7 悪夢からの脱出
さくらの前で島田が笑っている。例の子供みたいな笑顔で。
「さくらちゃん、この後暇? 夕食一緒にどうかな。もちろん、皆に内緒で」
(あり得ないってば)
さくらの半分は必死で叫んでいる。それなのにさくらの残りの半分はうっとりと島田を見つめていて、夢心地だ。なぜか鏡を見ているように自分の顔が見えて、うっと息を呑む。
桜色に頬を染めている。そしてしっかりフルメイクだ。最大限に美化された自分の顔。
(その顔、乙女入っていてキモチワルイ! ちょっと止めて!)
叫び声と共に場面が切り替わり、どこかの立派なキッチンに島田とさくらが居た。
安アパートのキッチンではない。高級マンションのシステムキッチンだ。モデルルームなどにあるヤツだ。
状況は分かる。これは例のアレだ。
分かっているのに目の前の映像はさくらの願いも空しく流れ続ける。さくらの半分は惚けた顔で醜態を晒し続けている。
「さくらちゃん。夜食作ってくれたんだ――ありがとう」
島田が目を細めて、礼を言う。
「すごくおいしい」
長い睫毛と涙袋がやはり艶かしい。どちらのさくらも心臓が爆発しそうだった。
だが、惚けていない方のさくらは、色っぽい男なんか嫌いだ! 精一杯叫びながら、必死で自分に突っ込む。
(お前はどんなキャラだ。そして、これはどんなシチュエーションだ!)
そんなさくらに島田が爆弾を落とす。
「いっそ、俺のお嫁さんになってくれない?」
突然のプロポーズを受けて、血が逆流し、身体が沸騰する。
っていうか暑い。そうだ、今は夏で――部屋のエアコンは切ってあって……つまりこれは。
(って――このキモチワルイ“夢”を見ているのは、一体誰――)
壮絶な不快さに助けられてさくらは飛び起きて、ここ数年の中で一番の悪夢から脱出した。
凄まじい寝汗。おでこに髪が張り付いている。浴室にダッシュすると服を着たままシャワーで頭を冷やす。
しかし生々しい映像はなかなか流れて行かず、さくらは思わず呻く。
「ああああああ……今の……恥ずかしくて三回くらい死ねそう」
・゜・・゜・・゜・(つД`)・゜・・゜・・゜・
その後さくらは冷水を浴び続け、煮立った頭をなんとか正常に戻した。そして例によって暑さに部屋を追い出され、研究室で調べ物をしていた。
気になることを消化不良にしたまま寝てしまうからああいう妙な夢を見てしまうのだ。さっさとすっきりさせようと思った。
「えーと、エイチティティ、ピー、コロン、スラッシュスラッシュ…………」
パソコンを立ち上げ、ブラウザのアドレスバーに名刺に書かれたアドレスを直に打ち込む。
「あれ? おかしいな、間違えた?」
なぜか名刺とは違う会社名のホームページが現れて、首を傾げていると入り口のドアが開いた。
「はよー。今日も早いねー」
藤沢だ。待ってましたとさくらは顔に喜色を浮かべる。
「あ、おはよー。待ってたんだ」
後ろから広瀬も現れる。
「さくら、昨日はどうだった?」
尋ねられながらなぜかりんごジュースを渡され「なんで?」と首を傾げた。
「昨日イタリアンだったんでしょー?」
「うん」
「ニンニク食べた後はりんごジュースが一番良いと思う。藤沢は良いとして、さくらは気にしないと思ったから途中で買って来た。あげるよ」
つまりは臭いと言いたいのだろう。苦笑いしながらもさくらは礼を言ってストローの封を切る。
ジュースは一晩で空になった胃に瞬く間に染み込んだ。確かに僅かな清涼感。眉唾だが効くのかもしれない。
「あれからどうしたの? 島田サンとは?」
藤沢に問われ、島田の名前にようやく落ち着いたはずの心臓がどきりと跳ねる。
「特になんにもないよ」
動揺を顔に出さないようにとヘラリと笑って誤摩化すと、藤沢は残念そうに口を尖らせた。
「まぁねぇ。さくらがお持ち帰りってことは無いと思うけど、あ――ミサちゃんは水野サンを持ち帰ってた?」
立て続けに質問されて、渇いた笑いが出る。まず、逆じゃないのか。その表現は。
「ミサちゃんのことはわかんない。なんか、最後の最後で島田さんに鞍替えしてたよ。彼は逃げてたけど」
「えー? なんで。水野サンをお持ち帰りする気満々だったじゃない?」
確かに水野が食われたと言った方がしっくりくるな、そんなことを考えつつ、さくらは貰った名刺をテーブルの上に載せた。
「…………」
藤沢と広瀬はじいっと名刺に見入った後、
「ええええええ!? 副社長!?」
と同時に叫んだ。
「なんだ。藤沢は知ってるのかと思ってたのに」
「いや……彼氏も実家の仕事としか言ってなかったし……あ、もしかしたら口止めしてたのかなー?」
「でも肩書き出した方がモテるんじゃない? ミサちゃんも名刺貰って目の色変えてたし」
「それが鬱陶しかったとか。ほら、女に興味なさそうだったし」
「うん。本人もそう言ってたけど。そうだ、田中氏はなんで島田さん誘ってきたの?」
「私が頼んだんだよ。さくらチャラい男苦手でしょ? だから良さそうだなって目を付けてたんだ。ふぅん……そっか。大穴当てたねー、さくら。玉の輿とか狙ってみたら?」
さくらは肩をすくめた。
「っていってもなぁ……ほんとに副社長だとしても、会社の規模とかいろいろだし。社員十名とかのすっごい小さな会社かもしれないよね」
「まあねー、一人でも会社作れるもんねー。ま、副社長だから社長と合わせて二人はいるんじゃない?」
藤沢の言葉に夢が無いなあと横で聞いていた広瀬がのんびり笑う。
皆就職活動を経験しているからこそ分かることだ。学生課に張り出された求職情報を目を皿のようにして見て、給与や待遇だけでなく、会社の規模から歴史まで全部チェックした。世の中には色んな会社があるんだと驚いたものだ。
それでも必要以上に現実的に考えてしまって、手放しで夢が見れないのはリケジョゆえなのかもしれない。
夢を見ると、ツッコミを入れる自分が常に隣に居るのだ。今朝のあの夢が良い例だ。
(藤沢にも広瀬にも、あの夢のことは死んでも言えないなー)
さくらが密やかにそう思っていると、藤沢があっと声をあげた。
「あ、調べてみたらいいんだ。ほらアドレス書いてあるし」
さくらは首を横に振ってディスプレイを指差す。
「それがさあ、さっき調べててんだけどさ。違う会社が出て来て……これなんだけど、怪しくない?」
「株式会社島田美装。本社F県F市。資本金一億。従業員数300名。事業内容はインテリア資材設計販売――」
藤沢が画面の文字をブツブツ読み上げる。
「資本金一億って、大企業とまではいかないけど、結構大きな会社だよね。でも別物? アドレスが間違ってるのかな」
「でも島田美装でしょ? ここにもほら」
広瀬がマウスを横取りし、会社概要のリンクをクリックして、目ざとく見つける。
「島田……栄介?」
広瀬の指の先にあるのは代表取締役――社長の名前だ。スクロールして下まで見てみても、副社長の名は別の名で、非常勤の取締役に島田泰介という名があるだけ。“介”の字は気になるが、よくよく考えると島田という名だって良くある名前だ。
他のページを見ても事業内容、会社までの地図などが載っているだけで、めぼしい情報は見つからない。
名刺の住所と比べても、島田美装は西区、SHIMADAは中央区だ。……どうやら違う会社のようだ。
「偶然? それとも関連会社とか、親族なのかなあ、よく分かんないね」
「ま、あんまり期待しないで行ってみるか」
ページを閉じつつ、ぼそっと呟くと、
「行ってみる?」
藤沢は耳聡く聞きつけた。
「たまたまバイトをクビになった話したんだけど、雇ってあげるってさ」
かいつまんで言うと、「おおおお!」と二人は興奮した声をあげた。
「やったじゃん! これでなんとか卒業出来るんじゃない!?」
「うん。ありがたいので試しに面接行ってみる。田中氏押しってことなら、そんなに心配要らないだろうし……っていうか正直、選んでられない状況」
藤沢はワクワクと顔を輝かせている。さくらも当事者でなかったら同じような顔で、この非日常を楽しんだだろうと思う。
「もし本当に御曹司だったら、さくら、永久就職狙っちゃえ」
「いいねー」
気楽に囃す二人に、さくらはケラケラ笑う。話したら気が楽になった。履歴書をテーブルの上に出す。そしてお気に入りの万年筆を出して早速記入を始めた。そうと決まれば行動は早い方が良い。
「今日の帰りがけに、ちょっくら行って来る」
「今日? そんな急に?」
広瀬が驚き、
「うん。善は急げ。あ、先生には就職活動行ってきますって言って来ないと。それから……そうだ、実験早めに済ませないとな。ミドリンに餌あげて……っと、それと遠心分離器誰か使う? 使わないならすぐにかけて来る」
いそいそと準備をし出すさくらに、藤沢が慌てた。
「ちょっと待て、帰りがけってまさかその恰好で行かないよね? 即不採用だよ」
勢いを削がれてさくらは眉を寄せた。昨日のファッションショーの残骸は未だ放置してある。夜は気が昂っていて、朝は気力が無くて片付ける気にならなかったのだ。
「だめか、やっぱり。じゃあ着替えていく」
「当然。スーツにしなさい」
「暑いからやだなー。それに、また化粧……か」
渋ると、藤沢は惜しそうにする。
「似合ってるんだからいつもすれば良いのに」
隣で広瀬も頷く。
「昭和風だけど綺麗な顔してるんだから勿体ないよ」
「昭和って言うな」
気にしていることを言われてさくらは腐る。切れ長の目、薄い唇は確かに三、四十年前に生まれていれば美人と言われただろう。そのおかげで、田舎ではじいちゃんたちのアイドルなのだ。モモエちゃんに良く似ているともてはやされるが、それが誰かも知らないし、じいちゃんにモテてもあまり嬉しくない。
「工夫すればもっと可愛くなるよ。ミサちゃんにだって負けないし」
さすがにそれは言い過ぎだろうと苦笑いをした。ミサちゃんは現代風のギャルだし、とりあえず胸で――いやまず気概で負けていると思う。
「めんどくさいし、興味ないし……何となく毛穴が塞がってて息苦しい感じがするんだよ。ほら皮膚も呼吸するって言うし」
「後付けで言い訳するな。あんたのは、最初のが本音100パー。ものぐさなだけ」
「バレたか」
藤沢に速攻で見破られ、さくらは笑って誤摩化した。
「日焼け止めだけは塗ってた方が良いよ。色素沈着ってもう始まってるよ。後でシミがぶわーって浮いて来るって従姉が言ってた」
広瀬が心配そうに口を挟む。
「分かった。ありがと。塗りたくるよ」
そう言って話を一旦切り上げると、さくらはミドリンの世話を急ぐことにした。