64 いくつかの障壁
翌日。島田は携帯の電子音で目が覚めた。
僅かに開いた目から見える部屋は仄暗い。雨がまた降っているようだ。耳を澄ますと雨だれの音が微かに聞こえた。
彼は寝起きが少々悪い。酒を飲んだ翌日などは特に酷い。瞼が重しを乗せられたかのように重く、持ち上げるのに酷く力が要る。
音を消そうといつもの置き場所であるベッドサイドの上を探るが、彼の手は空を切り続ける。
「んー……? 誰だ、こんな時間に電話とか」
しつこく鳴り続けていた着信音が、なぜか突如音が止まる。留守電に切り替わったのだろうかと探るのを止めた島田の耳に、隣で上がった声が響いた。
「起こしちゃいましたか? すみません」
聞いたとたん睡魔はあっという間に逃げ去った。頭と瞼を持ち上げると、さくらが携帯を弄って音を止めているところだった。音は着信音ではなく、アラームだったらしい。
島田の腕の中から抜け出したさくらは、こちらに背を向けてこそこそと服を身に付けはじめる。それまで夢心地だったのに、白い背中を見ていると、じわりと実感が湧いてきた。
(あぁ、そうだった。昨日、やっとだったんだ)
寝惚けたまま目を細めて壁掛け時計を見ると五時。見間違いかと瞬きした。
眠りに落ちる少し前に見たときには二時ちょっと前だった。三時間ほどしか寝ていない。島田はいつも通りに七時半くらいに起きるつもりだったのだが――支度にかかる時間は男性と女性ではこうも違うのだろうか。
「まだ五時だけど」
起きるには早すぎる。そう言いながら腰に腕を回そうとするが、不埒な手には彼の本音が滲み出ていたのだろうか。さらりと躱された。
「だめですよ、遅刻してしまいます」
ぴしゃりと言うと、さくらは島田をベッドに残したまま「朝ご飯作っておきますね」とキッチンへと向かった。
だが、冷蔵庫が開く音がした後、しばらく戸惑ったような沈黙が流れた。
「…………島田さん、あの、食べ物が何も入ってないんですけど。これ、何のために電源入れてるんですか、なんか色々勿体ない」
やがてキッチンで遠慮がちな声が上がる。さくらが物の入っていない冷蔵庫と深刻な顔でにらめっこをしている姿が目に見えた。きっと彼女の母親と同じような顔をしているに違いない。自炊をずっと続けてきた彼女からすると、調味料さえまともに無い島田家のキッチン事情はあり得ないのだろう。
「とりあえず、お米はどこですか?」
ひょいと寝室に顔を覗かせたさくらが、あるのが当たり前のように聞いてくる。
「えーと、ごめん。切らしてる」
「……じゃあ、コンビニでパンでも、買ってきま――あ――、そうだった……あのレジ係まだ居そう」
昨夜のお遣いにはやはり相当な苦労があったのだろう。さくらが顔をしかめるので、
「買わなくてもいいよ。確か、炊飯器の中、お母さんが炊いてくれたお粥がある。昨日食べなかったやつ。あと、姉ちゃんの夜食も」
思い出して告げると、
「それだけで足りますか?」
と心配そうな声。島田が十分だと言うと、さくらはほっとした様子で姉の作ったスープをガスで、さくらの母の作った粥を電子レンジで温めはじめた。
その後、皿も無いと困惑気味のさくらはキッチンを漁った。そして流しの下で埃をかぶっていたご飯茶碗、汁碗、スープカップ、マグカップの四つの器を洗うと、食べ物を半分ずつ分けた。食卓は無いので、リビングのローテーブルで間に合わせる。
箸は一膳分。スプーンが一つ。さくらが全く統一感の無い朝食に嘆いた。
「うちも物が無い方だと思ってましたけど、島田さんは上を行ってました。ここ、人が住んでると思えないです。すごく立派なお家なのに勿体ない」
「男の一人暮らしなんてこんなもんだよ。殆どオフィスにいるし、寝る場所があれば十分」
実家を出てから朝食を抜いたり、適当な物ですませたりすることが多かった島田は、朝から温かい物を食べるのは本当に久しぶりだった。
湯気の上がる家庭料理――ただし、姉とさくら母の手作りだが、この際忘れておく――を口にしていると、からっぽの胃が言い様も無い幸福感で満たされていく。
さくらも美味しそうにスープを飲んでいる。その表情が好物を食べている姪っ子と同じで、思わず島田は口元を綻ばせる。
まだ化粧をしていないためか、それか寝不足で瞼が少し腫れぼったいせいか、さくらはいつもより幼く見えた。口紅がのっていない唇は淡い桃色。目元に少し隈があるものの肌は白く滑らかだった。化粧をした顔も好きだが、素顔の方が好みかもしれない。
じっと観察しているとさくらは「すっぴんなんで、あんまり見ないで下さい」と俯く。ふわふわの髪の間から見える耳が真っ赤で、急激に二度寝がしたくなった。
時計を見るとまだ六時だ。通勤時間は五分ほど。差し引いても十分に時間はあると計算する彼の目の前でさくらが言った。
「じゃあ、そろそろ私、行きますね」
「え、もう?」
「一度家に帰るんですよ」
「わざわざ帰るの? ここから直接出社すれば、八時半に出ても余裕で間に合うけど? さくらのマンション、会社挟んで反対側だし、遠いだろ」
帰宅を阻止しようとするが、生真面目なさくらは頷かない。
「でも、私、慌ていてたので着替えとか持ってきてないんです。昨日と同じ服を着て出社するわけにいかないし。化粧もしないと。あ、島田さんはまだ熱がありますから、今日はお仕事休んだ方がいいですよ。河野さんには私から連絡しておきますけど、確か特にお約束とか、急ぎの案件って無いですよね?」
「……あ、うん」
突如仕事のスイッチが入ったのか、さくらは恋人の顔から部下の顔になった。切り替えの早さに戸惑いつつ島田が頷くと、彼女はバッグと姉の鍋を持って玄関に向かう。あまりにあっさりした態度に、狐につままれたような気分になって、島田は慌てて彼女を追った。
靴を履いて振り向いたさくらを抱き寄せると、唇を塞ぐ。それだけでは足りなくて服の中に手を忍び込ませると、さくらが真っ赤な顔で島田の手を掴んで、行く手を阻む。
「ちょっとだけ。だめ?」
恨めしく思いながら見下したが、さくらは折れない。島田が苦労して作り上げる甘い雰囲気にも全く流されてくれない。
「……だめです! 島田さんの“ちょっと”は信用ならないですし! 第一触った後で言うことじゃないです! 後でまた来ますから、大人しく寝てて下さい!」
自覚はあるものの、酷い言われ様に苦笑いが浮かぶ。彼女を説得するにはやはり理屈が必要なことに気づく。渋々解放すると、さくらはドアノブに手をかけて微笑んだ。
「今日は三人で何とかしますから、ゆっくり休んで早く治して下さいね。島田さんがいないと会社回らないんですから」
「わかった。――いってらっしゃい」
至近距離で見つめ、もう一度唇に触れる。
「……い、いってきマス」
さくらのしどろもどろの言葉は、殺風景な部屋の空気に溶ける。ドアが閉まった後にも彼女の熱が残っているようだった。
いってらっしゃいなどと言うのは何年ぶりだろうか。高校に上がる頃には誰よりも早く家を出ていたから言わなくなっていた。妙に懐かしく、心が温まるのがわかる。
ささやかなやり取りだけど、ずっと距離が近づいた気がした。
こんな日が毎日続けばいい。思ったとたん、手に入れる方法が目の前に降ってくる。
「あー、やばい。なんか、さっさと結婚したくなってきた」
さくらの消えたからっぽの玄関に向かってひとりごちたあと、島田の口元の笑みは消えた。乗り越えるべきいくつかの障壁を思い出したのだ。