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瑠璃の王石  作者: シエル
第1部 王女の帰還
3/16

2.市場と王様

 市場に出かけたハーシェルとセミアは、思わぬ人物と遭遇する。そして家に戻ったハーシェルの前に現れたのは、見知らぬ大男。この男はいったい……?

 今まで順調でしたが、この話で初めてちょっとだけ事件が起きます。

 翌朝、ハーシェルはいつもより早く目を覚ました。

 外はまだ薄暗く、日はほとんど昇っていない。

 隣を見ると、母は静かに寝息を立てて眠っていた。

 やはり、いつもの首飾りをしたままだ。首飾りと言っても、銀色のチェーン飾りの先に瑠璃色の石がぶら下がっているだけという、簡素なものだ。母は常にこの首飾りを身につけており、首飾りをしていない姿などほとんど見たことがない。きっと、とても大切なものなのだろう。

 そして、それはハーシェルにとっても同じだった。

 石は、人から見れば地味で平凡なものだが、ハーシェルにはそうは思えなかった。青は青でも、どこまでも深く、それを白い霧のようなものが隠すような色合いをしており、神秘的な雰囲気を醸し出している。似たような石は市場にもたくさんあるが、この石には他の宝石類とはどこか違う魅力が、確かにあった。

 ハーシェルは、母の胸に下がっているこの石をよく眺めていた。

 しかし、今晩は少し違った。

 (……え?)

 ハーシェルは、目を見張って石を見つめ直した。

 今、模様が動いた……?

 石の白いもやのような部分が、あたかも自然な霧のように石の中で動いているように見えたのだ。

 しかし、石はいたっていつも通りで、何も動いてはいなかった。

 (気のせい?)

 今まで、石を眺めていてこんなことは一度もなかった。きっと、布団にくるまったままで、うとうとしていたせいだろう。

 そのためか、数秒後にはそんなことは忘れ、意識は夢の世界へと旅立っていた。

 次に気がついた時には、もう完全に日が昇っていた。

 小鳥たちのピーチクパーチクという鳴き声が、ハーシェルを起こした。

 (……もう朝? そういえば、今日は市場に行くんだっけ……。――あ! まずい!)

 ハーシェルは慌てて飛び起きた。

 そして、まだ隣で眠っているセミアを残したまま、外へと出て行った。



 セミアが目を覚ますと、隣にいるはずのハーシェルがいなかった。

 寝衣はきちんと畳まれていたので、不思議に思って外に出てみると、ハーシェルは地面の上に座り込んで何やらやっていた。

「ハーシェルー。今日は早いのね。……何をやっているの?」

 ハーシェルは、セミアの声にくるりと振り向いた。背中に何か隠しているようだ。両手が背中から出ていない。

 ハーシェルは話そうか迷うように口ごもっていたが、しばらくして決心したように口を開いた。

「あのね、ウィルには内緒よ……?」

 そして、ハーシェルはセミアにちょっとした"計画"を話した。

 計画を聞いたセミアは、微笑んで言った。

「それはきっと、ウィルくんも喜ぶわね」

「うん!」

 ハーシェルが嬉しそうに答えた。

「じゃあ、朝食をとりましょう。そうしたら、すぐに市場に出かけるわよ」

 ハーシェルはちらっ、とさっきいじっていた草むらの方を見た。

「もうちょっとしたら、行く」

「わかったわ。朝食の準備もあるから、その間はいいわよ」

 そう言うと、セミアは風にスカートを少しはためかせながら小屋へと戻って行った。



 朝の市場は大変人で賑わっている。

 普段は通行する以外に用のない静かな場所でも、この週一回開かれる市の時だけは、様変わりしたように活気溢れる場所へと変貌する。石畳みの通りにはずらりとテントが張られ、売買されているものは主に野菜や果物などの食物だが、他にも衣類やアクセサリーを求めて市場は人でごった返している。

 この市場に集まるのは、主にここ、エルベの町の人々だ。エルベは、どちらかと言えば田舎の小さな町だ。だが、ハーシェルはその中でも町とは言えないような山奥に住んでいるので、ここに来るためには三十分ほど山を歩いて下らなければならない。しかし今ではもう慣れたもので、ハーシェルはそれほど遠いとは感じていなかった。

 特に朝が最も人が多い理由は、昼や夕方になると目当てのものが売れてしまう可能性があるからだ。だから、欲しいもの、良いものを手に入れたい人々は皆朝に集まる。

 ハーシェルたちの目的は主に普段の食事の材料だけなので、特別朝早くに来る必要はない。だが、昼だとウィルが来る可能性があるし、朝の方が食材が新鮮なのも確かだ。

 それに、ハーシェルはこの人でごった返す賑やかな市場が嫌いではなかった。客寄せの明るい声や、様々な人々の会話が作り上げる活気ある雰囲気は、いつもハーシェルを楽しい気分にさせてくれる。

 集まる人々は主婦や家族連れが多く、今も、ハーシェルの目の前を親子と思われる家族三人が仲良さそうに歩いていた。男の子が母親の手を引いて、しきりに果物の方を指差している。「この前食べたばかりじゃないか。食いしん坊だなぁ」と言って父親が笑う。

「……ねぇお母さん、お父さんにはいつ会えるの?」

 ふと、その家族を見つめていたハーシェルが聞いた。

 ハーシェルは生まれてから一度も、父親に会った記憶がなかった。母は、お父さんは遠い所で仕事をしているから、忙しくてなかなか帰って来られないのよ、と言っていた。

 そして、母からはいつも決まった返事が返ってくるのだった。

「そうね、もうすぐ会えると思うわ」

 セミアは、はぐれないようにつないでいるハーシェルの手をぎゅっと握って言った。

 もうすぐ? もうすぐっていつなの? 一週間後? それとも一年後?

 母は、もう何年も前から同じ答えを返している。最近では、ハーシェルは母の言う「もうすぐ」という言葉の意味がよく分からなくなっていた。

 母はこの話をする時、決まって不安で、落ち着きがなくて、どこか寂しげな表情をする。そのせいもあって、母にそんな表情をさせたくないハーシェルはこの質問を避けるようになっていた。しかし、違う答えが聞けはしないだろうかと、思わずまた聞いてしまったのだった。

「ハーシェルは、お母さんと二人で暮らしていて、寂しい?」

 セミアが言った。

 ハーシェルはぶんぶんと首を横に振った。

 寂しいわけがなかった。母は明るくて優しいし、それにウィルもいる。ウィルが来てからというもの、毎日が生き生きとして、寂しさなど感じる必要もなかった。

 ただ、時々市場や町で父親がいる家族を見ると、会ったこともない父親が少し恋しくなることがあるのだ。父に会ったことのないハーシェルには、父親がどんなものなのか、実際にははっきりとは分からない。しかし、いると分かっているのになかなか会えないというのは、何だかいじらしかった。本当に、いつか会える日が来るのだろうか。実はそんな日など、来ないのではないだろうか。

「そう。よかったわ」

 セミアは、それなら言うことなし、というように微笑んだ。

 (だけど、お母さんは寂しそうに見える……)

「あら、いらっしゃいエリスさん」

 店主の妻である、ショートのくるくる茶髪のおばさんが腰に手を当て陽気に迎えた。

 ハーシェルたちは果物屋の前にたどり着いていた。店には、木の箱や、籠に溢れんばかりに入った色とりどりの果物がずらりと並んでいる。果物の種類ごとに値札がついており、全てが個数売りされていた。

 ちなみに、エリスとはセミアの性の名だ。

「相変わらずべっぴんさんだねぇー。あたしなんか年々しわが増えるばかりで。ねぇ、あたし前にあなたに会った時、左目のここのしわあったと思う? なかったわよねえ? でも、ビタミンは毎日ちゃんと摂ってるのよ。だって、果物にはたくさんのビタミンが含まれているんですもの。最近肌の張りもなくなってきた気がするし、やっぱり年のせいなのかしら……」

 果物屋のおばさんは、しばし考え込むように手をほおに当てて首を傾げた。

 それから、はっとしたように手を離して仕事に戻った。

「あらっ、いけないいけない。あたしったらまたおしゃべりに口がはしっちゃって。……今日は何にするかい? りんごはどう? ビタミンたっぷりだよ。まあ、あんたにゃ必要ないかもしれんが」

 ハーシェルは不思議そうにセミアを見上げた。

「べっぴんさんってだあれ? お母さんの名前ってセミアだよね?」

「いいのよ、あなたは気にしなくて」

 セミアは慌てたように言った。

「――じゃあ、りんごを三つほどいただこうかしら。この前作ったアップルパイで切れちゃったから」

「わーいっ、りんごー!」

 セミアはお金とりんごを交換し、二人は「まいどありー」とおばさんの営業スマイルに見送られた。

 セミアはお金を出す時に離したハーシェルの手をしっかりとつかみ直すと、再び人ごみの中へとまぎれていった。

「お母さん、りんご食べていい?」

 店を出るなり早速ハーシェルが言った。

「えっ、今?」

「うん」

 いつもなら、少なくとも食べづらい人ごみを抜けた帰り道に言うのに……。

 セミアは少し疑問に思ったが、その時、前方の石段に座っている二人の少年が並んでりんごを食べている姿が目に入った。

 なるほど、とセミアは理解して、袋の中から先ほど入れたばかりのりんごを一つ取り出した。

「落とさないように気をつけるのよ」

 はーい、と言ってハーシェルは小さな口を開けてりんごを一口かじった。

 食べ歩きながら前を見てみると、りんごを食べている少年の片方は、もうほとんどりんごを食べ終えていた。特に顔が似ているわけでもなく、楽しげで軽快な雰囲気でしゃべっている二人はどうやら友達同士のようだ。

 (友達……)

 ハーシェルはあることを思いついた。

「ねぇお母さん、今度の市場はウィルを誘ってもいい? ウィルと一緒に、市場をまわってみたいの!」

 これまで友達と一緒に市に来る、という考え方をしたことがなかったハーシェルは、自分の新しい思いつきに心を浮き立たせた。これまでずっと母としか来たことがなかったため、なぜか「市は母と行くもの」という習慣が染みついており、他の誰かと行くなんて考えもしなかったのだ。

 きっとウィルと一緒だったら、市場ももっと楽しくなる。

「ウィルくんと?」

 セミアが聞き返した。

「……ええ、いいわよ。じゃあ、来週の市の時はウィルくんも誘って一緒に行きましょうか」

「やったあ! 楽しみ」

 ハーシェルが喜んだ。

 それから二人は店を回っていくつかのじゃがいもとにんじん、それにハーシェルの服を縫うための布を買った。ハーシェルの服は、いつだって母親お手製のワンピースなのだ。

 ハーシェルは、その間ずっとウィルと市場を回ることを想像していた。あの少年たちみたいに、今度は自分がウィルと一緒にりんごを食べよう。どっちが速いか競争するのもいいかもしれない。それから、あちこちの珍しい物を見回って……。

 ハーシェルは、今から楽しみで仕方がなかった。

 目的のものをすべて買い終えたハーシェルたちは、家路へと足を向けた。

 ハーシェルが食べていたりんごはまだあまり進んでいなかった。左手で母の右手をつかみ、落っことしそうになりながらなんとか右手だけで食べているので、なかなか順調にいかないのだ。

 その時、通りの向こうが少しざわついていることに気づいた。人々が通りの向こうに集まって、しきりに何かを見ようとしている。もの珍しさに興奮しているかのようだった。何か行事でもやっているのだろうか。

「なにっ、そんなにおえらい方が来ているのか?」

「行ってみようぜ」

「少しでもいいからぜひ見てみたいわ!」

 それまでバラバラだったはずの人の流れが、通りの向こうへ向けた流れへと徐々に統一され始める。

 その中の一人が、後ろからハーシェルの肩にどんっとぶつかってきた。

 ぶつかった拍子に、ハーシェルの右手からりんごが転がり落ちる。

「あっ」

 ハーシェルは短く声を上げた。

 りんごは、人々の足の間をするすると通り抜けて転がっていく。

「待って」

「あ、ちょっと待ちなさいハーシェル!」

 セミアの制止をよそに、ハーシェルは母の手を離してりんごを追って走り出した。

 地面が斜めになっているせいもあって、りんごはどんどんとそのスピードを増していく。

 ハーシェルは小さな体で人々の間をすり抜けて、りんごを追っていった。

 すると、地面が平坦になったその先で、りんごは動きを止めた。

 やった! と心の中で歓声を上げ、人ごみをかき分けてりんごの前に飛び出た。

 そしてりんごを取って、転がる過程でりんごについてしまった土をちょっと払った。

 まあ、これくらいなら、家に帰って洗えばなんとか食べられるだろう。

 セミアのところに戻ろうと、ハーシェルはりんごを持って立ち上がった。

「……?」

 立ち上がって辺りを見回して初めて、ハーシェルは自分がちょっとおかしな状況にあることに気がついた。

 人々が道を開けるように広く両脇に控え、その道の中央には立派な鎧着に身を包んだ男たちが、輿に乗った人物を守るように立っている。きらびやかな輿に乗っている人物は、ハーシェルが見たこともないような豪華な衣装をまとっており、その褐色の瞳には、誰もをひざまずかせるような威厳をたたえていた。

 そしてなんと、ハーシェルはその道の中央にいる人たちの真ん前にいた。

 ハーシェルは思わずぽかん、とその団体を見上げて立ち尽くした。

 かなりまずい状況にいるということが、子どものハーシェルには、ましてや普段山に住んでいる田舎の子どもには分からなかった。

 鎧の男がダンッと槍先を地面に打ちつけた。

「王様の御輿をお止めするとは何たる無礼! 控えよ!」

 槍先についた深緑の旗には、二枚の羽を広げたような形をした銀のマークが描かれていた。

 ハーシェルは槍の音にびくっと体を震わせ、恐ろしさにしどろもどろなりながら言った。

「……えっと、あ、ごめんなさ……」

「誠に申し訳ありませぬ!」

 その時セミアが突然ハーシェルの前に飛び出し、体を地面につけて頭を下げた。

「このたびは、この母の不注意のために起こったこと。ですから、今回だけはどうかこの子の無礼をお見逃し下さい!罰するなら、娘でなくこの母をお罰し下さい」

 ひれ伏して頭を下げる母に、ハーシェルは心臓が飛び出るほど驚いた。

 お母さんではなく、悪いのは自分だと叫びたかった。母はちゃんと自分を止めようとしたのだ。言うことを聞かずに勝手に飛び出していったのは自分だ。

 しかしハーシェルは、なぜか一言も口を出すことができなかった。

 ハーシェルは、両手で持ったりんごをぎゅうっと握り締めた。

「しかしだな――」

 男は言いかけたが、輿の人物がその言葉を遮った。

「もうよい。たかが子どもではないか。時間を無駄にするな」

 重々しく、低い声だった。まるで地面の底から響いてくるようだ、とハーシェルは思った。

「……っ! はっ、申し訳ございません」

 男は王に軽く頭を下げた。

「そこをどけ。邪魔だ」

 それから、しっしとハーシェルたちに向かって手で追い払う仕草をした。

「ありがとうございます……!」

 セミアはもう一度深く頭を下げて立ち上がると、逃げ込むように人ごみの中へとハーシェルの手を引っ張った。

 あまりに強く引いたので、人ごみの中に入る直前に、またハーシェルの片手からりんごが転がり落ちた。しかしその場を去ることに必死なセミアはそれに気づくことはなく、またハーシェルも、そんなことはどうでもよくなっていた。

 王をひと目見ようと集まっていた人々の集団を抜けても、市場の中ごろに来ても、セミアは何も言わなかった。

 市場を出る頃になると、ハーシェルはさすがに不安になってきた。

 どうして母は何も言わないのだろう? それに、母が怯えているような気がするのは気のせいだろうか?自分の手を握る母の手は、わずかではあるが震えていた。

「お母さん……」

 ハーシェルが不安気にセミアを見上げて呼びかけた。

 しかし、セミアは振り向きもせずに、ただ前を向いてハーシェルを引っ張っていくだけだ。

「お母さん、ごめんな――」

「ハーシェル! あなたは自分が何をしたか分かっているの⁉」

 人通りの少ないところまで来ると、セミアはハーシェルの方を振り向いて怒鳴った。

 ハーシェルは突然の母の怒りに、びっくりして体を縮めた。

「あなたは、とってもとっても危険な行為をしたのよ? 殺されていたかもしれないのよ?お母さんはハーシェルが走り出した時に止めたわよね、『待って』って。あんなに人の多い中、何があるかも分からないのに、一人で勝手に行ってしまってはだめでしょう⁉ 迷子になってしまうかもしれない。いいえ、迷子ならまだいいわ。まったくよりにもよって王様の一行の前に飛び出すなんて、ましてやあなたは――」

 セミアは急に口をつぐんだ。

 (まあ、気づかれてはいないようだし……)

「……とにかく、もうこんなことは絶対にしないこと。分かった?」

「……はい……」

 ハーシェルが消え入りそうなほど小さな声で言った。

 ひどく打ちひしがれている様子のハーシェルに、セミアは気後れしたようにはっ、と表情を変えた。

 それからセミアは頬を緩めて、しょんぼりとしたハーシェルの頭を優しくなでた。

「ごめんね、少し怒りすぎちゃったわね。走って行った先に、あんなにえらい人たちがいるとは思わないものね。今日は町の視察かしら? ……あら、そう言えばりんごはどうしたの? 拾ったと思ったけれど」

「落としちゃった」

「あらら。りんごを追って行ったのに、りんごも取れず、お母さんにも怒られちゃって、今朝は散々だったわねぇ。でもきっとその分、これからはもっといいことがあるわ。悪運は全部使い果たしちゃったもの」

 ちょっと笑顔が戻ってきたハーシェルに、セミアはうなずいて、微笑んだ。



 家が近づいてくると、ハーシェルは母の手を離して走り出した。

 すぐに森が開け、目の前には花が点々と咲いているいつもの野が現れた。

 しかし、一つだけいつもと様子が違っていることがあった。小屋の隣に、茶色い毛並みの馬が繋がれているのだ。

 ハーシェルは小屋の方を見上げて首を傾げた。

 (馬? なんで……)

 怪訝に思いながら野原を駆け上がり、小屋の戸に手を掛けようとした時、ハーシェルは戸がわずかに開いていることに気づいた。今日は慌てて出かけたわけではないし、母はきちんと戸を閉めたはずだ。

 ますます不審に思い、戸のすき間からこっそり部屋の中をのぞいてみた。

 中を見て、ハーシェルは目を丸くした。

 男が一人、見物でもするようにゆっくりと部屋の中を眺め歩いていたのだ。

 かなり背が高く、大柄のその男は口のまわりにふさふさとした茶色い髭を蓄えている。目は鋭くはないが、睨まれたら怖そうだ。まるで熊のようだ。

 (どろぼうだ)

 とっさにハーシェルは思った。

 他に、勝手に人の家に入って、部屋を眺めまわすのに理由などあろうか。

 ハーシェルは、外用に立てかけてある箒をそっとつかんだ。そして、地面を掃く枝先の方を上にして、慎重に構えた。泥棒なら、叩いて追い返すしかない。

 扉をばっと開けて、ハーシェルは部屋の中へ飛び込んだ。

「やぁー!」

 箒を振り上げ、泥棒めがけて勢いよく振り下ろした。

「ん? ……うわ⁉ なんっ、いてっ」

 振り向いた男は、不意打ちを食らって見事に額の真ん中に箒の柄を叩きつけられた。本当は頭を叩こうとしたのだが、高すぎて届かなかったのだ。

「いててて……お嬢ちゃん、なかなかやるなぁ。箒でも凶器に変われるって教えてくれたのは、お嬢ちゃんが初めてだぜ」

 男は額を手でさすりながらうめいた。

 子どもの力とはいえ、本気で振り下ろされた箒はかなり痛かった。ましてや固い柄の部分だからなおさらだ。

「おじさん、どろぼうでしょ! うちにとるものなんか、なんにもないよっ。出てって!」

 ハーシェルが箒を構えたまま言った。

「……泥棒……?」

 男はきょとんとした。それから、吹き出して声を上げて笑い出した。

「ふははははっ! 泥棒かっ……くくっ、まあ確かに、無理もないかもな。こんな髭づらの怪しいおじさんが、部屋でうろうろしてりゃ、誰でも泥棒だと思うわな」

 男は笑いながら言った。

「え、違うの……?」

 今度はハーシェルがきょとん、とする番だった。

「それにしても、なかなか勇気のある子だ! 泥棒に向かって箒一本で立ち向かってくるとは! お父上の娘だけある」

 お父上、という言葉がハーシェルの頭に引っかかった。この人は、父のことを知っているのだろうか……?

 ハーシェルが口を開きかけた時、セミアが小屋に入ってきた。

 セミアは男を一目見て、驚いたように固まった。

「……ラ、ルサ……ラルサじゃないの!」

「お久しぶりです、セミアさん。お元気でしたか?」

 男は微笑んで言った。

 ハーシェルは驚いた。

「え⁉ お母さん、この人知ってるの?」

「ええ、私の――昔の知り合いの、ラルサよ」

 よろしくな、とラルサは二カッと笑って言った。


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