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瑠璃の王石  作者: シエル
第1部 王女の帰還
6/16

5.ラピストリア

 7年間住み慣れた小屋を離れ、ナイルへと急ぐハーシェルたち。アッシリア兵の追っ手をかわし、無事ナイルにたどり着くことができるのか――?


「やはり来ましたね……」

 ラルサは馬を走らせながら、ちらりと後ろの方を見やった。

 暗い木々の向こうの方で、黄色い明かりがちらちらと光っている。気づかれてはまずいので、ハーシェルたちはランプを使用していなかった。しかし見通しが悪い分、足どりは遅くなってしまう。

「ランプをつけるにしろつけないにしろ、このままではいずれ見つかってしまいます。ここは先ほどの手はずでいきましょう。セミア様は、ハーシェル様を連れて先にお逃げください。このまま真っすぐ進むと、三十分ほどで川岸に出ます。その近くに、以前わたくしがセミア様を探していた時に使っていた洞窟があります。わたくしが追いつけなかった場合には、そこで落ち合いましょう。いいですね?」

 セミアがうなずくと、ラルサは馬を止め、眠っているハーシェルを抱きかかえてセミアの前に乗せた。

 涙の跡こそ馬上での強風ですでに乾いて消えてしまっているものの、その表情はど

こか苦しげに見えた。セミアの膝の上に乗ると、まるでそこから動くまいとするように、セミアの服の裾をぎゅっとつかんだ。

 ラルサの手がハーシェルから離れる前に、セミアが言った。

「七年前の二の舞はごめんですからね。ちゃんと、すぐに私たちに追いつくのよ」

 真剣な顔のセミアに、ラルサはにやりと笑った。

「分かってますって。ほんの十分後にはまた会えますよ。それではお気をつけて、セミア様」

「それはこっちのセリフ――」

 セミアが言い切る前に、ラルサは、ぱんっと勢いよく馬の尻を叩いた。

 ヒヒーンッと一声いななくと、馬はセミアとハーシェルを乗せて走り出した。

 そしてあっという間に森の闇の中に消え、後にはラルサだけが残された。

 森の奥の明かりは、確実に近づいてきていた。ラルサがじっと耳をすましていると、まもなく仲間に発見を知らせる声が聞こえてきた。

「いたぞー!」

 目標を確認した男たちが、馬で地面を踏み鳴らし、急速にラルサに迫ってくる。

 ラルサはすらりと腰から剣を引き抜いた。二、三度手のひらでくるくると剣をもて遊んだあと、ぎゅっと柄を握り直して構えの姿勢をとる。

 恐怖はあまりなかった。むしろ、久しぶりの戦いに、興奮に似た感情が体の中を駆け巡っている。血がたぎるとは、まさにこのことだろう。

 ラルサは、もともと戦うことが好きだった。その目は真剣ながらも、口元は懐かしの友人を見つけたかのように笑っていた。

「さて、久々にいっちょ大暴れするかー」



   *  *  *



 神殿から少し離れたところに位置するある塔の一角、最上階にあたる暗い円形の小部屋では、神官たちによる緊急会議が行われていた。

 そこは窓の一つもない密閉された空間で、家具といえば部屋の中央にある、これまた円形の冷たい石造りのテーブル台のみである。その大きな台を囲って、七人の神官たちが並んで立っていた。

 みな頭から深く布を被っており、顔はさだかではない。緊迫したようすで早口にささやき合う声が、さざなみのように部屋を満たしていた。

「石が目覚めた」

「石が目覚めた」

「何故今になって……一体誰が目覚めさせたのじゃ……」

「石を真の意味で扱えるのは、古代パルテミア王国の王族だけじゃ。そなたも知っておろう」

「まさか、あの子どもが……」

 隣に立っていた神官が、すぐさまそれを否定した。

「それはありえん。あの子どもを石に近づけたことは一度もない。それに、石を使える者が封印を解けるとも限らぬ」

 その隣の神官がうなずいた。

「そうだ。使う者が解けるのなら、今までに誰かがやっていてもおかしくはない。他にできる者がいるとすれば……」

「まさか……」

「封印した者。そう、それしかありえんじゃろう」

 別の神官が、続きの言葉を受け継いで言った。

 その言葉の意味に、その場の空気がしん、と静まりかえった。

 一時の沈黙ののち、先ほどうなずいた神官が重々しく口を開いた。

「つまり、あの巫女と同等の力を持つ者が現れたということか」

「そうじゃ。問題は、それがアッシリア側の人間か、それともナイル側の人間かということじゃが……。もしナイル側の人間であれば、アッシリア王国にとって非常に危険じゃ」

「残念ですが、それはナイル人に違いないでしょう」

 それまで一度も発言せず物思いにふけっていた、七人の中で一番若い神官が言った。

 神官の何人かが、興味を引かれたようにそちらを振り向いた。

 若い神官でここまでの地位――すなわち、石に関する知識を得る権利と守る義務を持つ、〝石守り〟の地位――に昇りつめる者はなかなか珍しいが、この神官にはそれだけの知恵と才能があった。

「やはり、そなたもそう思うか」

 振り向いた神官の一人が言った。

 若い神官はうなずいた。

「我らの石には、封印が解ける直前まで誰も指一本触れてはいない。そもそも、この石には、我らと王族以外この二百年間誰も近づいてすらおりませぬ。ナイル側の石の封印を、誰かが解いたと考えるのが妥当でしょう。とすれば、やはりそれはナイル人に他ならないないでしょう。ナイルの王族が所持しているものが、アッシリア人の手に渡るとは考えにくい」

 神官たちは若者の言葉に考え込み、各々つぶやいた。

「確かに」

「信じたくはないが、やはりそのように考えるしかないようじゃな……」

 多くの神官が若者の意見に同意を示す中、一人の年老いた神官がキッと若者をにらみつけて反対した。

「そなた、自分が何を言っているのか分かっておるのか⁉︎もう一つはアッシリアで光ったのだぞ? ナイルの王族がアッシリアに、しかもこの城の近くにいたとでも言うのか? ありえん。これだから若輩者の考えることは当てにならぬ」

 にらみつけた神官は、馬鹿にしたように言った。

「では、あなたはこのことについてどうお考えなのです?」

 先輩神官に怒鳴られたことなど全く意に介さないように、若い神官が冷たく聞いた。

 神官はフン、と鼻を鳴らした。

「わしは、これはただ単に封印の時効が切れたと考えるね。あれから、かなりの年月が経っている。いくら強力な術者といえど、永遠に術が保てることはありえまい」

 若者は即反論した。

「それこそありえませぬ。封印が切れる直前まで、封印は極めて強固だった。切れるのでしたら、その前に何かしらの兆候があるはずです。ナイルの誰かが封印を解いたに違いありません」

「ナイルの王族がこの近くにいることの方がありえぬわ」

 神官は噛みつくように言った。

 それから、ふと思い出したような顔をした。

「そう言えば、先ほどの石守りの担当神官はそなたじゃったな。実際には何か石に動きがあったのに、そなたが気づかなかっただけなのではないか?」

 年老いた神官は鼻で笑った。

 若い神官は口を開きかけたが、その前に、別の神官がさりげなく否定するように言った。

「……その場には、わたくしもいましたが、確かに石には何の兆候も見受けられませんでしたぞ」

 年老いた神官は無視した。

「それにじゃ、仮にナイル王族が石を持ってアッシリアにいたとして、わしには、あやつらが我らの石をも奪って、アッシリアを侵略しようとしているふうにしか見えないのだがね。その辺りはそなた、どう思う?」

 神官が挑戦するような目で問いかけた。口元はにやりと笑っている。答えられないと思っているのだ。

 実際、若者は答えられなかった。若者は、はた目にも分かるほどにたじろいだ。

「それは……」

 若い神官は、なんとか答えようと口を開いたが、すぐに続きの言葉を考える必要はなくなった。若い神官の返答は、他の神官たちのざわめきにあっという間に押し消された。

「そうか、考えてみればその可能性も十分に有りうる」

「もしそうだとすれば、由々しき事態じゃ」

「それこそ、アッシリア王国の危機ではないか!」

「しかし、ナイルがこのような時期にそんなことをするか? まだナイルはこの間の戦争から完全に復興していない。ナイルの王は、そこまで馬鹿ではなかったと思うが」

 神官たちが思いつくまま口々に発言を始め、一部では熱い議論まで始まろうとしていた。

「静粛に!」

 神官たちの中でも一番の長老、今回の会議を取り仕切る神官が高らかに声を上げた。

 神官たちがプツリ、と話をやめた。

 長老は、しわの寄った、しかし威厳を感じさせる瞳でぐるりと台の周りの神官一人一人の顔を見回した。そして全員の目がこちらを向いていることを確認すると、ゆっくりと口を開いた。

「石のそばにいた者については、今兵が追っておる。捕らえれば、いずれ分かることじゃろう。今話すべきは、これからのことじゃ。わしは、少なくとも我らの石の周囲には結界を張るべきじゃと考える。石には何人も触れるべきではない。触れれば、過去のあやまちを繰り返すだけじゃ」

「しかし、もう一つは。追っている者が捕まらなければ、あちらが石をどう扱うか、分かったものではない」

 向かい側に立っていた神官がすぐさま口をはさんで言った。

 その隣の神官が言った。

「ナイルは、石を使ってアッシリアを攻めるに違いない。もしそうなれば、一体どう対抗する……?」

「やはり、我々も石の力で応戦するしか……」

「たわけ者! 二百年もの間守ってきた誓いにそむく気か!」

「しかし、他にどうすれば……」

 神官たちの間に不穏な空気がただよった。

 長老の神官がうなずいた。

「確かに、これは決して穏便に済ませられるような出来事ではなかろう。しかし、そこから先は王がお決めになること。今の我々にできることは、今すぐ我らの石の守りを強固にすることだけじゃ。ここにある石――ラピストリアは、我らが二百年もの間、守り抜いてきた石じゃ。これからも守り続けるのが、我らの務め。そうじゃろう」

 神官たちは、円形のテーブル台の中央に目を向けた。

 テーブル台の中央部分は、円柱型の台が三段ほどの階段状となって盛り上がっている。その頂上の少しくぼんだところに、うっすらと光輝く瑠璃色の石があった。

 石は、薄暗い部屋の中、周囲を囲む神官たちの顔をぼんやりと照らし出している。そこにいる神官の誰も、長老の神官でさえ、今まで生きてきてこのようにこの石が光を発する姿を一度も見たことがなかった。その上、その石がつい先ほどにはさらに激しく、強い光を内側から発したというのだから驚きだ。

 長老神官は、みなに目配せをした。

「――では、これより結界を張る。みなの者、準備はよいな?」

 神官たちがうなずいた。

 七人の神官たちはおもむろに目を閉じると、それぞれがスッと石の方向へと両手をかざした。そしてなにやら意味不明な言葉をぶつぶつと唱え始めた。

 それはバラバラな言葉を唱えているようで、同時にみなで一つの言葉を紡いでいるような響きでもあった。

 そして一つの言葉が紡ぎ終わるごとに、輪になった神官たちの体からは、目に見えない一つの大きな円形状の波紋が放たれた。それは電流のように神官たちの足元から台の上を伝わり、中央の瑠璃色の石へと送られた。波紋が石へと送られるたびに、部屋の空気がわずかに振動する。

 その過程が何度も繰り返され、石の周囲には徐々に薄い膜が見え始めた。それは石を中心に、テーブル台から上は天井まで、縦長の筒状に石を囲っていた。

 やがて結界が完成すると、神官たちは石の前にかざしていた手を下ろし、息をついた。

「ふぅ……。我々七人の力をもってしても、石の周囲に結界を張るのがせいぜいというもの。石の内部にその力を封じ込めたという巫女の力は、やはり恐るべきものじゃ」

「まさしく。封印を解いたという者も、ただ者ではあるまい。しかも、相手はナイルの王族。もしそれが事実であれば、見つけたら生かしてはおけぬな……」

 神官が、低く唸って言った。

 その時、突然部屋の扉が外側から激しくノックされた。

「伝令です。開けてください」

 神官たちの間に、さっと緊張が走った。

 みなが戸口に注目するなか、長老の神官は、扉から最も近い位置にいた若い神官に扉を開けるよううながした。

 若い神官が扉を開けると、そこにはまだ二十代半ばくらいの男性が、紺色の服に身を包んで立っていた。塔の外側の長いらせん階段を急いで上がってきたのだろう、肩がわずかに上下している。

「クレイ隊長より報告です。今追っている者についてですが……取り逃がしたそうです」

 最悪の通達に、その場の空気が冷えた。

 予想はしていたものの、神官たちは落胆を隠せなかった。ある者は首を横に振り、ある者は深くため息をついた。長老は、厳しい表情のまま「そうか」とだけ言った。

 伝令は言葉を続けた。

「光の発現地と思われる小屋には、部屋の様子からして、大人一名と子ども一名が住んでいたと考えられるもようです。実際に目撃できたのは大男一人ですが、こちらは二人の護衛か何かでしょう。子どもを一人で先に行かせるとは考えにくい。……ところで、そこの光っているものは一体何なんですか?」

 伝令は一通り報告を終えると、机の中心で薄く光を発している石の結界を見て、気がそれたように言った。

 長老はたいしたことのないような口調で答えた。

「気にするでない。そなたには関係のないことじゃ。……それから、今出兵されている兵も言われておることじゃろうが、今夜のことは一切、誰にも、他言せぬよう。ここで見たこともな。これは王からの命令じゃ」

 王、という言葉に、伝令は「はっ」と直立して返事をした。

 それから長老は、納得いかぬような様子であごに手を当てつぶやいた。

「しかし『子ども』とな……? ナイル王家には、現在子どもはいなかったはずじゃが……」

 一人の神官が、戸口から見える空に気が引かれたように一歩外へと足を踏み出した。

 雲ひとつない空には、星々が天空を飾る宝石のように幻想的に広がっている。しかし、その中でもひと際強く光を発している星があった。それは、不吉な予兆を示すかのように、ぎらぎらと真っ赤に輝いている。こんなにこの星が近づくことは、非常にまれであった。

「……大きな戦が近づいている」

 外へ出た神官は、夜空を見上げて言った。

 他の神官たちも、扉から見える空を見上げた。戸口に立っている伝令も、その動きにつられるように空をあおいだ。

「歴史が再び、繰り返されようとしている……」



* *  *



 近くで、何かがパチパチと弾けている音がする。

 それに、なんだかとてもあったかい。

 ハーシェルが目を開けると、すぐ側で薪をくべられた火が赤々と燃えていた。火の中で、薪が音を立てて崩れ落ちる。

 毛布に包まって寝転がっていたハーシェルは、ゆっくりと起き上がると、あたりを見回した。天井も、床も、すべてが石でできていた。床は比較的なめらかだが、ドーム状の天井はごつごつとした岩がむき出しになっている。外へと続く道の先は真っ暗で、何も見えない。ただこの火を中心としたドーム状の空間だけ明るかった。

 きっと、どこかの岩の中だ。自然にできたものと、人の手で作ったものがあるって、前にお母さんが言ってた気がする。こういう場所のことを、なんて言うんだっけ……

 ハーシェルがどこかぼーっとした頭で考えていると、

「あら、ハーシェルもう起きたの?」

 隣でラルサと会話をしていたセミアが、起きたハーシェルに気づいて言った。

 ハーシェルは母を見上げた。

「お母さん、ここどこ?」

「洞窟よ。ラルサが教えてくれたの。ここなら見つかりにくいし、安全だわ。だから、まだ寝ていて大丈夫よ」

 セミアが言った。

 ハーシェルは頭の中で、ぽんっと手を打った。そうだ、洞窟だ。

 それから、ぼんやりとしていたハーシェルの思考が、徐々に回転し始めた。

 (あれ? って、なんで洞窟にいるんだろ。……そうだ、なんか突然石が光って、お母さんが急にここを出なきゃいけないんだとか言って、ハーシェルはお姫様で、……で、なんで洞窟にいるの?)

 結局最初の問いに戻ってしまった。

 小屋でラルサとセミアが話していたところまでは覚えているのだが、そこからどういう経緯で洞窟で寝るに至ったのかが全く分からない。そもそも、自分は一体どの時点で眠ってしまったのだろう?色々な衝撃で、眠気など吹っ飛んでいたと思うのだが。

「……ところで、なにに見つかりにくいにくいの?」

 ハーシェルが怪訝な表情で聞いた。

 セミアは、整った眉を難しそうに寄せた。答えを言うべきか、迷っているようだ。

「それは……」

「そりゃもちろん、熊にさ!」

 ラルサが元気に割り込んできて言った。

「ここいらの森では、よく熊が出るんだ。熊は怖いぞー。やつら、人を見ると襲ってくるんだ。そして鋭い爪で、人間なんざあっという間に引き裂いちまう。『ガオォォオオ!』」

「うわぁっ!」

 突然顔の横で爪を立て、ほえるような声で熊のまねをしてきたラルサに、ハーシェルはびっくりして声を上げた。

「……ってなふうにな」

 熊の再現をやめると、ラルサはにかっと笑った。

 いつものラルサに戻っても、ハーシェルはしばらく心臓がドキドキしておさまらなかった。似ているどころではない。大きな図体と毛むくじゃらの顔でほえる姿は、もはや熊そのものだった。

「茶化さないでよ」

 セミアは不満そうに横目でラルサをにらんだ。

 確かに一瞬迷ったが、セミアは自分たちが何に追われているのか、きちんとハーシェルに話そうと思ったのだ。それを邪魔するということは、ラルサはそうすることを好ましくないと考えているのだろう。

 ラルサは「がははは!」と陽気に笑っていたが、さりげなく小声になるとセミアに言った。

「我々を追う者について話せば、結局は石についてのすべてを話さなければならなくなります。すべてを話すには、この子はまだあまりに幼い。それに、今の状況で十分に手いっぱいであろうに、この上この子の心に負担を増やすのは少々酷ではありませんか?」

 ラルサの言葉に、セミアはにらむのをやめてため息をついた。確かに、それもそうだ。

 セミアは話をそらした。

「ハーシェル、さっきラルサと話していたのだけれど、あと一時間ほどしたらここを出ようと思うの。夜中に移動した方が安全だから。……そう、熊に襲われないためにはね」

 セミアはラルサの冗談を思い出してつけ足した。

 当然、本当はアッシリアの兵士に見つからないようにするためだ。アッシリア兵から完全に逃げおおすには、やはり今晩中にアッシリアを出、ナイルに入る必要があるというのが、二人の見解だった。おそらく、アッシリア兵はまだ自分たちを探している。

「『質問は移動中に聞く』ってわたし、家を出る前に言ったわよね。今だったら、その時間が十分にあるわ。だけど、ここを出発したら最後、ナイルまで馬で走りっぱなしになるの。結構、遠いわよ。本当は今のうちに寝ておいた方がいいと思うのだけれど………かなり急なことだったし、きっとお母さんに聞きたいこと、いっぱいあるでしょう? だから、あなたが自分で選びなさい。後のためにも先に寝ておいて、質問は後回しにするか、それとも今疑問を全部お母さんにぶつけて、すっきりさせるか」

 ハーシェルはなんだか自分の問いをごまかされたような気がしたが、母が出した二つの選択肢については即答した。

「質問する。聞きたいこと、いっぱいあるもん。それに、ぜんぜん眠くないし」

 おじさんのせいでね、とハーシェルは心の中でつけ足した。

 起きた直後はまだ眠たかったのだが、ラルサが熊に変貌した瞬間、冷水を浴びせられたようにハーシェルは覚醒した。あんな衝撃的なものを見たあとに寝ろという方が無理だ。

 セミアはうなずいた。

「わかったわ。それじゃあ、まず何から聞きたい?」

 気になることはたくさんあったが、最初の質問は考える間もなくハーシェルの口からすべり出ていた。

「本当に、もう家に帰ることはできないの?」

 ほんのついさっきまで、自分の家で、いつもの布団で、いつものように寝ていたはずだ。それなのにもう二度とあそこで寝ることも、外で遊ぶこともないだなんて、とても信じられない。

 セミアは、真っ直ぐなまなざしでハーシェルを見つめて言った。

「そうね、あの小屋にはね。けれど、これからはお城があなたの家になるの。あそこは、仮の住まいでしかなかった。本来、あなたがいるべき場所は王宮なの。すぐには無理でしょうけど、いつかきっと、そう思える日が来るわ」

 ハーシェルは目を伏せた。

 自分が、ものごころついた時からいた場所。毎日のようにウィルと一緒に遊んでいた、花と緑がきれいな場所。自由で楽しくて、何一つ不満はなかった。お城は、きっととても広くて、すばらしいところなのだろう。だけど、そこにハーシェルが住み慣れた小屋はないし、よく遊んだ川や、アイリスの花が咲く野原もない。……ウィルも、いない。

 住む場所が変わるだけでも一大事だというのに、さらにその場所がお城で、その上自分がお姫様だなんて、おかしなことだらけだ。

 そこまで考えて、ハーシェルは何かが頭に引っかかるのを感じた。

 (……ん? お姫さま?)

 ハーシェルは母を見上げた。

「……ねぇお母さん、お姫さまのお母さんって、お妃さま……だよね?」

 ハーシェルが疑うように聞いた。

「そうね」

 セミアはあっさりと答えた。まるで、「今夜はカレーだっけ?」「そうね」と言うのと同じくらいに軽い口調だ。

 ハーシェルは、目をまんまるにしてセミアを見た。

 心底驚ききった顔のハーシェルに、セミアはからからと軽快に笑った。

「あら、あなた今ごろ気がついたの? 最初に言ったじゃない。『王妃と王女が、アッシリアに逃げた』って」

 そう言えばそうだったっけ……

 自分のことで頭がいっぱいで、気がまわらなかったようだ。

「じゃ、じゃあ、ハーシェルのお父さんって……」

 まさかと思いながらハーシェルは尋ねかけたが、セミアはこれまたさらりと言葉をつないだ。

「王様よ。もちろん」

 ハーシェルは、口をたてにあんぐりと開けた。

 お父さんが、王様……? ずっと会いたいと思っていた父が、そんなにえらい人だったなんて。

 ハーシェルは、ショックでしばらく言葉が出てこなかった。

 ようやく声が出るようになると、ハーシェルは困惑したように尋ねた。

「だ、だけど、いつもお母さん、お父さんは遠い所でお仕事してて、忙しいから帰って来られないって言って……」

 言いながらハーシェルは思った。

 そうだ、そんなの嘘だったに決まっているではないか。だって、父が王様だと言ったら、ハーシェルの出生をすべて話さなければならなくなる。セミアは、父がいないことに対して、上手い言い訳を考える必要があったのだ。

 しかし、セミアは意外なことを言った。

「それは……ハーシェル、嘘ではないわ」

 セミアは初めて気まずそうな顔を見せた。

「ナイルは遠いし、王様の仕事はとっても忙しいわ。だから、なかなかお城から動けないのよ。あまりあなたに嘘はつきたくなかったから、嘘にならないよう頑張ったつもりだったのだけれど……。……いいえ、こんなの自分に対する言い訳ね。あなたにとったら、わたしは嘘をついていたも同然だわ。けれど、あの時点で本当のことは言えなかった」

 セミアは、ちょっぴり申し訳なさそうに微笑んだ。

「ううん、いいの。分かってるから」

 ハーシェルは早口で言った。

 それから、ハーシェルは次の質問について考えをめぐらせた。

 お城での暮らしって、どんなもの? どんな人たちがいるの?ナイルって、どんなところ? アッシリアとどんな違いがあるのかな。どうして、アッシリアとナイルは敵国なの?

 その他にも聞きたいことは山ほどあったが、ハーシェルはその中でも最も不思議で、回答に想像がつかないものを最初に聞くことにした。

 ハーシェルは、母の胸元にあるものに目をやった。

 いつもハーシェルが見ていたそれは、いつもとは少し違う様子でそこにあった。霧がかって謎めいていた瑠璃色の石に、もはや霧はない。瑠璃色の内側からは、わずかではあるが、だが確実に薄い光が発せられている。

「……お母さんがつけてるその石、一体なんなの? どうして光ったの?」

 それに、石が光った後に母がつぶやいた言葉……

「『目覚めた』って、なに?」

 ハーシェルが真剣な表情で聞いた。

 いよいよ話の核心に触れ、一瞬ではあるがセミアが身じろぎしたのをハーシェルは見逃さなかった。

 だが、聞かれることを予想していたのだろう、ちらりとラルサを見やり、ラルサがそれに同意するようにうなずくのを見ると、セミアは落ち着いた様子で話し始めた。

「そのことについてだけど……ハーシェル、あなたが今夜見たことは、全部忘れなさい」

 セミアは突然、きっぱりとした口調で言った。

 ハーシェルは驚いた顔をした。

 忘れる……?

「なにも、無理に忘れろ、と言っているわけではないわ。ただ、今夜のことはなかったことにしてほしいの。城からラルサが迎えに来たから、わたしたちは帰る。それだけのことよ」

 納得がいかない様子のハーシェルに、セミアは続けた。

「今はまだ、話せないの。話すには、あなたはまだ幼すぎる。だけど、いつか必ず、全てを話すわ。だから、その時が来るまで待っていてほしいの」

 全部の質問にきちんと答えてくれると思っていたハーシェルは、若干頬をふくらませたが、静かな目でセミアに見つめられ続けると、やがて「……わかった」としぶしぶ承諾した。

「ありがとう」

 セミアが微笑んだ。

「 今夜のことに関してだけは答えられないけど、他のことなら大概答えられるわ。国のこと、お城のこと。きっと気になっているでしょう? 何から聞きたい?」

 ハーシェルはそれからセミアを質問攻めにしたが、セミアはその一つ一つに丁寧に答えてくれた。そして、多くのことを知ることができた。まず、お城での暮らしはどうやら今までの暮らしと比べてずいぶんと忙しそうだというと。ハーシェルが想像していた優雅な暮らしとは一変して、学問や礼儀作法など、覚えることが山のようにあるそうだ。そして、お城には気のいい人たちがたくさんいること。セミアからいろいろな話を聞く中で、何も知らなかった頃に比べ、まだ行ったこともないお城を、ハーシェルは好きになり始めていた。

 国のことも知った。ナイルは、アッシリアがゆうに四つも入ってしまうほど大きく、とても栄えているということ。その大きさゆえに、地方によって気候に差があること。

「ナイルって、すごいんだねー」

 ハーシェルが感激したように言った。

 セミアは微笑んだ。

「ええ、そうね。だけど、その国をまとめ上げているあなたのお父さんは、もっとすごいのよ」

「うわ、ほんとだ!」

 ハーシェルはそのことに気づかされて、びっくりした。これまで、父はどんな人なのだろうと勝手に想像をめぐらすことはあったが、こんなにもすごい人だとはまったく思いもよらなかった。

 そこでふとハーシェルは、聞こうと思いつつも、城のことの方に気が向いて、まだ聞けていなかったことを思い出した。

「お母さん、アッシリアとナイルは、どうして敵同士なの? 隣なんだから、仲良くすればいいじゃん」

「……アッシリアとナイルはね、もともとは一つの国だったの。それがあることをきっかけに、二つに分かれて戦った。それ以来、二つの国は仲が悪いの。詳しくは、お城の学士が教えてくれるわ。ナイル成立のもとになる話だから、きっと嫌というほど叩き込まれるわよ」

 そう言って、セミアはちょっと笑った。

 答える前に妙な間があったのがハーシェルは少し気になったが、まあ、あとで学士さんが教えてくれるのならいいや、とそれ以上は聞かなかった。

 その時、ラルサがそそくさと荷物を持って立ち上がりながら言った。

「さて、そろそろ時間です。ここを出ましょう」

「え、もう!?」

 ハーシェルは驚いて声を上げた。話に夢中で、全然時間が経っているような気がしなかったのだ。

「そうだぞ。ほれ、ここの薪を見てみろ。あんなにあったのに、だいぶ量が減っているだろう? もうほとんど燃やしちまったんだ。それだけの時間は経ったってことさ」

 ラルサは口調を変え、自分の隣に置いてあった枝の束を指差しながら言った。確かに、最初と比べてずいぶん量が減っている。

 ラルサは洞窟の外から生葉のついた木の枝を取って来ると、それで叩いてあらかたの火を消し、残りは足で踏み潰して消火した。その間にセミアもマントをはおり直してリュックを背負い、ハーシェルもマントをはおった。

 火が消えて真っ暗になった洞窟をあとにし、ハーシェルたちはそれぞれ馬にまたがった。移動中に何かあった時のことを考えて、ハーシェルは先ほどと同じように、より安全なラルサの馬に乗った。

 (うわぁ、馬の上ってこんなに高いんだ……)

 ラルサに引っ張り上げられて馬にまたがったハーシェルは、その地面の遠さに驚いた。実はほんの一時間前にも馬に乗っていたのだが、そんなことは、ずっと眠っていたハーシェルは知る由もない。

「ナイルに入るまで油断はできません。全速力で行きますよ」

 後ろにいるセミアを振り向きながら、ラルサが言った。ちょうど馬に乗り上がったセミアが、それに対してうなずく。

 なんとなくぼーっと空を見上げていたハーシェルは、その会話を聞きながら「ナイルの方が熊が少ないのかな」と思った。

 地面から遠くなったせいか、いつもより少しだけ空が近く感じる。今日の空は、やけに赤い星が目立っていた。今までも、あんな風に赤い星が目につくことがあっただろうか。

「それじゃ、しっかりつかまってるんだぞ」

 ラルサが後ろから声をかけた。

 うなずきかけて、ハーシェルは固まった。

 目の前には、なだらかな馬の首が広がっていた。取っ手のようなものも、特に見当たらない。

「……え、どこに?」

「いざ、出発!」

 ラルサの声が上がると同時に、馬が動いた。

 衝撃に備えて、あわててハーシェルは、とりあえずそこらの鞍の端につかまった。しかし、馬は思ったよりゆったりとした動きで歩を進め始めた。

 (……あ、ちょっと楽しいかも)

 静かに揺られる感覚にそう思ったのもつかの間、ラルサが言った通り、馬はすぐに全速力で駆け始めた。

「うわぁ!」

 あまりの勢いにハーシェルは吹っ飛ばされるかと思ったが、その前にラルサが右腕をハーシェルの腰に回し、しっかりと支えてくれた。

「落っこちるんじゃねえぞ、嬢ちゃん」

 背後で、ラルサがいつもの顔でにかっと笑うのが気配で分かった。

 ハーシェルもちょっぴり笑った。あまりのスピードと揺れに怖さもあるが、スリル的なおもしろさを感じていることも確かだった。

 しかし、そんな風に楽しんでいられるのも最初のうちだけだった。この後、ハーシェルは乗馬のつらさをさんざん思い知ることとなる。



 馬が風を切って、耳元でヒューヒューと音が鳴る。

 始めはうるさく感じていたが、さすがにもうこの音にも慣れてきた。今は雑音として耳の横を通り過ぎて行くだけだ。

 それよりも……

 (お尻痛いっ! というか全体的に体しんどい! まだ着かないのかなぁ……)

 馬にまたがってから、かれこれ二時間以上が経過していた。休憩はまったく取っていない。

 ハーシェルは、一度この揺れまくる馬から降りて、思いっきり体を伸ばしたい気持ちでいっぱいだった。そうすることができるなら、春のまだ冷たい池に飛び込んだっていい。

 周囲の景色は相変わらず木々ばかりで、たいして変化はない。一体いつになったら森を抜けるのだろうか。

 はっと気がついて顔を上げると、目の前には生い茂る木々と時折でこぼこした段差のある地面ではなく、のどかな平地が広がっていた。民家がぽつぽつと建っており、畑も多く見える。畑には、見覚えのある野菜の実が成っていた。その実のそばを、馬のひづめがのんびりと通り過ぎる。

 妙に景色がはっきり見えるな、とハーシェルはいぶかしんだが、答えはすぐに分かった。ただ単に、夜が明けようとしているのだ。

 (……ん? 夜が明けようとしている?)

 ハーシェルは、一瞬思考が停止した。

 そして、突然状況を理解すると、びっくりして心の叫びを上げた。

 (ええ!? まさかずっと寝てたの!? あんな壮絶な状態の中で……? 絶対に寝られないと思ってた)

 そう言えば、途中からなんとなく眠くなっていたような気がする。

 本当に眠いときは、どんな状況でも眠れるものなんだなと、ハーシェルはほとほと感心した。

 夜明けになるほど眠っていたということは、結構な距離を進んだはずだ。今、自分はどのあたりにいるのだろう?

 きょろきょろとあたりを見回していると、

「おはよう、ハーシェル。いい夢は見れたかしら?」

 馬で隣に並んできたセミアが声をかけた。馬はもう走っていない。

「お母さん、ここ――」

「ここは、ナイルの辺境地にある村だ」

 後ろでラルサが、ハーシェルの問いを察して答えた。

「テーベ村っていってな、あまり裕福な村とは言えないが、村の人たちは気のいい者ばかりだ。今日はここで休んでいくぞ」

 ハーシェルは驚いた。まさか、眠っている間に国境まで越えてしまっていたとは。

 ひそかにその瞬間を感じてみたいと思っていたハーシェルは、ちょっとがっかりした。

「……ねえおじさん、へん……なんとか地って、なに?」ハーシェルが聞くと、「ナイルの外れ、国境付近にあるってことさ」とラルサが教えてくれた。

 ハーシェルは改めて村の様子を観察してみた。

 草地の平地にぽつぽつと建つ家々の間には、畑や田んぼが広がっており、家の壁には農具が立て掛けられている。ちょうど、隣を通り過ぎようとしていた鶏小屋で、鶏が「コケコッコー」と朝の鳴き声を上げた。しかしまだ起きているのは鶏だけのようで、ハーシェルたちの他には人通りはまったくない。

 違う国なのだ、もっと劇的な変化や大都会を想像していたハーシェルは、どこか見慣れた感じの田舎の風景に、少し、いやかなりがっかりした。

 そのことをラルサに言うと、ラルサは「がはははは」と大きな口を開けて笑った。

「そりゃ、ナイルとは言っても、ここはまだ端っこの端っこだからな。アッシリアに限りなく近い位置だ。気候もそんな変わらねぇのに、突然景色がひっくり返ったりしないさ。……だがな、王都についたらそんなことも言ってられないと思うぞ?」

 ラルサが意味ありげに言った。

 それからしばらく行くと、だんだんと家の数が増えてきた。時間が経ちさらに空が明るみ始め、何人かの早起きの農夫たちは作業着を来て畑へ出るようになった。

「やあ、旅のお方かい?」

 ハーシェルたちの右側の畑で、ちょうど今農作業に取りかかろうとしていた老人が声をかけてきた。

 もうとっくに白髪で、割と年齢もいってそうだが、体つきは筋肉質でそこらの若者よりもパワーがみなぎっている。しかし対照的にしわの深い笑顔はとても優しげで、ハーシェルはすぐにこの老人が好きになった。

「ああ。家族で旅行中でな。あちこちまわってるんだ」

 老人は口を開けて、がはははと笑った。笑い方がラルサにちょっと似ている。

「そりゃあいいや」

「ところで、この辺でどこかいい宿を知らんかね? 長旅で疲れたもんで、ちょっと休みたいんだ」

「ああ、それならタムナスさんとこの宿がいいね。そのまま真っ直ぐ行って、二番目の角を左に曲がってすぐのところにある。ちょっと狭いが、主人はいいやつだよ。わしの息子の友達がやっててな」

「ほう。では、そこに向かうとしよう。ありがとな、じいさん!」

 ラルサがにかっと笑った。

 それに対して、老人もしわの深い笑みを返した。

「おう、ゆっくり休んでいけよ」

 セミアが老人に軽く頭を下げたので、ハーシェルもあわてて少し頭を下げた。

 老人の畑を通り過ぎると、ハーシェルが不思議そうな顔で言った。

「……家族?」

「ほんとのことを言うわけにゃいかんだろう」

 ラルサがしぶい顔で言った。

「この先城に着くまでは、おれたちは『家族』として通すからな。なんなら、『お父さん』って呼んでくれてもいいぞ?」

 ラルサはにやりと笑ったが、セミアを見てすぐに笑いを引っ込めた。

「いや、今のは冗談ですぞ? セミア様」

「ふふ、分かってるわよ。それくらい、気にしなくてもいいのに」

 セミアがおかしそうに笑って言った。

 だが、ハーシェルはラルサの冗談もありだなと思った。実際、ラルサのような人がお父さんだといいと、一度ならず感じている。

 今度、どさくさまぎれに呼んでみよう、とハーシェルはひそかに思った。

 それから三人は畑や田んぼに面したあぜ道をずっと進んで行き、言われた通り二番目の角を左に曲がった。

 すると、そこにはまわりの民家よりひとまわり大きな建物があった。二階建てで横に長く、土壁には年季が入っている。きっとこれが目的の宿だろう。

「た……たん、ぬ……?」

 ハーシェルは入り口上部の木板に書かれている文字を読もうとしたが、どうにもはっきり読み取れなかった。今まで見てきた文字とよく似ているのだが、微妙に形が違うものや、まったく見たことのない文字が入り混じっているのだ。全体的に、ハーシェルが知っている文字より少しくねくねしている感じがする。

「ああ、それは『タムナス荘』って読むんだよ」

 解読に奮闘しているハーシェルに気づいて、ラルサが言った。

「ナイルとアッシリアはもともとは同じ文字だったが、分かれてからそれぞれの国で別の文字に発展していったんだ。もっとも、それらの文字ももう古いもので、今では別の文字が周辺の国々の共通文字として使われている。ここらや嬢ちゃんが住んでたところは中心街から外れた田舎町だから、まだ古い文字が使われているんだろうよ」

「へぇー」

 ハーシェルは自分がラルサの説明をきちんと理解できたのかよく分からなかったが、とりあえず相づちを打った。

 馬小屋に馬を預け、ほとんどの荷物はラルサが持ち、セミアも自分のリュックを一つ背負った。「タムナス荘」の看板の下をくぐり中に入ると、気の良さそうなおじさんが「いらっしゃいませー」とハーシェルたちを笑顔で迎えた。おそらく、この人がさっきの老人が言っていた「タムナスさん」だろう。

「三名様でいらっしゃいますか?」

 タムナスの言葉に、ラルサが頷いた。

「ああ。大人二人と子ども一人、一泊で。ちょっくら休憩するだけだから、あまり長居はしないがな」

「はい、かしこまりました。お部屋はご一緒でよろしいですよね?」

 家族連れだと思ったのだろう、タムナスさんがにこにこして尋ねた。

 ラルサは難しそうに眉をひそめた。

「部屋は……あー、べ」

「一緒で」

 セミアが断言するように言った。

「かしこまりました。では、こちらへどうぞ。お荷物、いくらかお持ちいたしますよ」

 タムナスは、カウンターの壁にいくつもかかっている鍵のうちの一つを取ると、手荷物をいくらかラルサから受け取った。そして、案内しようと背を向けて歩き始めた。

 ラルサは不服そうな表情でセミアを見たが、「か・ぞ・く、でしょ」と口の形だけでセミアが言うと、あきらめたようにタムナスのあとに続いた。

 ハーシェルたちの部屋は、階段をのぼり、右に向かって二つ目のドアのところだった。ドアの横に「六」という文字がある。どうやら、数字はアッシリアもナイルも共通のようだ。

 タムナスはドアの鍵を開けると、荷物を部屋に運び入れるのを手伝ってくれた。

「部屋を出る際は、鍵をかけることをお忘れなきよう。一階には食堂もございますので、どうぞご利用くださいませ」

 それから「では、ごゆっくりと」と一礼すると、その場を立ち去った。

「ベッドだ!」

 ハーシェルは部屋をひと目見て歓声を上げると、一番手近にあった白い布団のベッドにダイブした。

 ベッドは頭を壁側に向けて四つ、壁際に沿って並んでおり、間にはそれぞれ引き出し付きの小さな台が設けられている。入り口の正面には窓があり、やわらかい朝日が部屋を薄く照らしている。

 ハーシェルが住んでいた小屋は、ベッドではなく敷き布団だったので、ハーシェルにとってベッドはとても新鮮だった。古い民宿のベッドは、ふかふかというよりは少し硬かったが、その落ち着いた感じのにおいや体になじむような肌触りをハーシェルは気に入った。

「ここでちょっくら眠って、明日、――もう今日か、王都に向けて出発だ。しっかり休んでおくんだぞ」

 ラルサが、奥のベッドに腰をかけながらハーシェルに言った。

「でも、ハーシェルちっとも眠くないよ? さっきいっぱい寝たもん」

 ハーシェルはベッドに寝転がったままラルサの方を見て言った。

 ラルサは笑った。

「寝たって言ったって、馬の上でだろう? あんなの、ちゃんと寝たうちに入らないさ。そのまま目を閉じて、ゆっくり十秒数えてごらん」

 ハーシェルは、言われた通り目を閉じてみた。それから、数を数える。

 一、二、三、四、五、六……

 あれ……?

「……やっぱり……ちょっとねむい、かも」

 意識がふわふわと遠くへ引っ張られていくように感じる。

 もう、目を開けることすらおっくうだ。

 ラルサが続けて話す声が聞こえた。

「そうだろう。これが城のベッドとなりゃ、どんなに目が覚めてる真っ昼間でも、一分足らずで寝ちまうっていう噂だ。まあ、俺は寝たことないがな。なんでも、その布団の生地っていうのは……」

 だが、城の布団の生地が何なのかは、ハーシェルには分からずじまいだった。

 その言葉を聞く前に、ハーシェルの意識は完全に闇へと沈んでいった。



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