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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
番外編
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番外編 ノー残業デーの使い方

「――というわけで、来週の金曜日、社内忘年会なんで、予定を空けておいて頂きたいんですが、ご都合はいかがですか?」


 香水の香りが鼻についた。同じくらいに甘ったるい声に島田はディスプレイから目線を上げる。

 壁にかけられた時計を見ると、定時五分前だった。周囲を見ると皆帰り支度をはじめている。仕事に集中していた島田はそういえばと思い出す。

(あー、水曜日。ノー残業デーだったか)

 無視して帰らないと労働組合の人間から怒られる。仕事は溜まってその分他がきついけれど、週の半ばで堂々と一息つけるのは結構効率がよく、ありがたく思っている。

 肩を軽く回し、島田はパソコンのカレンダーを開くと予定を確認する。

 スマートフォンと同期してある予定表で、ひと際目立つのは十二月前半のとある一日。背景を赤にしてあり、一目見て予定があるのがわかる。

 島田はその週の金曜日の予定を開くが、午後は特に予定はなかったので、あっさりOKを出した。

「一応空いてるけど、一次会まででもいい?」

 島田の回答に反応せず、ディスプレイを注視しているのは秘書課の相沢だった。役員会議などの予定は職務上よく知っているため、仕事の予定ではない事を素早く見抜いたのだろう。パソコンを無遠慮に覗き込んで難しい顔をしている。

 相沢は島田が本社に戻ってから、ちょくちょく顔を見せるようになった。

 島田の結婚の噂は事しめやかに広まっているはずだが、正式に発表するまでは聞いていない振りをするつもりらしい。

 先日さくらが美装にやって来た時に、一騒動有って、周囲の人間から島田はいろいろ耳にした。

 どうも、美装の女性社員は、一律、島田の相手となるさくらが気に入らないらしい。彼女が大人しく、地味な外見である事も(島田はまったくそうは思わないが)原因しているらしいが、美装の社員でないことが一番の理由だそうだ。そして正式な社員で、社内一の美人である相沢を応援しているらしい。

 女性が団結すると最強で最凶だ。応援を受けた相沢は、根拠の無い自信を増幅させて言いよってくる。迷惑極まりないが、あまりつれなくすると島田の社内での立場が悪くなる。さすがに女性社員全員を敵に回すと仕事にさしさわる。

 今も二人の様子を伺っている女性社員が数人居る。島田が相沢を泣かせれば、誇張されて広がって行くと思われた。相沢が無駄に美人であるが故に、男性社員にも同情してもらえない。面白がられている節さえある。

(あーあ、結婚してしまえば、さすがに諦めると思うけど……それまでがなあ)

 内心ため息を吐いて、

「で、忘年会はその日で決定な訳?」

 予定を打ち込もうと、答えを待って見上げる。さっさと用事を済ませろと暗に促すと、相沢ははっとしたように頷いた。

「島田さんのご都合でほぼ決定です。それから、島田さん、いつも一次会でさっさと帰られますけど、今回は二次会まで、出来れば三次会も出て頂けませんか? 皆喜ぶと思いますけど」

 島田はうんざりする。この時期はただでさえ忘年会が多いし、得意先の酒の席に顔を出す事もあって夜が遅い。しばらくさくらとも会えていないのだ。

 だが、社会人としては適度にコミュニケーションは取るべきだと思って、妥協案を出す。

「わかった。二次会までは出るよ。――でもせめて翌週でいいんじゃないの。忘年会が終わると、冬休みに向けて気が緩むし、いっそ最終週でも構わないと思うけど」

「最終週は部長がお忙しいそうで」

 部長――叔母は相沢の上司だった。叔母は自分の目をかけた相沢を推しているし、何か企みがあるかもしれない。苦々しく思ったが口には出さない。

「そ、それから、」

 十二月第四週の欄をじっと見つめた相沢は、僅かに頬を上気させ、続けた。

「翌週はほら、皆予定が詰まってるみたいで。あ、私は今のところ、予定無いんですけどね!」

「……ふーん」

 敢えて言葉を返さないと会話が途切れた。話は終わったと島田はディスプレイに目を落とす。だが、相沢はしつこく話を続けた。

「そういえば、島田さん、眼鏡変えたんですか?」

 相沢は不満げに顔を除き込んでくる。プライベートとは別に購入して、仕事中には敢えて野暮ったいものをかけるようにした。似合わないとでも言いたいのだと思うが、口元だけで笑った。

「ああ。度が上がったみたい」

「お仕事し過ぎなんですよきっと」

 たまにはゆっくりと飲みに行きませんか? と続くのはこれまでの経験でわかっている。

 断っても纏わりついてくるのがわかっていた島田は「そろそろ帰るよ。今日は彼女が肉じゃが作ってくれるから」と先制攻撃をすると、バッグと上着を抱えてデスクを立った。



「全部食べちゃったんですか!? 明日のお弁当に入れようと思ってたのに!!」

 台所に居たさくらが、食卓の上を見て悲鳴を上げた。

 先ほどまでほくほくで味の染みたジャガイモが山となっていた器は、今は煮汁が少し残るのみ。

「あ、ごめん」

「い、いえ。いいんですけど、まさか残らないとは思わなくて! だって、五人分くらい作ったつもりだったんです」

「こういうのって外食じゃあ食べられないからなぁ。得に、この頃、飲み会ばっかりで、さくらの手料理に餓えてるし」

 さくらが呆れたようにため息を吐き、食器を手早く片付ける。

「だからと言って、食べ過ぎです。太りますよ」

「職場の既婚者が例外無く太って行く理由が、すっげーよく分かる」

 おいでと手招きすると、さくらを絨毯の上に座らせる。

 そして膝に抱きつくと、彼女は仕方なさそうに頭を撫でた。

「太らないで下さいね」

「太ったら愛が冷める?」

 ずるい聞き方をするが、さくらには通用しない。

「島田さんは運動してますし。毎日自転車一時間漕いでたら、そんなに肉付きませんよ」

「でも今は営業してないからあんまり漕いでないし、運動減ったからわかんないよ? もし太ったら、どうする?」

 もう一度、今度は試すように言うと、さくらはやっと意図を察したらしく、仕方なさそうに苦笑いした。

「島田さんなら、たとえ禿げても好きですから」

「…………またそういう余計な事を」

 甘い台詞が苦手なさくらは、大抵余計なものをくっつける。島田は思わず、髪の毛を梳く手をぎゅっと握る。抗議を感じたのか、

「大丈夫ですよ、島田さんところは、遺伝的にはセーフです。ハゲの遺伝子は優性遺伝で強烈ですから、お祖父さんがハゲてると島田さんも確実にハゲますけど、どちらのお祖父さんも多少薄くてもハゲてないでしょう?」

 不必要な蘊蓄に島田はげんなりする。

「いやそういうことじゃなくて、っていうか、今ハゲって何回言った!? 連発されると呪われて抜ける気がするからやめてくれ」

 男にしかわからない不安に島田は半ば本気で懇願する。だが、さくらはポンと手を叩いて、顔を輝かせた。

「いっそ禿げたら、皆、島田さんを諦めるんじゃないですかね」

 へらりと軽口を混ぜられたが、島田は言葉に込められた密かな願いを聞き逃さなかった。これは、このままにはしておけないと気を引き締めつつ、さくらに合わせて笑ってみせる。

「……じゃあ、剃って頭を丸める?」

 ぼそっと言って脅すと、さくらはぎょっとして「いや、もちろん冗談ですって! 止めて下さい! 似合わない上に、気合いの入りすぎた高校球児みたいになりますよ!」と焦りはじめた。

 悪気無く暴言を吐く彼女を腕の中に捕らえると、文句を言いながら、唇を啄んだ。

「禿げても好きって言ったくせに」

「無理に禿げる必要は全くないですし!」

「あ、そうだ。来週木曜日、空けておいて。早く帰ってくるから、デートしよう」

「え、なんで」

「忘れてるんだ? ……さくらって妙なところで男らしいよな」

 こういうったことは男が忘れていて女性に怒られるものなんだけど、と島田は苦笑いをする。

「どうせ女子力低いですし! っていうか、島田さんが上原さんみたいな事言うとか!」

童顔・・って言ったお返しだし」

「いや、あの……そんなつもりは……す、すみませんでした……!」

「それから、大事な事忘れてたから、お仕置き」

 そのまま床に押し倒すと、さくらは動揺しつつも大人しく目を閉じた。




「まさかほんとにやるとは思わなかったんだけどなあ」

 島田がぼやいたのは予定表が赤く染まっていた、その日のことだ。

 午後になって急に接待をいれられて、島田は慌てて電話をかけるはめになった。

 ノー残業デーは、ストレスフルな日々を過ごす島田の憩いの時間だ。急に潰されれば腹が立つのも当たり前だった。

 しかも、目の前には叔母と、着飾った相沢がいる。隣には叔母が懇意にしている取引先の人間が居たが、自分がここにいる必要が全く感じられず苛立ちが募った。

 おそらく相沢は、島田のスケジュールを見たあと、叔母に相談したのだろう。そして島田が断れない予定をぶつけて来た。

(見てたのは知ってたけど、……相当根性悪いよな)

 こんな真似をしてそれでも愛される自信があるのだろうか。ワンチャンスで人の心をものに出来るなどと考えるのは、あまりに傲慢すぎないかと島田は呆れてしまう。

(まぁ、今まではそれで上手くいってたんだろうけどなあ)


 苦々しい想いを腹の中に隠したまま、なんとか接待を終えると、「じゃあ、お疲れさま」と島田はさっさと帰宅しようとした。

 その背中に決意の籠った声がかけられた。

「待って下さい。……島田さん、今年のクリスマス、私と過ごして下さい!」

 いつの間にか、叔母は消えている。クリスマスのイルミネーションをバックに、相沢だけが立っている。爪の先まで手入れの行き届いた姿を見て、島田は胃もたれに似た苦痛を感じた。

 そのまま逃げ出したくなったが、ここは社内ではないし、取り巻きも居ない。この状況ならばはっきりと言えることがあった。

 島田はゆっくり相沢に向き直る。

「嫌だ。俺、結婚するし」

「わかってます。でも、私本気なんです。ずっと島田さんの事好きでした。あの人よりもっと前から!」

 鼻の頭を赤くして、真剣に見つめてくる相沢に、島田は笑った。

「今日、俺に予定あるって知っててやったんだろ?」

「いえ、部長が――」

「こんなあからさま工作、わからないとでも思った?」

「……す、すみませんでした。でも、島田さん、いくら私が誘っても絶対に乗ってくれないし、それに……今日、彼女の誕生日なんでしょう?」

 島田は敢えて眼鏡を外して相沢を睨む。もう怒りを隠す必要は無いと思った。

「もしかしたら、そういう大事な日に俺に仕事を選ばせて、俺たちの関係にひびを入れるつもりかもしれないけど、彼女は自分の誕生日も忘れてたし、クリスマスでさえ一人で平気な人だから、こういうのは時間と労力の無駄だと思う」

 相沢は豹変した島田の態度にも、言葉にも驚いたようだった。

 彼女のどこがいいんですか? とでも言いそうな顔に、島田は笑う。

「そういうところがいいんだよ。本当に大事なものが何か知ってる。君とは違ってね」

 たとえ誕生日に一緒に過ごせなくても、別の日に無理無く楽しく祝えればいい。プレゼントも要らないし、気持ちがあればそれだけでいいと言うような子なのだ。

 だからこそ、精一杯準備したい。島田はそう思っている。邪魔は許さないし、邪魔などさせないと思っていた。

「こういうの、もう迷惑だから止めてくれないかな。クリスマスは、別の男と過ごせばいい。なんなら紹介してあげるし。君ならよりどりみどりだろう?」

 島田がきっぱり言うと、相沢にはようやく怒りと拒絶が伝わったらしい。言葉を失った彼女を置いて、島田は地下鉄の駅へと向かった。




 翌日・・の十二月十二日の木曜日。島田は十九時ちょうどにさくらのマンションのエントランスに辿り着いた。

 平日に定時で帰るのは気まずいが、昨日の急な接待のおかげもあって、堂々と帰宅できていた。

 別にお休みの日でいいですよーとさくらは暢気に言ったが、彼女より多少ロマンチストな島田は、当日になんとか時間を作りたかった。なんといっても、さくらの誕生日は二人が付き合いはじめた日でもあるのだ(正式には翌日に持ち越したが)。

 島田が贈れるもので一番貴重なのは、おそらくは時間。

 だからこそ、様々なものを利用して島田はそれを手に入れようとしていた。

 つまり、パソコンに表示していたスケジュールはダミーだ。相沢は毎日チェックをしに来ていたし、周囲に味方は居ないし、余計な邪魔が入らないようにと慎重に管理していたのだ。

(間が悪いのも、しっかり計画立てれば、何とかなるもんだ)

 そうほくそ笑む島田は、自動ドアの開く音に顔を上げる。だが――次の瞬間に彼の笑みが剥がれ落ちた。

「あー島田さん、……ええと、すみません」

 げっそりとしたさくらの後ろに、見たくない人物の影が現れた。

「誕生日やけんね! ご馳走作って来たんよ!」

(ああ、そうだった……この人の事、忘れてた)

 島田の策略など、さくらの母の愛の前には無いも同然。

 ニコニコと重箱を持ち上げるさくらの母に、さくらと同じくげっそりしそうになったが、

「僕の分もあるんですか」

「当たり前やろ。あんたも祝うんやろうが」

 不思議そうに首を傾げるさくら母を見て、気を取り直す。

「じゃあ、ビール買ってきます」

 奮い立たせるように言うと、さくら母はからからと笑った。

「運転するけん、私の分は要らんよ」

 あ、帰るんだとほっとした直後、さくら母はにんまりと続けた。

「でも、お父さんの分は日本酒にしとって」

「……お義父さんもいらしてるんですか……」

 さすがにダメージが大きくて、思わず棒読みになると、

「ほんと、毎度毎度すみません。独身最後だからとかなんとか言ってますから、こんなこと、今年までですから。……多分」

 さくらが泣きそうになっている。島田は慌てて自らを建て直すと、無理矢理笑顔を浮かべた。

「いいよ、さくらと一緒に過ごせるから、問題ない」

 おまけが二名ほどつくだけだ。まだ七時だし、夕食後が勝負だし、問題ないと言い聞かせる。

 すると、張りつめていたさくらの顔がようやくほっと緩んで、それだけで十分だという気分になった。


 だが、その晩、島田は夜遅くまでさくらの両親に付き合い、見事に酒で潰れた。それはもう、両親が帰ってからと立てていた計画もろともに。

 翌朝、酷い頭痛と共に目覚めた島田は、さくらから聞いた自らの醜態に呆然となる。

 そして、来年は両親の事を最重点に計画を立てようと心に誓うのだった。



《おわり》


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