〈ラナ・トゥ・マナ〉にて
ハルカンディアの山なみから吹ふきおろす心ちよい風が、大草原のやわらかな芝草の上にそっとひろげたティコのしんじゅ色にかがやく羽根のうらがわを、やさしく、やさしく、くすぐります。
きっと、『はやく高空へおいでよ』と〈ワタリの風〉が呼んでいるのでしょう。
晴れやかに澄み渡った空は、スペルヴィア湖よりもなお青くかがやいています。
ティコは、折れてしまいそうなほどに細く長い首を、すねたように横にふりむけると、これもまた、くだけてしまいそうなほどに細く長いクチバシで、うしろばねのあたりを、かしかしとついばみました。
かすかな羽根音が聞こえたかと思うと、ひゅうという羽切音とともに、ティコの小さな顔の上に甲高い言葉が落ちてきました。
「やっぱり、ここにいたわ」
ばさっばさっ、と羽根風が、せっかくの〈ワタリの風〉を、さんざんに吹きはらいます。
「そんなふうにぃ、お羽根を、はしたなくひろげてぇ。女鶴のくせに、まぁったく、情けなぁい」
母ヅルの口グセを真似しながら、妹ヅルのクゥクが、姉ヅルの横に、すうっと舞いおりてきました。
「うるさいわね。ほっといてよ」
ティコは、わざと見せつけるかのように、黒光りするウロコが生えた細くしなやかな足を交差させて、大胆に組んでやります。
「ふふ。お姉さまったら、ぜーんぜん、さまになってないわ。やるのなら、こうよ」
ばさりと羽を、ひとふりしたクゥクは、地上から自分の背の高さほども浮き上がると、ムチのように両方の足をしなわせ、空中であぐらをかいてみせます。そして、両方の羽で器用にバランスをとりながら、ふわりとお尻から降りてきました。
「どーぉ? お姉さまも、やってごらんなさいよ」
そう言って、得意げに、くちばしをカチカチと鳴らします。
ティコは、ますます、ふきげんそうなちょうしで、
「くだらない」
と、ひとことつぶやき、しんじゅ色にかがやくはねで純白のむねを抱えこんだ、つぎのしゅんかんには、もう、すらりと立ち上がっていました。
もちろん、地面から、つまさきはいっしゅんたりとも、はなしませんでした。
「なぁんだ、自分でも、ちゃんと、わかってるんじゃない」
そう憎まれ口をたたく妹ヅルを無視して、姉ヅルは、飛ぶのではなく、細くしなやかな足を使って、歩みさろうとしました。
綺麗な逆三角形を形作る、ティコの黒い風切の重なりが、今のきもちを代べんするかのように、どこか不安げに揺れています。
頃あいを見はからっていたらしいクゥクが、少し、わらいをふくんだ調子で、こう言葉を投げつけました。
「お姉さま、今日も学校、休んだでしょう。お父さま、カンカンよ」
ティコは、思わず、立ち止まり、くるりと妹のほうに、ふりむきました。
「お父さま、帰ってらっしゃったの?」
言ってしまってから、ティコは、すごく後悔しました。
ああ、なぜ、こんなふうに、気にしてしまうんだろう。
わたしは、わたし。
お父さまのことなんか、ほっとけばいい。
なのに、どうして……。
まるで、姉の心を読んだかのように、クゥクのつぶらな黒いひとみが笑っています。
「ええ。今朝、はやくに。トゥ・ソルナ・レイでのお仕事が、予定よりも早く終わったのですって」
ティコは、首の中を、さあっと冷たい風が吹きぬけてゆくのをかんじました。
「まあ、それはよかったこと」
ハルカンディアの山頂を吹きあれる〈ワタリなみだの風〉のような心もちでしたが、ティコは、さも、きょうみなさそうな口ぶりで、そう答えます。
「またまた、無理しちゃって」
ぼそりと、クゥクの姉ヅルにうりふたつの、折れそうなほどに細いくちばしが、にくたらしげに言いました。
クゥクのそんな態度にカチンときたティコは、なにか言いかえしてやろうと、一歩前に出たつぎのしゅんかん、ようやく、そのことに思いあたりました。
「クゥク、あなたがお父さまに言いつけたのね!」
妹ヅルの黒しんじゅのような目が、大きく見ひらかれました。
やっぱり。
ツルの子どもたちは、きちんと羽根がつかえるようになるまで、全員、この国にたったひとつだけある学校にかよいます。学校は、四つの樹に分かれていて、それぞれ、〈ハナレ〉〈アルキ〉〈ツツキ〉〈ワカレ〉と呼ばれていました。ティコは、もうまもなく若ヅルとしてひとり立ちをしなければならない〈ワカレ〉樹、クゥクは、そのひとつまえの、いちばんきびしい時期をすごす〈ツツキ〉樹です。
樹は、ちがうとはいえ、クゥクには、姉ヅルが、今日、学校を休んだことを知るきかいなど、いくらでもあります。どうせ、この子のことだから、あちこち、ききまわったにちがいないわ。それに、さきほどのくちばしの入れ方から考えても、ティコがときどき、学校をズル休みしていることを前々から知っていたにちがいない。ティコは、そう確信しました。
いつもいつも、クゥクは、そう。
《トゥ》の羽根ばっかし、むしりたがるんだわ。
自分でも、思ってもみなかった怒りが、こみあげてきたティコは、なにか、ことばを言いかえしかけた妹ヅルのくちばしを折るように、さらに、ひと声投げつけました。
「クゥクのはねたらずっ! つぶれっ首っ! 旅はぐれっ!」
妹ヅルの大きくみひらかれたまっくろいひとみが、みるみるとこわばりました。
どのことばも、この国のおさないツルたちがいわれたら、いちばんいやだと思うにちがいないものばかりです。『はねたらず』は、いつまでたっても、ろくにとべもしない子ヅルをばかにしていうことば、『つぶれっ首』は、きれいなこえで鳴けない子ヅルがきまってつけられるあだ名、そして『旅はぐれ』は、『はねたらず』で『つぶれっ首』な子ヅルが、さいごにいきつく先、みんなからさげすまれ、のけ者にされた子ヅルがいきつくばしょの名まえにもなっている、最大級のぶじょく言葉でした。
どう、思いしった?
ティコは、川辺に潜み、彼女たちのかたいうろこが生えた足をものともせず、長い針のような口を突き刺しては血を吸うサシガネ虫を、さんざんにふみつけてやったかのようなここちよさを感じました。
いいきみだわ。
たまには、自分の羽根を、むしられてごらんなさい。
ティコは、ぼうだちになったままの妹をひとりのこし、スタスタと歩きだしました。
きっと、なにかいいかえすに決まっている。
そうしたら、こんどは、羽根先でひっかいてやる。
姉ヅルは、心にきめました。
でも、いくらまっても、かすかな風の笑いごえしか聞こえません。
なんとなく心配になったティコが、ちょっと振りかえろうかと思ったとたん、
「おねえちゃんのばかっ!」
はげしいひと声だけを残して、バサッバサッと、おだやかな風を、まっぷたつになぎ切るほどの羽根音がとおのいて行きました。
ティコは、なにごともなかったかのように、スタスタと歩きつづけましたが、心の中は、〈霧の国〉にうずまく、まっしろな濃霧のようにみだれ吹き、あわあわとわきたっていました。
ひどいことばをいってしまった。
後悔のおもいが、いまさらながら、ティコの小さなむねの中に黒雲となってふくらみます。
でも、そのいっぽうで、クゥクがわるいんだからしかたないじゃないの、という声も、はるか心の高空から、ふってきました。
ティコは、ふと、歩みをとめました。
うつむきかげんに、後ろをふり返ります。
妹ヅルの姿は、飛び影ひとつとてない蒼空のかなたへとけこんでしまったようです。
はるか右羽根のほうには、高空にむかって、たかだかと大きな幹と枝葉をのばしている四本の雄大な樹がみえます。
ツルの子どもたちが通う学校《学びの森》です。
《学びの森》の四本の樹は、とてもきみょうな形をしていました。そのとてつもなく太いみきは、1000羽のおとなのツルたちが両羽根をま横にひろげて、ようやく、とりかこめるほどの太さだそうです。 みきは、高空へむかって、ぐんぐんとのびていて、それはちょうど《ワタリの風》がもっとも強くふく高さに、もうすこしでとどこうかというほどの高みをほこります。じっさいに、ティコたち、〈ワカレ〉樹の子ヅルたちは、四つの樹のおのおのがさししめす四つの方角へとふいている《ワタリの風》にのって、それぞれの《トゥの道》へと旅だってゆくのです。
ティコも、ほんとうならば、つぎの《ワタリの大風》の日に、旅だつはずでした。
細くためいきをもらすと、ティコは、また、歩きだしました。
はるかかなたに、〈ためらいの丘〉がみえます。
ティコは、いろいろな思いがわき起こる胸を閉ざしたまま、黙々と丘にむかって歩きつづけます。
でも、心とはうらはらに、頭の中には、さまざまなことがらが、つぎからつぎへとうかび上がりました。父ヅルのきびしいくちばしのうごき。母ヅルのかなしげなよび声。妹ヅルのにくたらしい羽根音。教師たち、友達たちのかってないい分、ひどい言葉。そして、ティコ自身がはきだす、みにくい感情のかずかず。でも、それらすべてをひっくるめても、けっきょく、さいごのさいごに《ワタリなみだの風》のようにあらあらしく吹きわたってゆく心の声は……
なぜ、こんなふうになってしまったのだろう。
そんな問いかけなのです。
なぜ。
なぜ。
いったい、どこで、おかしくなってしまったのか。
ティコは、〈ためらいの丘〉へと、とぼとぼと歩きながら、考えました。
そう、すべてのはじまりは……
ティコは、あらためて、思います。
ずっとずっと昔から、この《トゥ・コント・レイ》に伝わる美しくも悲しい物語。
この国に住むツルたちの心に、たえず語りかけて来る、生きるための意味。
《トゥ》は、すべてのツルたちの生きるお手本。
《トゥ》のように、育て。
《トゥ》のように、生きよ。
《トゥ》こそが、ツルの理想だ。
《トゥ》こそが、ツルのかがみだ。
その《トゥ》そのものに、ティコは、ぎもんをもってしまったのです。
そもそものきっかけは、いったい、なんだったのだろう。
しんじゅ色にかがやく、とても美しい羽根をもつひとり立ちまぢかの幼な幼ヅルは、そう自分自身に問いかけました。
そうすれば、なにもかもが間違っているのだ、と証明できるとでもいうように、《トゥ》の物語を、いま一度、思い浮かべてみます。
それは、むかぁし、むかしのお話でした。
むかぁし、むかし、この国に、《トゥ》という名の、一羽の女ヅルがおりました。
物語は、そんなふうにはじまります。