6 きっと酒のせい
ミサちゃんが五杯目のカクテルを飲んでいる。隣でニコニコしている水野は潰しにかかっているのだろうか。もしかしたら、お持ち帰りを狙っているのかもしれない。しかし態度をやや積極的に変えつつも、顔色は変えないミサちゃんはきっとザルだろう。強者ぶりに感心しながら、さくらはデザートのアイスを胃に収めていた。
席に戻ると、島田が言っていた通り席替えが行われていて、いつの間にか田中が座っていた水野の隣にミサちゃんが移動していた。水野と島田に挟まれる位置になる。男女逆ならば両手に花とでも言うのだろうが、この場合はなんと言うのか思いつかない。とにかく――それで島田が逃げたというわけだ。
さくらが元の席に戻ろうとしたところで、後ろからやって来た島田が「席替えしようか」と提案した。了承したさくらが元の島田の位置――現時点でミサちゃんの隣に収まっている。
ミサちゃんのお尻がいつの間にかさくらの席の半分を占領している。最初はちょっと窮屈かなと思うくらいだったのだが、もう気のせいとは思えない。おそらくは無言の攻撃だったのだろうが、おとなしくやられるさくらではない。
(喧嘩を売るんなら、もっと分かりやすくして欲しいんだけどなー……反撃し難いんだよなー)
結局さくらは無視が一番だと結論付け、まったく気にしないふりをして、笑顔で目の前の食べ物を楽しんだ。
テーブル下の熾烈な攻防戦(尻相撲とも言う)の中、デザートまで無事に食べ終わり、戦は終わる。
城は明け渡さずに済んだ。勝利だ。不満そうなミサちゃんの視線は少々痛いが、さくらは達成感を感じていた。
コーヒーまで飲み干すと、満足感と共に眠気がやって来る。店員が「お下げしてよろしいでしょうか」とテーブルの上を片付け出して、じゃあそろそろ、と田中が解散を告げる。
外の空気は生暖かかった。冷房の効いた店内で強ばっていた肌がとたんに緩んで行くのが分かる。最後にアイスを二人分(自分の分と甘いのが苦手と言った島田の分)食べて結構体が冷えていたため、心地よくも感じた。
地下鉄組と徒歩組は、店の前で分かれることとなった。
徒歩組は藤沢と彼女を送って行く田中。藤沢は意味ありげに「頑張って」と言ったが、さくらは軽く流す。今日の目的はもうしっかりと果たしたのだ。
地下鉄組は店から駅に向かう途中、さくらと島田、ミサちゃんと水野の二列に分かれて歩いた。
前を歩くミサちゃんと水野が互いの携帯を取り出している。赤外線の赤いランプが光る。アドレス交換をしているのだとすぐに分かった。
それを見ても島田は携帯を取り出したりしなくて、さくらは無事に眼中から外れたことにほっとしつつも少し寂しく思う。久々に教授以外の異性と話したが、島田は話しやすい男性だった。ミドリムシの話に付き合ってくれる人など今までに居なかったし、つまりは、楽しかったのだと思う。
しかし、地下鉄の駅にたどり着いたところで、隣を歩いていた島田が立ち止まり、おもむろに胸のポケットから名刺入れを取り出した。
使い込まれたブランド物の高そうな名刺入れに目が止まる。スーツが普通なので違和感があった。これ、ひょっとしてスーツより高いんじゃないか? と思って見つめていると、彼はその中から一枚を選んでさくらに差し出した。
「俺のスマホ、赤外線ついてないから」
「……………えーと、これは社交辞令ってヤツですか?」
そう言ったさくらは、渡された名刺の肩書きに目を落として口をぽかんと開けた。彼はいたずらっ子みたいに、にっと笑うとさくらに耳打ちした。
「――――て」
「え――――?」
耳元で囁かれた低く甘い声と、その内容に固まっていると、やり取りを嗅ぎ付けたミサちゃんが文句を言う。
「ずるーい、私にも下さい!」
苦笑いをして彼は再び名刺を取り出した。受け取ったミサちゃんもさくらと同じく衝撃を受けたらしく目を丸くしている。
「じゃー、またね」
島田はそのまま逃げるように地下鉄の駅に下りて行く。
「し、島田サン! 待って下さい! ――次のお店、行きませんかぁ!?」
ミサちゃんが慌てたように追って行くが、深酒と不安定なミュールのせいでよろよろしている。
「ええ!? ――ミサちゃん、俺は!?」
哀れな水野が、金魚の糞みたいにミサちゃんについて行く。
置いて行かれたさくらは、地下に流れ込む風の中で呆然と突っ立っていた。
手の中の名刺には上部に『株式会社SHIMADA』とあり、中央に先ほど聞いた名前が書いてある。灰色の紙に黒と赤の文字の凝ったシックなデザイン。だがそんなお洒落な名刺に書かれた会社名は発音するととても地味だ。なんというか……彼本人のつかみ所の無さとよく似ている気がした。
そんなことを考えつつも、目に飛び込むのは“副社長”の文字。
「ふくしゃちょーって、……きっとお偉いさんだよね」
ぽつりと呟く。冗談で言っていたが、そういうことならば接待という響きはぴったりだ。
「さぁて……どうするかな。とりあえずは明日藤沢に相談か」
名刺の裏を見ると手書きの携帯番号とメールアドレス。その下にホームページのアドレスが印字されている。興味を惹かれて携帯で見ようかと一瞬思ったが、通信料を気にして結局止める。明日学校で見れば良いだろう。
なぜだろう。足元がふわふわする気がして、さくらは階段をゆっくりと下りる。
『もしさくらちゃんさえよければ――雇ってあげるよ? 都合のいい時に履歴書もって事務所に来て』
印象的な笑顔が瞼の裏に散らつく。共に耳に繰り返される声は妙に甘ったるく響き、さくらの胸の音を速めた。
(仕事の依頼だって。――きっと同情してくれたんだってば)
いくら自分に言い聞かせても、妙な期待をしてしまうのは――結局一杯だけしか飲まなかったが――きっと酒のせいだと誤摩化した。