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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
一.大暑のころ
8/91

8 社長はどちらに

 中央区は県を代表する商業地だ。老舗のデパートが密集しそれを多くの企業ビルが取り囲んでいる。昼間のうちに熱せられたアスファルトの上を勤めを終えたサラリーマンやOLがいそいそと歩く。中央を走る片道五車線の道路にはバス停がずらりと並んでいて、様々な行き先のバスが続々と到着しては、列を作った乗客を口を開けてどんどん飲み込んで行く。

「えーと、中央区赤坂四丁目十番地……」

 さくらは人の流れを逆行するように地図を見ながら歩く。事務所は西通りに面していて繁華街から少し路地に入ったところだ。ここには昼間は営業していないお洒落な飲食店が立ち並んでいて、夜になると雰囲気を変える。さくらの前に勤めていた場所も似たようなものだが、職場があった東よりのエリアは夜に出歩く人間は割合年齢層が高かった。しかし西側のこの辺りではおしゃれな若者が闊歩している。そういえば雑誌のデートスポットにも上がっていたな……そんなことを思い出した。

 さぞかしお洒落な職場だろうな――名刺を見つめながら探すが、背の低い建物が連なっており、該当しそうなものは見当たらない。

「これも間違ってたりして」

 今朝のホームページのことを思い出して、さくらはもしかしてからかわれたのではないかという不安に駆られた。

(そんな人には、見えなかったけどな)

「うーん、三番地ってこの辺りのはずなんだけど。イデアール赤坂二番館」

 と、そのとき、後ろから自転車が近づく音がして、さくらは思わず道の脇によける。自転車がさくらを追い抜く。同時に通り過ぎた風に誘われてふと前を見て思わず目を見張った。自転車の主はスーツの男だった。しかし漕いでいるのはクロスバイク。背中にメッセンジャーバックを背負っている。そして頭にはヘルメットだ。僅かな既視感、そして違和感にじっと観察すると、その人がさくらの20メートルほど先でキキっとブレーキをかけ、道の脇に自転車を停めた。 

 鍵をかけ、そのまま彼は建物の中に足早に消えて行く。

 誘われるようにさくらは自転車に近づいた。細いタイヤで細いペールグリーンのフレームのお洒落な自転車だ。

(なんだか高そう)

 詳しくは知らないが、さくらの持っている自転車ママチャリの数倍の値段がしそうだった。

 見上げると、三階建ての古いマンションがあった。上部には文字が浮き出すように付けてある。古い建物には似合わず、シルバーの凝った文字でそこには確かに書いてあった。――イデアール赤坂Ⅱと。


「失礼しまーす」

 ポストで会社名を見つけたさくらは奥へと進んだ。事務所は203号室。蛍光灯のチカチカする階段を上り、奥の突き当たりを目指す。辿り着いた部屋の扉には「SHIMADA」とある。まるで普通の家の玄関のようだ。

 ここまで来て引き返すわけにも行かない。生活がかかっているさくらは心を決めてチャイムに指を伸ばした。

 ピンポン、と聞き慣れた音が鳴る。一拍後、ドアホンから『はーい、どなたですか?』と女性の声で返事がある。

(ああ、間違いだったらどうしよ)

 ピンポンダッシュしたい。そんな気持ちになりながらも一応成人に達しているさくらは踏みとどまる。

「あ、あの! こちら、株式会社シマダさまでお間違いないでしょうか」

『はいー、何の御用でしょうか?』

 ほっとした。力を得てさくらは質問に答えた。

「昨日、そちらの島田様にお名刺をいただきまして、ええと、アルバイトの面接に来た片桐さくらと申します」

『少々お待ちください。……けいちゃーん、なんかバイトって言ってるけど、だれか引っ掛けて来たのぉ?』

 くぐもっているが、後ろに叫んでいる声が聞こえる。なんというか……妙にアットホームなところだ。

(って、引っ掛けてきた?)

 不審に思っていると、突如がちゃりと目の前の扉が開く。

 現れたのは先ほどの自転車の男に間違いない。スーツの色が同じだ。さくらは慌てて頭を下げる。そして目の前の革靴に向かって勢いよく言った。

「あの、片桐です、バイトの面接に伺いました!」

「…………入って」

 声に聞き覚えがあり、顔を上げる。さくらは大きく瞬きした。

「シマダ、さん?」

 知っている顔だった。だが、雰囲気があまりに違ったのでさくらは思わず尋ねた。

 男は髪をしっかりとワックスでセットしている。癖があると思っていた髪だったが、今は綺麗に櫛で整えられてストレートヘアにしか見えない。寝癖も無いし、……なにより、顔にはメガネがあった。メタリックな銀色のフレームの奥に細まった目を見つけるが、昨日の甘さや柔らかさ、そして色っぽさは完全にメガネの印象で打ち消されている。一歩間違えば学生に間違えられそうだったというのに、今はお固いビジネスマンにしか見えなかった。

「本当に来たんだ? ――履歴書を出して」

 溜息と共に冷たく言われて、さくらは慌てて鞄を漁った。渡すと「こっちで面接をするから、来て」とやはり淡々と言われる。

 部屋の区切りは入り口傍のエリア以外、すべて取り払われ、一見普通の事務所のようにはなっている。だが、天井が低く、所々に鉄筋の柱らしきものが見える。最初にマンションか?と感じた通り、この部屋はマンションの一室を改装したもののようだった。つまり結構狭い。床はグレーの絨毯が敷かれていて、思わず土足で良いのかと問いたくなるくらいに綺麗に掃除されている。

 壁はコンクリートのうちっぱなしで、冷ややかさを感じた。それはなんだか今目の前を歩く男に似ている。

(本当に来たんだって……どういうこと?)

 男の背中には確かに見覚えがあった。そして横顔にも。

 正面から顔を見なければ、話をしなければ確かにこれは昨日会った島田である。

 さくらは訳が分からない。雇ってやると誘ったのは、さくらの勘違いでなければ、そっちではないか? さくらが頼んだわけではないはず。

 次第に昨日のことが全て朝見た夢に繋がっていたのではないか――そんな気になって来た。



「そこにかけて」

「は、はい」

 パーティションで区切られている窓際には応接セットがあった。北欧を思わせる革張りのソファ。独り掛けが二脚並べられ、向かいに三人掛けが一脚。間に自然木で出来たローテーブルが置かれている。窓からは先ほど歩いていた西通りが見え、街灯に照らされた外はぼんやりと明るい。

 窓の外に広がる景色、そして部屋の狭さなどは前の職場と同じ。だが、室内は比べ物にならないくらいにお洒落だ。ちらりと見たデスクも前の会社にあった事務的な物ではなく、アルミフレームの上に木製の天板が乗ったもの。広々とした机の上には大型ディスプレイとタブレット。足元にはマッキントッシュ。どちらもおそらくは最新型のだろう。椅子も座り心地の良さそうな大きな背もたれの付いたもの。

(ペンタブ! 最新型! ここ、すごく仕事しやすそう)

 この分だときっとソフトも最新バージョンだ。さくらはやや興奮しながら、「失礼します」とソファに腰掛けた。

 島田らしき男(まだ確信が持てない)は履歴書にさっと目を通した後、眉をしかめた。

「職歴は?」

「アルバイトのことでしょうか」

 バイトを職歴として書くのは気が引けて、趣味特技のところにドローソフト、画像編集ソフトと書いているだけだった。

「ああ」

「三年ほど、株式会社山田というサインの会社でデザインの仕事をさせていただいています」

「山田……ね。なるほど」

「ご存知なんですか?」

 島田もどきは曖昧に首を振ると次の質問を振った。

「どのレベル……かは確かめるとして……使用したことのある機種マシンは?」

「マックでした。けどウィンドウズも多分使えます」

「なら一応問題ないか」

 島田もどきは立ち上がると、さくらが先ほど観察していたデスクを指差した。

「じゃ、とりあえず試用期間、一ヶ月ってことで試す・・けど。いいかな?」

「え、ってことは一応採用ってことでいいんですか」

 さくらの言葉には答えない。どうやらさくらに問うたのではなく、周囲の人間に問うたらしい。

「いいわよー?」

 とパーティションの後ろから高い声が一つだけ上がった。

 その声と同時に島田もどきは立ち上がる。

「じゃあ、片桐さん。うち今人手足りなくって即戦力を求めてるんで、とりあえず今日から一ヶ月働いてもらうけど。週五日、二、三時間くらいの勤務。大学もあるだろうし、時間帯はカリキュラムに合わせて相談するとして、給料は時給九百円スタートでいいかな? こっちも能力次第で変えるつもり」

「十分です」

 一日三時間労働、九百円は前のバイトと同じだった。即答すると、島田もどきはパーティションの後ろに回り込み、さくらを呼ぶ。行って見ると、隠れていたのは小さな椅子に押込められた巨体だった。

「じゃーウエハラ、ちょっとどのくらい使えるか見てやって」

「えー」

 うんざりと振り向いた男の手にはマウス。付属の普通サイズのものなのだろうが、彼の手が大きいので妙に可愛らしいデザインに見えた。

 背も大きいが横幅もある立派な体格。百キロは越えているに違いない。意外に顔立ちは濃く、南方出身なのではないかと思った。

(クマ?)

 それが彼の最初の印象だった。――とたん、頭の中で『森のくまさん』が流れ出す。

「島田サンー」

 クマさん――もとい、ウエハラは彼を島田だと断定する。皮を被った別人じゃないかとまだ納得いかないが、どうやら認めざるを得ないらしい。

「ナンパで雇用って、冗談でしょ。まともな子なんでしょーね?」

 雇用に反対なのを隠そうともせず彼は口を尖らせている。

(うわー、幸先わるい)

 さくらが冷や汗を流す隣で、島田は冷たい声で応対する。

「じゃあ聞くが、馬鹿高い広告料払った求人広告で、まともなのが来た覚えがあるか? ワードエクセルは出来ます、パソコン得意です!って厚顔無恥の奴らばかりだろ。使う技術が全然違うのも分かってない」

「そう言うんならもっと給料あげて下さいって。無理ですって。あの給料じゃ仕事理解出来る技術者は誰も来ませんって」

 島田はちっと舌打ちした。

(舌打ち!? 舌打ちした!?)

 突如現れた柄の悪さにさくらは目を見開く。

「――今は余裕が無い。文句を言うなら、お前、一人でも新人を育ててから言え。お前の給料には指導料がつけてあるんだ。全額返金してもらってもいいんだからな?」

「って僕のせいですか? 島田サンが厳しくしすぎるからすぐ辞めちゃうんじゃないっすか!」

「出来ない事をやれとは言ってない。出来ると思ってるから言ってるだけだろ。あのくらいで辞めるってのがおかしい」

 むすっとしている島田はやはり別人に見える。

(えっと)

 いまいち状況について行けず、ぼうっとやり取りを見つめていたら、奥のデスクでさくらを見つめてニヤニヤしていた女性が口を挟んだ。

「仕事モードのけいちゃんに女の子が騙されたって思うのはしょうがないわよねー」

「俺は騙した覚えはまったく無い」

 島田は不本意そうに反論した。

「自覚無いのが困るのよね。十分騙してると思うけどなぁ――この悪党は。ねぇ、片桐――さくらちゃん?」

「は、はい!?」

 呼びかけられ、さくらは飛び上がった。なんで名前を知ってるのだろうと思ったが、直後、この人がドアホンで対応してくれた人なのだと気が付いた。電話越しだと声が違うのだ。

「あなた、つまりは彼の顔と名刺に釣られたんでしょ? 飲み会で会って次の日に即来るなんて――御曹司かと思って期待した? ガッカリしたでしょ?」

 にたり、と赤い口紅の塗られた綺麗な唇が歪んだ。

 悪友たちとの会話が蘇り、思わずぎくりとするが、辛うじて「いいえ」と答えた。

「正直に言っていいのよぉ? 仕事はハードだし、今のうちに『やっぱり辞めます』って言った方があなたのためだしー?」

 甘ったるい口調の中に、ちくちくとした女独特の悪意を感じ、ムッとする。

(この人……『けいちゃん』って言ってたし。何者?)

 島田をちらりと見るが、彼はフォローを入れるでも無く黙ってさくらを観察している。口元は僅かに上がり面白そうだった。その態度がまるで女性と同じことをさくらに問うているように思えた。

(うわ、ムカツク!)

 しかしさくらは笑顔を浮かべ、しゃんと背筋を伸ばす。

 『イケメンの御曹司に釣られてやって来た夢見がちな女』――そんな女に思われるということが、まず悔しい。真剣に働こうとしている人間に対して失礼だ。……多少図星だったけど。

(そりゃあ、ちらりと期待はしたけどね! こっちは生活かかっててそれどころじゃないんだよ! っていうか、そういうやらしい発想に至るってことはあんたもそう思ってるんじゃないの!?)

 心の中で女性に反論して自分を落ち着かせると、さくらはきっぱりと言った。

「いえ、私、失職したばかりでお金に困っているのです。未熟者ですけど何でもやりますし、どうか働かせて下さい」

 とりあえずさくらは本来の自分の目的さえ果たせれば良い。なんとか無事に大学を卒業したいのだ。一時の感情で、チャンスを無駄にはしたくない。

(時給、九百円!!!!)

 心中で叫びながらぺこりと勢い良く頭を下げると、島田がどこかほっとしたように小さく息をつく。

「彼女は河野こうの真由美まゆみ。女性は二人だし、喧嘩せずに・・・・・仲良くやってくれ」

「よろしくねぇ?」

 河野はにっこりと笑う。先ほどの毒はどこへ行ったのやらというような爽やかな笑みだった。

(あれ?)

 拍子抜けしたさくらは笑顔に何か既視感を感じて、記憶を探りつつ河野を見た。目鼻立ちが整っていて、十人が十人美人だと言うタイプの女性。栗色に染められた髪はショートボブ。きりっとした体にあったグレーのスーツを着ている。年齢は不詳。ものすごく美容に気を使っている四十代と言われても納得するが、普通に三十代なのではないかと予測した。二十代だったらごめんなさい、だ。

(うーん……見たことあったような気がしたけど)

 やはり彼女とは初対面のはずだ。こういう印象的な美人を忘れるわけは無い。気のせいだろう。

 そんな風に思っていると、島田にデスクを指差される。先ほど見とれていた綺麗な机だ。

「片桐さんの席はそこ」

 と、隣にのそのそと先ほどのクマさんが召還される。

「そして、こいつは上原うえはら良平りょうへい。デザインとウェブサイト担当だ。――あとは、」

 そこで島田は一度言葉を切ると、「知ってるかもしれないが」と僅かに気まずそうに自己紹介をした。

「俺は島田。営業担当だ。ってわけでここは三人の社員で回してる」

「え、三人ですか」

 予想以上の規模の小ささだ。それに――

(一人足りなくない? それから、私って何するワケ?)

 今になって根本的な疑問が湧いて来た自分にさくらは呆れた。

(ま、いっか。なんでも)

 もともと職種にこだわりなど無い。大学に入った時点で、そして山田を辞めた時点で諦めてしまったから。

「会社起こしたばかりなんでね。バイトの片桐さんが四人目。デザインの補佐を頼む。言っとくけど、うちのやり方は変わってる。かなり厳しく指導するつもりだ。あいつが言うように辞めるなら今のうちだけど」

 島田は河野をちらりと見ながら最終確認をした。

 しかし、

(デザイン!? それって――)

 その言葉にさくらは飛び上がりそうになり、

「いえ、やります。やらせて下さい!」

 思わず大きな声でそう言うと、島田がメガネの奥で驚いたように目を見開いた。

(あ)

 印象が僅かに昨夜と被り、さくらは思わずじっとメガネの奥を凝視した。

「なに?」

 メガネが乱反射して目を隠す。次に目が見えた時には既に島田の印象は元の冷たいものに戻っていた。

 島田が怪訝そうにさくらを見つめ返し、慌てて話題を変えた。先ほど気になったことがあったのだ。

「あ、えっと――副社長は島田さんなんですよね? で、社員は三人って――じゃ、じゃあ……社長はどちらに?」

 すると、ふ、と島田が奥を見る。

「あたしよ? さっきは酷いこと言っちゃってごめんなさいね」

 にっこりと手を挙げたのは河野だった。

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