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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
二.秋分のころ
31/91

31 KY男と鈍感女

 足音が妙に大きく響いた。

 幼いはずの島田の顔が幼く見えなかった。それは彼の目にいつにない妙な迫力があったからだ。

(怒ってる?)

 眼鏡を掛けていない島田がこんな厳しい顔をするのは珍しい。さくらは戸惑った。

「島田サーン、とりあえず十案出来ましたー」

 何となく張りつめた空気。その中に上原の声が間抜けに響く。だが緊張感は緩まない。

「明日見るから、俺のデスクに置いておけ」

「ういーっす」

 空気を読んでるのか読んでいないのか、上原は刺々しい島田の雰囲気にもいつも通りに対応している。さすがに、仕事で慣れているのかもしれない。

「あ、島田さん。片桐にメシおごりたいんで、もう切り上げさせても良いっすか?」

 上原の中ではさくらの意思など関係なくもう決定事項だったようだ。

「まだ行くとは言ってないっす」

「なんで?」

 問われて口ごもる。なんとなく気が進まないだけで、断る理由が思いつかない。

 上司の誘いと先輩社員の誘いでどう違う。理詰めで考えれば考えるほど、島田の誘いは受けて、上原の誘いを受けないのはおかしいかもしれないと思えた。

 そこで島田にちらりと鋭い視線を向けられて、さくらは思わず直立不動となる。

「片桐さん、今日の仕事は?」

「……えーと、一応終わってます」

「なんでおごるとかいう話になったわけ?」

 今度は島田は上原を見る。相変わらず視線は冷たい。

それ・・手伝ってもらったんすよ」

 上原が目線でデスクの上の原稿を差すと、

「つまり、おごる理由も、おごられる理由もある、か」

 目線は上原に向けたまま、島田は呟く。その言葉に何かちくりとした刺を感じる。

 と、島田は低い声で投げ捨てるように言葉を落とした。

「じゃあ、行ってくればいい」

「え?」

 その言葉に、さくらは一瞬呆然とする。

「じゃ、行くか」

 ひょうひょうとした上原に促され、我に返り、よろよろと上着を手にする。そして、なんとか口を開くが、もっと別に何か言うべきことがあるような気がするのに、普通の挨拶だけが溢れた。

「あ、えっと、……じゃあ、お先に失礼します」



 なぜだか、駄目だと言われる気がしていた。予想が裏切られて、ずしんと胸が重みを増した。その原因が落胆だと気が付くと、そんな自分に酷く驚いた。

(駄目って言うわけないじゃん。だってそんな理由ないし。――どこにもないし)

 心の中を必死に覗き込みながらビルの階段を下り切る。だが表に出たとたん、上原が唐突に立ち止まり道を塞いだ。

 そして彼の口から発せられた質問に、さくらは思考を中断させられた。

「なあ。お前と島田さんて付き合ってるわけ?」

「は?」

 一瞬目を見開いて固まった後、さくらは即座に否定した。

「いやいやいや、付き合ってなんかないです」

「だよなあ。そんな風に全く見えねえもん。じゃあ何で島田さん怒ってたんだ? 俺、あんな目で見られる覚えねえんだけどな。――いや、あると言えばあるけど、あれからもう三ヶ月経ってんだしなあ、進展なさそうだから気が変わったのかと思ってたんだが」

 もぞもぞと呟きつつ考え込む上原にさくらは驚いた。

(なんだ。怒ってるって分かってたのか)

 分かっていて、刺激しないように振る舞っていたのかもしれない。だとすると、見た目よりずいぶん器用だ。

「んー、なんかめんどくさそうだけど、……ま、いっか。付き合ってないなら、俺悪くねぇし。でも、今日のところはメシは止めとくか」

「あれ、おごってくれるんじゃなかったんですか」

 上原はさくらに腕時計を見せる。SEIKO製で随分年期が入っていた。表示は20時40分になっている。

「思ったより時間食っちまったし、仕切り直した方がいいだろ? 20分じゃ、おごるってもラーメンしかおごれねえ。でもラーメンじゃ、お前が赤字になる」

「ギリギリ赤字にならないっす。給料、30分450円なんで」

 だから島田にはそのラインでしかおごってもらわないのだ。

「それじゃあ礼にならねえって言ってんだよ。お前に借り作りたくねえ。つうわけで、土日どっか空けとけ。たらふく食わせてやる」

 借りを作りたくないというのが妙に上原らしかった。

(じゃあ、本気でたらふく食べてやろうかな)

 さくらはにたりと笑うと、

「じゃあ、そのうちお願いします。できれば寿司がいいっす」

 と言ってみる。

 上原はぎょっと目を見開いたが「回る寿司でいいなら」と提案した。さくらは頷く。味の違いなど分からないのだ。まったくもって問題ない。

(上原の『たらふく』ならば、前日から絶食するくらいでいいかもしれない。上手くいけば三食分浮くよ!)

 想像しているとお腹が鳴りそうだった。

「そういや、俺、お前のメアドしらねえ。教えろ」

 ふいに上原はケータイを取り出す。スマフォではなく、ガラケーだ。さくらは少しほっとしつつ、赤外線通信を始める。さくらの携帯のアドレスは異常に長い。だから口頭でもメモでもやり取りがし辛いのだ。この交換方法はお手軽だし、その分気楽だった。

 通信が終わる頃、アドレス交換で思い出したことがあり、さくらは忘れないうちにとポケットをまさぐった。

「そういえば、上原さんに預かりものしてました」

 例のミサちゃんの名刺だ。

「バイト先の人紹介してくれって。合コンしたいそうです。女子大の子ですよ」

 ぐふふと笑いながら言うと、上原は破顔した。

「おぉお、女子大! サンキュー!」

(相手はミサちゃんマショウのオンナだけどね!)

 僅かな罪悪感は感じたが、まあ、合コンならば他のいい子に当たることもあるかもしれない。

 上原はクマな顔に思い切り喜色を浮かべていたが、ふとさくらを見つめたあと、気味悪そうな顔をした。

「まさかさぁ、お前みたいな女子力ゼロのがぞろぞろ来たりしねえよな?」

(なんつう、失礼な)

 一気に心証を悪くしたさくらは、握りしめる名刺に

(ミサちゃんに女の怖さを教えて貰え!)

 と呪いを込める。

「来ないっすよ。英文科なので、ギャルばっかりです」

 表面上にっこり笑うと、さくらは色々な思惑の籠った名刺を上原に手渡した。

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