんでしたか?」

 驚いた顔で言うヘステラに、ハーシェルは間髪を入れずに聞いた。

「お母さんは?」

 ヘステラは眉をひそめた。

「セミア様なら、今は宰相殿とお話中です」

「それ、どこ⁉」

「だめですよ、大事なお話の邪魔をされては」

 ハーシェルはがく然とした表情をした。

「会えないの……? お母さんに……」

 今まで、会いたいときに母に会えなかったことなんて、一度もなかった。一人で外で遊んでいても、小屋に戻れば必ずいるし、その他に母と離れていたことなどなきに等しい。

 一人ショックを受けるハーシェルに、ヘステラは表情を緩めた。

「そんな、永遠に会えないわけじゃないんですから、そのようなお顔をなさらなくとも大丈夫ですよ。ただまあ、少し勘違いなさっているようなので申し上げておきますが……姫というものは、そうしょっ中母上にお会いになるものではありませんよ」

「え……?」

 ハーシェルは呆然とした。

「姫様は姫様でお忙しいですし、王妃様もいろいろとやらねばならぬことがございます。そのため、あまりお会いできる時間がないのですよ。――しかし、ご安心ください。姫様のお世話は、わたくしたちが責任を持ってしっかりとやらせていただきます。ですから、姫様は何も心配されなくていいのですよ」

 ヘステラが優しく微笑んだ。

 しかし、ハーシェルは笑えなかった。

 ナイルの姫として城に戻った今日、ハーシェルは様々なものを手に入れた。だがそれは、同時に多くのものを失うことも意味していた。

 もう二度と、あの頃の生活には戻れない。

 すべての環境が変わってしまったのだと、ハーシェルは悟ったのだった。

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