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瑠璃の王石  作者: シエル
第1部 王女の帰還
2/16

1.アイリスの野


 晴れ渡った空の下、ここ、アイリスの野には春が訪れていた。

 そこはアッシリア王国の山奥、木々が少々開けたところにあり、緩く傾斜した野原は小さな丘のようになっている。点々とある草花は生き生きとして咲き誇り、そよ風に吹かれて揺れている。働き者の蟻たちはせっせと歩き、蝶や蜂たちは蜜を求めて花の間を飛び交う。その周囲では、木々が春を歓迎するようにさわさわとさやいでいる。

 傾斜した野原を登ったところには、小さな小屋が立っていた。煙突から煙が出ているのを見ると、何か料理を作っているらしい。

 その小屋から少し離れた所に、二人の子供が並んで座っていた。一人は二つくくりの茶色の三つ編みに、それと同じ茶色い目の女の子。もう一人は、黒髪にグレーの瞳の男の子だった。二人は、手に同じ白い小さな花を持っていた。そして、二人ともその花を必死に編んでいた。冠にするつもりなのだ。

 しばらくして、ついに女の子の方が編み終わって声を上げた。

「でっきたぁ―! ほら見て! やっぱりハーシェルの方が早かった。まあ最初から、ウィルに負けるなんて思ってなかったけど?」

 くやしいでしょ、と女の子が得意げに男の子の方に花の冠を掲げた。

 それを見て、男の子――ウィルは、少し眉をひそめた。

「いや、うん、くやしいって言いたいとこだけど……その出来じゃあなぁ。ハーシェルは確かに編むのは速いけど、どう見てもぼくの方がうまくできてるよ」

 ほら、とウィルはハーシェルに自分の編みかけの冠を見せた。

 あちこちに花がバラバラに飛び出て、何度か触るとすぐに解けてしまいそうなハーシェルの冠に比べ、ウィルの冠はしっかりとしていて、見た目にもきれいだった。

 ハーシェルはうっ、と息をつまらせた。

「で、でも、ハーシェルの冠はちゃんと完成してるし……それに、アイリスの花って、あんまり冠作るのに向いてないと思うし」

 ハーシェルが食い下がった。

「今さら何言ってるんだよ。この花で冠を作りたいって言い出したのはきみだろう?」

 ウィルがあきれたように言った。

 確かにそうだった。町で花の冠を頭にのせている子供を見て、ハーシェルも冠を作りたいと言い出したのだ。ハーシェルたちが編んでいるアイリスの花は、編むには少し短く、冠作りに向いているとは言えなかったが、ハーシェルはこの花がとても好きだった。だから、どこにでも咲いている普通の花だが、どうしてもこの花で編みたいと思った。ハーシェルの家の周りにはたくさんのアイリスの花が咲いている。だから、ハーシェルたちは小屋を含め、この辺り一帯の場所のことを「アイリスの野」と呼んでいた。

 そして、ときどきウィルとこうしてアイリスの花で冠を編むようになったのだ。やり方は母に教えてもらい、ウィルに伝えたのだが、ウィルの方が断然上手かった。

「だけど、前よりうまくなったと思うよ。前はもっとゆるくて、ハーシェルがぼくに見せようとした時点ではずれちゃったもん」

「うん……。でも、あの町の女の子がつけてた冠はもっと立派で、きれいだったなぁ……やっぱりまだまだダメね」

 ハーシェルはちょっとしゅんとして言った。

「ハーシェルは、一回に編む本数が少ないんだよ。……それと、競争はやめるべきだな。速さばっかりが上がる。そしたら、いつかぼくよりうまくなるよ」

「別に、ウィルに負けたとは思ってないけど?」

 ハーシェルはきっ、とウィルをにらみつけた。

「え? そうだったの? てっきり、ぼくに負けたから悔しがってるのかと……」

 ハーシェルが言い返そうと口を開いた時、後ろの小屋の方から声が飛んできた。

「ハーシェルー、アップルパイ焼けたわよー」

 振り向くと、ハーシェルの母のセミアが小屋の窓からひょこっと顔を出していた。

 優しくウェーブした茶色の髪が、風に揺れている。

「わかったー! すぐに行くー!」

 ハーシェルもセミアの方に向かって叫び返した。

 それから、ウィルの方に向き直って嬉しそうに言った。

「やったぁ、アップルパイだって。久しぶりだね」

「そうだね」

 ウィルが言った。

 母は、ときどきハーシェルとウィルに手料理のお菓子を振る舞ってくれる。

 中でもアップルパイは絶品で、ハーシェルの大好物だった。しかし最近は食べていない。

「行こう、ウィル」

 ハーシェルは編んだ冠を横に置いて立ち上がろうとしたが、その前に頭の上に何かがふわりとかかった。

 触ってみると、さっきウィルが編んでいた冠が完成してハーシェルの頭の上にのっていた。

「それ、あげるよ。今までで一番うまく編めたから」

 ウィルが笑って言った。

「ありがとう」

 ハーシェルも嬉しそうに笑った。

 それから、冠を頭に乗せたまま今度こそ立ち上がった。ウィルもほとんど同時に立ち上がった。

「だけど、背はやっぱりハーシェルの方が高いね」

 ハーシェルがウィルの頭の先の方を見て言った。

「高いって……ほとんど変わらないじゃないか」

「でも、高いのは高いんだもん。……はやく行こう。パイ冷めちゃうよ」

 ハーシェルはウィルの手を取って走り出した。春の暖かい風が心地よく二人に吹きつける。

 丘の上を一気に駆け上がると、ハーシェルは小屋の戸を押し開けた。

 開くと同時に、二人は甘いパイの香りに包まれた。

 セミアは、キッチンにある食事用のテーブルの上でアップルパイを切り分けている最中だった。キッチンと言っても、この小屋には風呂場やトイレを除いて部屋は二つしかない。キッチンは普段ハーシェルとセミアがくつろぐ場所なので、食事以外のときは居間とも言える。その奥には寝室があり、床に布団を敷いて寝ている。小屋の中では、基本靴を脱いで生活していた。

「お母さん、ハーシェル二個食べてもいい?」

 ハーシェルが靴を脱ぎながら母に尋ねた。

「あら、だめよ。だってあなた、いつも二個目の途中でお腹いっぱいになって残しちゃうじゃない」

 セミアは少し眉をひそめて言った。

「えー」

 ハーシェルが頬をふくらませる。

「大丈夫、ハーシェルの分までぼくが二個食べてあげるから」

 ウィルも靴を脱ぎ、おじゃまします、と言って部屋に上がった。

「むかつく」

 ハーシェルはますます頬をふくらませた。

 それからハーシェルは、カタンッ、と椅子を引いて自分の席につき、ウィルもいつものようにその隣の椅子に座った。

 セミアは二人の前にパイを並べ、自分もハーシェルの向かい側の席について言った。

「どうぞ召し上がれ」

『いただきまーす!』

 ハーシェルとウィルは、同時に手を合わせて言った。

 ハーシェルはパイを手に取って口に入れた。底の生地はサクッとしていて、りんごはとろけるように甘く、出来立てのためほかほかしていた。

「おいしいー!」

 ハーシェルが目をキラキラさせて言った。

 ウィルも隣でうんうん頷いて同意した。

「うん、本当においしい」

「喜んでくれてよかったわ」

 セミアがにっこり笑った。

 それから二人はしばらく夢中でアップルパイを食べた。

 二人がアップルパイを食べるのを微笑んで眺めていたセミアは、少しして、ふとハーシェルの頭の上にあるものに目を留めた。

「――そう言えば、さっきからしてるその冠、ハーシェルが編んだの?」

 セミアが尋ねた。

「ううん、ウィルにもらったの!」

 首を横に振り、ハーシェルは嬉しそうに答えた。

「そう、よく似合ってるわ」

 セミアが微笑んだ。ハーシェルはえへへ、と少し照れたように頬を緩めた。

 そして残り一口のパイを大事そうに食べ、空になった皿を母に突き出す。

「お母さんおかわり!」

「だめ」

「……」

 即答だった。

 いつもの流れで、さっきの会話を忘れてつい二個目を差し出すものと思っていたが……。ハーシェルの考えが甘かった。

「で、でも、ハーシェル全然お腹いっぱいになってないよ? ぺこぺこだもん! うん。そうだよ。今日はまだまだいけそうな気が――」

「だーめ。今まで何回もおかわりしてきて、最後まで食べ切れたことは?」

「……。……ない、けど」

 母に言い包められて、うなだれる。反論のしようがない。

 さらにそこで、嫌味のようにウィルが割り込んできた。

「まあファーヘル、ふぉんふぁに落ひこんふぁって。ゔぉくが――(ウィル、パイを飲み込む)……ぼくが、きみの代わりに食べてあげるからさ。……おばさん、おかわり下さい」

 もぐもぐ言いながらハーシェルに続いてパイを食べ終わったウィルが、セミアに皿を渡す。

「はいはい、おかわりね」

 セミアは笑顔であっさりとウィルから皿を受け取り、新たにパイをのせる。

 その様子を見て、ハーシェルは苛立つように体を揺らした。

「えー、ウィルずるい、ずるいっ」

「あら、ずるくなんかないわよ。ウィルくんは二つでお腹いっぱい。ハーシェルは一つでお腹いっぱい。それぞれの体で食べられる量は違うのだから、それに合わせるのは、平等でしょう?」

 なんだかすごくもっともなことを言われたような気がしたが、ハーシェルの苛立ちは治まらなかった。

「でも……」

 セミアがウィルに皿を渡す。ウィルは皿を受け取る前に、ちらっとハーシェルを見た。ハーシェルにはその目が、「やーい、くやしいだろ」と言っているように見えた。

 それからウィルは受け取った皿を自分の前に置いて、手を合わせた。

「いただきます」

 ウィルはパイに手を伸ばした。

 その時、突然ガタンッと音を立ててハーシェルが立ち上がった。

 ウィルはぴくり、と手を止め、セミアは驚いたようにハーシェルを見た。

「……先に外行ってる」

 ウィルが得意げに隣でパイを食べるのを見ていられるか。

 ハーシェルは皿を取り、流しの上に置いた。それから戸口に向かうと、背中越しにセミアが言った。

「ハーシェル、自分のお皿は自分で洗いなさい」

 この小屋では自分のことは自分でする、というのが決まりで、ハーシェルはいつもきちんと自分の皿を洗っていた。ウィルはさすがに客なのでセミアが洗おうとしたが、ウィルも押し切って自分で洗っていた。

「あとでやる」

 そう言うと、靴を履いて戸を開け、ハーシェルは小屋から出た。

 バタンッ、と少し大きな音を立てて扉が閉まった。

 二人はハーシェルが出て行った扉を、数秒間、無言で見つめた。

「……ちょっとやり過ぎたかしら。まあ、気にしないで。そのうちあの子の機嫌も治るわよ」

 セミアは椅子から立ち上がり、ハーシェルの皿洗いに取りかかった。あとで、と言ったら大抵やらないのがハーシェルなのだ。

「どうしたの、ウィルくん。お腹でも痛いの?」

 さっきは手を伸ばしかけていたのに、なぜだかウィルは全くパイを食べようとしない。ただ、少し考え込むような表情でパイを見つめていた。

 セミアには、ウィルが考えていることが分かるような気がした。

 そして、ウィルは手つかずのパイから顔を上げ、セミアが思った通りのことを言った。

「このパイ、二つに切り分けてもらえませんか?」

 セミアはちょっとウィルの顔を見つめ、それからにっこりと笑って言った。

「ええ、いいわよ」



 ハーシェルは、小屋から少し下った、若干傾斜している草原に座り込んで、ぼんやりとそばをひらひらと舞う蝶を眺めていた。蝶の動きは予測できない。隣でひらひらしているかと思えば、いつの間にか先の方でひらひらしている。黄色い花の方へ行くのかと思いきや、急に方向転換して白い花の上にとまる。蝶は結構気まぐれ屋さんなのかもしれない。

 蝶を眺めるのにも飽きて、ハーシェルはそのままどさっと後ろに倒れて寝転んだ。一瞬で、雲一つない薄い青色の空が、視界いっぱいに広がる。すると、その何も動くものがない、空色一色の景色の中に、どこからかまた蝶が迷い込んできた。

 あなたは一体、どこへ行くつもり?

「……」

 ウィルとは大抵何かをして遊んでいるが、ときたま、お菓子が焼けるのを待つ間などに、草の上でぼーっとして時間を過ごすことがある。その時は全く暇だとか、つまらないとか感じたことはなかったのだが、今はとにかく暇だった。

 やっていることは同じなのに、ウィルがいないだけでこんなに違うことが、ハーシェルは不思議だった。大体、ウィルとは何もしないでも、一緒にいるだけで楽しいのだ。

 早くウィル来ないかな――

 蝶があちらこちら舞いながら、だんだん隅の方へと逸れていき……視界から、消えた。

 その時、蝶と入れ替わるようにひょっこりとウィルが顔を覗かせた。

「ハーシェル」

「わっ」

 ハーシェルはびっくりして飛び起きた。

 いつの間にか、ウィルが後ろに立っていた。ハーシェルは突然現れたウィルに腹を立て、いくらぼーっとしていたとはいえ、気がつかなかった自分にも腹を立てた。

「驚かさないでよ。全然気づかなかったじゃない」

「そりゃ、気づかれないように来たんだもん。当然だよ。……お皿、おばさんが洗ってくれてたよ。だから、わざわざ洗いに戻る必要はないって」

「あとでやるって言ったのに」

 ハーシェルは唇をとがらせた。

「そう?」

 ウィルが言った。全然信じていない口ぶりだった。

 でも、どうして来たのだろう? いくらなんでも早すぎる気が……

 そこで、やっとハーシェルはウィルが手に持っているものに気がついた。

 アップルパイだ。しかしさっきハーシェルが見た大きさとは全く違っていて、小さなパイを二つ、片手ずつに持っていた。おそらく母に切り分けてもらったのだろう。

「……それ」

 ハーシェルはパイの方を見て言った。

「ああ、これ? 一人で食べてもつまんないなと思って。……だからほら、あげるよ」

 ウィルは何でもないことのように淡々と言い、ハーシェルにパイの片方を渡した。

 ハーシェルは思わずパイを受け取った。まだ、パイはほんのりと温かかった。

「それに、半分だったら最後まで食べられるだろう?」

 ちょっと驚いたようなハーシェルの顔に、ウィルはにっこりと笑いかけた。

 それからウィルはハーシェルの隣にすとんっと座り、小さなパイを食べ始めた。

 ハーシェルは、なんと言葉を返したらよいのか分からず、戸惑ったようにその様子を見つめていた。ウィルが自分に気を遣ってくれたのは確かだが、素直に『ありがとう』と言うのも何だか小っ恥ずかしい。何しろ、さっき少々荒々しく家を出ていった後なのだ。

 ウィルは、じっとウィルを見つめたままパイを食べようとしないハーシェルの方を見た。

「ハーシェルも早く食べなよ。冷めちゃうよ」

 まるでわかってる、というようにウィルが笑って言った。

 その時、突然ハーシェルはお礼も謝罪も言う必要なんてないのだということに気がついた。

 思えば、いつもそうだ。ハーシェルが何かの気持ちを押さえ込んでいる時も、隠している時も、無意識な感情さえも、ハーシェルが何も言わなくても理解してくれる。母が理解してくれない時でも、ウィルは必ずちゃんと分かってくれる。不思議だ、と思いつつも、ハーシェルはそれを心地よいと感じていた。

 そうなったのは、一体いつからなのだろう?

 手に持ったパイをさくり、と一口かじる。りんごの甘みがやさしく舌の上に広がる。

 ハーシェルはその味に少し首を傾げた。

 さっき食べた時よりもおいしい気がするのは、気のせいだろうか。

 ウィルがときどきいじわるだったり、からかってきたりしても、本当は優しいことをハーシェルは知っていた。今だって、パイの残りを切り分けて自分に持ってきてくれた。森で迷子になった時も、最後まで自分を探してくれた。出会った時も――

(そう言えば、ウィルがいなかったら……)

「……どうしたの?」

「え?」

 ウィルを見ると、ウィルは問いかけるようにハーシェルを見ていた。そこで、ハーシェルはパイを食べている自分の手が止まっていることに気づいた。

「あ、ううん、何でもない。……パイ、おいしいね」

「うん」

 そして、ハーシェルはそんなウィルのことが。

「ねえ、さっきのよりおいしい気がするんだけど、ぼくの気のせいだと思う?」

 ウィルのことが、

 ――大好きだった。



 二人が出会ったのは、二人がまだ五歳の時だった。

 母が昼食の準備をしている間、ハーシェルは小屋のすぐ外で一人で遊んでいた。

 季節は春、辺りはぽかぽかと暖かい陽気に包まれている。蜂たちが飛び交い、待ってましたとばかりに花が咲き誇る、生物たちの一番生き生きとした季節だ。

 ハーシェルはしばらく草をいじったり、蝶を追いかけたりしていたが、それに飽きるとごろん、と草の上に寝転がった。

 ふさっ、とした草の感触と同時に、景色はさわやかに晴れた空へと移り変わる。わたがしのようにふわふわした白い綿雲が、青空の中をゆっくりと流れていた。

 綿雲をぼーっと眺めていたハーシェルは、ふと視界の端に何か白いものがあることに気がついた。

 顔を横に向けてみると、顔のすぐ隣に、白くてかわいらしい、小さな一輪の花が咲いていた。突然、ハーシェルはこの野原にはこの花がたくさん咲いていることに気づいた。何という名前だっただろう。前に母が言っていた気がする。

 その時、その白い花の向こうで何かがきらっ、と光った。

 (……? 何だろう――)

 ハーシェルはよく見ようと体を起こしたが、何も光ってはいなかった。

 (……気のせい?)

 ハーシェルはしばらく首をひねっていたが、もしかして、と思いもう一度その場に寝転がってみた。

 すると、確かにまたきらり、と何かが光った。それは光ったり光らなかったりを繰り返していた。どうやらこの角度からしか見えないらしい。

 光の根源は、丘を下った先の木々の向こうにあった。今自分がいるところからは少し離れていたが、気になったハーシェルは立ち上がって丘を下り始めた。

 丘を下るにつれ、光の正体がだんだん明らかになってきた。太陽の光が、池、または川の水できらきらと反射しているようだった。光ったり光らなかったりしていたのは、周囲の木々が風に揺られて時々水面を隠していたためであった。

 ハーシェルは森に入る手前でいったん止まった。

 もっと近くに行ってみたいが、これ以上進めばいつ戻ってこられるか分からない。もしかするともうすぐそこかもしれないし、数十分はかかる距離かもしれない。小さな光の輝きだけで距離を判断することは難しかった。母はもう昼食の準備を終える頃だろうか。

 それなら、そろそろ戻らないとと思いつつも、ハーシェルの心は好奇心でいっぱいだった。

 どんな所なんだろう。川かな?魚とか、いるのかな。

 考えるより先に、ほとんど体が勝手に動いていた。ハーシェルは森の中に足を踏み入れた。森といっても、そんなに険しいわけではなく、幼い子どもが普通に進める程度の森だった。だから、ハーシェルは気にせずにどんどん先へ進んでいった。

 途中で、「一人で森に入っちゃだめよ」といつも母に言われていたことを思い出して少し罪悪感を抱いたものの、もう入っちゃったし、と思うと母の忠告はどこへやら次の瞬間には完全に忘れ果てていた。

 目的の場所へは十分ほどで着いた。森がやや開けたところ。そこにあったのは――

「わぁ……」

 キラキラと輝く、大きな池だった。

 池の周囲には、薄青やピンクの水草や花が茂っている。空はほぼ木々で覆われており、その隙間から漏れ出す幾筋もの光が池をより一層美しくしていた。

 ハーシェルは興奮で胸が高鳴るのを感じた。こんなに美しい光景は、今まで目にしたことがなかった。

 ハーシェルは興味津々に池に近づいた。

 落ちないように気をつけながら上から中を覗くと、小さな魚たちがハーシェルの目の前を走った。しかし動きの速い魚たちは、一瞬で姿を消してしまった。

 (どこに行ったんだろ……)

 ハーシェルは消えた魚を追って、あまり深く考えずに池の淵に片足を掛け、身を乗り出した。

 その時、足が濡れた地面でずるっと滑った。

「……え?」

 一瞬、時が止まったかのようだった。前のめりになったまま、行き場のない左足が宙に浮いている。

 しかし次の瞬間、視界に水が迫り、同時に体は水の中へと転がり込んだ。

 ハーシェルはその水の冷たさに驚いた。春で外が暖かいからといって、水は決して温かくはないのだ。

 川で水浴び程度ならしたことがあるが、水の中で泳いだことなど一度もない。

 (……あ……あがらなきゃ……!)

 しかし体は浮き沈みするだけで、全然言うことをきかなかった。それどころか、服の重みで水面に顔を出せる時間はあっという間に短くなってゆく。

 ハーシェルがちらりと岸の方を見ると、岸は手を伸ばしても全く届きそうもない距離にあった。

 (うそ⁉ あんなに近くにあったのに……!)

 突然、恐怖が現実味を帯びてハーシェルを襲ってきた。岸に手が届けば、まだなんとかなると思っていたのだ。

 冷たい水が口に入ってくるのを感じた。必死に息を吸おうとするが、入ってくるのは水ばかりだ。

 もう、どうすることもできなかった。



「――?」

 今、何か音がしたような……。

 誰もいないはずの森の中で、男の子は辺りを見渡した。

 しかし、周りの木々や植物は依然として静かで、そよ風に誘われてわずかにその葉がゆらいでいる程度だ。生物がいる気配すらない。

 男の子は首を傾げた。

 (確かに聞こえたんだけどなぁ……。何かが水の中に落ちたような、バシャッって音。でも、そもそもこんな所に水なんてあるのかな……)

 男の子は、音がしたと思われる方向へ少し歩いてみた。すると、何かきらきらしたものが木の幹の向こうに見えた。まさか、本当に水があるのだろうか。

 音も気になったが、喉が渇き始めていた男の子は走ってそこに向かった。

 すると、そこでは喉の渇きなど吹っ飛ぶような事態が起きていた。

 自分と同じ歳くらいの女の子が、池で溺れそうになっていたのだ。もう、水面に顔を出すことさえままならない状態だ。

 (……まずい! 早く助けないと!)

 男の子はひとまず近くに落ちていた中で一番長い枝を取り、女の子の方へ駆け寄った。右手はそばにあった木の幹にしっかりとつかまり、枝を持った左手をできるだけ女の子の方へと伸ばした。

 女の子は反射的に手を枝の方へ伸ばしたが、つかむにはわずかに遠かった。男の子は必死に腕を伸ばしたが、これ以上は近づけそうにもない。

 ここで、男の子は作戦を変更した。

 前のめりになっていた体をもとに戻し、靴と上着を脱ぎ捨てた。そして迷う間もなくすぐさま池に飛び込んだ。

 冷たい水が体中にしみわたる。

 男の子は、気力を振り絞って女の子のもとまで泳いでいった。

「……ねぇ、きみ! 大丈夫? ――起きてよ!」

 女の子の意識はもうほとんどないように見えた。

 (まさか――)

 男の子はさーっと絶望が心の中に広がるのを感じたが、その思いを振り払って女の子を引っ張って泳ぎ出した。

 人を引っ張りながら泳ぐのは始めてだったので、途中溺れそうになったりもしたが、岸がそれほど遠くなかったため、なんとかたどり着くことができた。

 まず自分が上がり、それからどうにか女の子を引っ張り上げた。さすがに重かったので、ほとんど引きずり上げるような形になった。

 ひとまず女の子を地面に寝かせ、ふらふらしながら立ち上がった。池から助ける過程でだいぶ体力を消耗していた。

 ここから先は、自分ではどうしようもなかった。

 だれか、助けを呼ばないと……

「だれか……だれかいませんかー⁉」

 男の子は残っている体力を振り絞って精いっぱいの声を張り上げた。

 ――――

 返事はなかった。さすがにこんな所にはだれもいないのか。

 男の子はちらりと女の子の方を見た。

 茶色い三つ編みの女の子は、静かに地面に横たわったままだ。

 焦りと恐怖で頭がどうにかなりそうだった。

(お願いだ、生きていてくれ――)

 男の子は女の子に背を向け、走り出した。

 力の限り叫びながら、必死に森の中を走った。すると、どこからか別の叫び声が聞こえてきた。

 声のする方向へ行ってみると、きれいな女の人がしきりに誰かの名前を呼んでいた。女の子と同じ色の茶色が、肩を過ぎて優しくウェーブしている。

「すいません! 女の子がっ……池で、女の子が……!」

 男の子は息を切らしながら叫んだ。

 その女の人はひどく青ざめた表情で振り返った。

 そして一言、言った。

「案内して」



 顔の端に何か当たったような気がして、ハーシェルは目を覚ました。

 ゆっくりと目を開くと、まず男の子の顔が目に入った。頭の側に座っているので、上下が逆さまだ。男の子のグレーの瞳が、静かにハーシェルの顔を覗き込んでいた。

 ハーシェルの意識が戻ったことが分かると、男の子はほっとしたような表情をした。

「……よかった。気がついて」

 その真っ黒な黒髪からは、ときおり雫がしたたり落ちていた。きっと、さっき顔に当たったのはこの雫だろう。

「きみのお母さんなら、今水を取りに行っているよ。もうすぐ戻ってくるころだと思う」

「――だあれ?」

「ぼくはウィル。きみは?」

 ハーシェルは起き上がり、片目をこすりながら言った。

「ハーシェル」



 それからというもの、ウィルはよくハーシェルの家に遊びに来るようになった。ハーシェルの家がある山と同じ山の村に住んでいるというウィルは、だいたい昼ごろにやってきて、夕方に帰っていくことが多い。親に手伝わされている仕事を、こっそり抜けてきているそうだ。



 それから二年の月日が流れ、二人は今七歳になっていた。




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