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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
四.芒種のころ
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61 一石三鳥の提案

 午後七時半。カツカツとハイヒールの高い音が表で響いたかと思うと玄関のドアが開き、河野が姿を見せた。

「ただいまぁ!」

 靴を脱ぎつつスーパーの買い物袋がどさどさと玄関に並べられる。タタタっと小さな足音が鳴り、母親の帰宅を待ちわびた少女が玄関に駆けつける。

「ママ! おかえりなさい!」

「いい子にしてた? 我が儘言ってさくらちゃんを困らせてない?」

「えー? いい子にしてたよぅ?」

 もじもじと振り返った少女が「そうだよねぇ?」とさくらを見上げた。どんぐり眼が多少不安に曇っている。

「奈々ちゃん、すごくいい子にしてましたよ。ええと……今日は本当にご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」

 ガスの火をつけ、手際よく夕食の準備に取りかかる河野に向かって、さくらはぺこりと頭を下げる。

「いいのよ――っていうか、こっちこそごめんねぇ。奈々の風邪がうつっちゃった上に、面倒みてもらって。子供が風邪引くとどこにも預けられないし、大変なのよ。今日は会社休めなかったからすごく助かったわぁ!」

 さくらはそれは良かったとはにかむ。いつもお世話になりっぱなしなのだ。ついでだとは言え、少しでも役に立てたのは純粋に嬉しい。

 河野は慌ただしく洗濯物を取り込んだり、風呂の掃除をしたりしている。さくらはやっておくと申し出たが、お客さんはゆっくりしておいてと頑固に断られたのだ。

「えっと、河野さん」

 忙しそうに動き回る河野にさくらは声をかける。

「なあに?」

「熱も下がりましたし、今日にでもおいとましようと思ってるんですが」

「うーん、もうちょっと居た方がいいと思うんだけどねえ。今週いっぱい旦那も居ないし、ゆっくりして行っていいのよ? こっちもいろいろ楽しいし」

 提案されるが、さくらは首を横に振った。

「いえ。さすがにこれ以上はご迷惑おかけしたくないんで」

「迷惑じゃないわよー。奈々の相手してもらえてホント助かっちゃった。私が仕事仕事で日頃遊んであげられないから、鬱憤溜まってたみたいだし――あ! お鍋噴いてる! とにかく、夜ご飯くらい食べて行ってね、もう作っちゃったし!」

 そう言うと、鍋の吹きこぼれる音に河野は呼び出されていった。


 さくらはほっと息をつくと、現在のこの状況を作り出した、週はじめの出来事に思いを馳せた。

 その日、さくらは河野と夕食を食べに行った。個人的に話を聞きたいと言われて、すぐに島田との事だろうと思った。だが、さくらたちの破局については特に触れられず、「もし一緒に仕事するのが辛いなら、別の仕事を紹介してあげられるわよ?」と言われたのだ。

 少し悩んだが、さくらは振られて泣き続けたあの日にはもう決めていた。

(“指輪”が見つかったら、今度は私から告白し直そう。そしてもし、もしも許してもらえたら、今度こそ迷わずに島田さんの手を取ろう)

 そして指輪は見つからなかったが、探し出す事を諦めてもいない。今身に纏っている問題を解決すれば、きっと見つかるとさくらは信じていた。いや、そう思う事でなんとか心が折れないようにしていたのだ。

「私、まだ島田さんを諦めてはいないんです。だから辞めるわけにはいきません」

 河野はそれを聞くと、嬉しそうに笑って、「そういう事なら一石二鳥――いや三鳥くらいかもね――の案があるのよねぇ」とさくらに一つの案を授けてくれた。

 それを受けての『プチ家出』をさくらは決行中なのだった。

 彼女が言うには、“反抗”はきちんと相手に分かる形でするべきだそうだ。そして若者の反抗と言えば“家出”が一番。昔、河野も親に反抗して家を飛び出したことがあるという。

「家出先は、ちょうど娘が遊び相手欲しがってるから、うちにおいでね? 旦那が出張中なのよー」

 まごついているうちに押し切られた。しかも、ちょうど連日のように実家から母が来ている話をすると、マンションに帰らずに河野の家に直行することになった。そのまますでに四日滞在している。“食”“住”だけでなく、“衣”までも世話になった(要らない服をもらったり、上質な化粧品を貸してもらったりしたのだ)あげく、風邪ももらってしまっていた。微熱程度で大した事はなかったのだが、一緒に風邪を引いた奈々が家で一人になるから、出来れば欠勤ついでに見ててくれないかと河野に懇願されたのだった。

 新入社員であるさくらの仕事の重要度と社長河野の仕事の重要度を考えて、さくらは承諾した。最近の大きな仕事であったカタログの入稿も終わったし、あとは上原が居れば十分なのだ。

(それにしても一石三鳥の案って――二羽は、お母さんの事と奈々ちゃんの事で、まぁ分かるんだけど……あと一羽って何だろ)

 ぼんやりしていると、

「さくらちゃん、ご飯できるまでゲームしよー!」

 すっかり熱も下がり元気を取り戻した奈々に、にゅっとテレビゲームのコントローラーを差し出され、さくらは我に返った。

 対戦相手がいるとやはり盛り上がるのだろう。ここ数日、奈々に夜遅くまで何度も付き合わされてゲームの腕が無駄に上がってしまった。

「いいよ。でも、もう帰らないといけないからあと一ゲームにしておこうね?」

 苦笑いをしながらさくらが答えると、奈々は「ええー? 帰っちゃうの?」と不満を漏らす。

「また遊んでくれるん? 今度のお休みは遊べるー?」

 すっかり懐かれたらしい。懇願されてさくらは首をひねった。フリーになったので休日はもう暇である。だが、今は非常時だからこうしてお世話になっているが、上司の家にそう何度も遊びに来るわけにはいかないだろうし、――何より、河野は島田の姉である。

「うーん、家も遠いし、時間があったらね?」

 無難に返事をすると、遠回しな拒絶を感じ取ったのか奈々は丸くて柔らかそうな頬を膨らます。

「あーあ。さくらちゃんがけいすけにいちゃんのお嫁さんになってくれればいいのにー。そしたらおうち近いからいつでも遊べるのになぁ」

 無邪気にませたことを言われて、さくらは不意を討たれた。自分で切り離した未来がぶわっと思い出されて、ぐっと胸が詰まる。

「……そ、そうなれば、いいね」

 やっとの思いでそう言うと、さくらは潤んだ目をごまかそうと硬い笑みを浮かべた。

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