3 無銭飲食の代償
実験を早めに切り上げたさくらは研究室の主、桑原教授に随分驚かれた。
教授は五十代後半の中肉中背の男性で、穏やかな人格の持ち主だ。研究の実績こそそれほど無いが、その分熱心な指導をしてくれるため、学生に慕われている。もちろんさくらもこの教授が好きだった。気安く何でも話せて、こんな父親が居ればなあと二人の娘さんを羨ましく思う。男の色気が全くないのが、女学生の安心を誘うのだとさくらは解析している。
バイトの失業と就職が無しになったことを簡単に告げると、まだ時間があると励まされ、学生課で相談するようにとアドバイスをくれ、憂さ晴らしの早退も快諾してくれた。
理由を尋ねられて『合コンです』と言うともっと驚かれ、さくらが
『花より団子、みどりんより夕食なのです』
と答えると、妙な顔をして黙り込んだ。
大学はF市東部の郊外にある。大学辺りを東の出発点とした地下鉄で西南北の郊外に繋がっている。さくらの住むのは南側の学生街だ。近くに国立大学や規模の大きな私立大学が集まっていて、街自体が学生向けの造りとなっている。学生向けの安アパートも女子大周辺に比べて多いのだ。
明るいうちに家に辿り着いたさくらは、散乱した服の上で仁王立ちになっていた。
「こんなもんか」
さくらは鏡の中の自分をじっと見つめる。
まず入学した頃に買った服を並べて縒れていない物を選び出す。その後写真に撮って藤沢と広瀬にメールする。それぞれから帰って来た返事を参考に選んでみた。
麻で出来た半袖の空色のアンサンブルに、膝丈の紺のフレアスカート。ミュールなどというお洒落な物は持っていないので、入学式の時に履いた黒のパンプスを合わせる。ストッキングは無かったがソックスはさすがにおかしかった。さくらは165センチで割と背が高い。顔立ちも地味で歳より上に見られることがただでさえ多いのだ。若作りをしているようにも見え、げんなりした。
「靴下、広瀬なら似合うんだろうけど」呟きながら諦める。出費は痛いがどこかで買うことにしよう。
姿見で最終確認をする。
流行に囚われないデザインを買っていたのがよかったのか、今身に付けてもそれほど遅れている感じはしない。分かる人間にはすぐに分かるのだろうが、さくらには判断がつかなかった。
何より、今日は食事が目的だ。普段通りに縒れて目立つと食事どころではないだろうし、下手したら藤沢につまみ出されてしまう。そうならない程度に“普通”に見えれば何でもよい。しかし、
「――あ、忘れてた」
さくらはふと自分の顔に目をやって慌てる。
メイクをしていない顔だけ浮いている。最後にまともに化粧をしたのはいつだったか思い出せない。ぼさぼさの眉を見てやれやれとため息をついた。
しっかりした眉のおかげで普段は描く必要は無い。だが、この恰好ではあまりに不釣り合いだ。
「はさみ、はさみ……っと」
化粧道具を出すと奥底に落ちていた化粧用のはさみを取り出して眉を整えた。
それから約一時間後のこと。
噴水の音が涼しく聞こえる夕暮れだ。だが実際は昼間の熱がまだそこら中に残っている。スカートをぱたぱたと揺らして風を送り込みたい衝動をさくらは堪える。ここは女子大ではない。
待ち合わせ場所の公園のベンチにさくらと藤沢は並んで座っていた。残りの一人が揃うのを待っているのだ。
「フジサワサン、話がちがわないか?」
目の前に並んだ三人の男から目を逸らしながらさくらは藤沢に訴えた。
「何が?」
「なんで三対三とか少ないわけ。もっと大人数の想像してた。一年の時とだいぶ違うと思うけど」
「分かってないなー。今の主流は少人数の合コンよ。ほら婚活とかお見合いパーティーとか流行ってるし、多くの人との出会いを求める大人はそっちに流れるんだよ。合コンに来る層は、少人数で親睦を深めるのを目的としてるわけ。広く浅くじゃなくて、狭く深くってわけよ」
力説する藤沢にさくらは不安になる。
「餌に釣られただけで、親睦深めるつもりは毛頭ないんだけど」
「甘いなー」
藤沢はにやりと笑う。
「『合コン』で飲食の対価っていったら、可愛い笑顔とトークじゃん。自腹切るんなら必要ないけどさー。今回はおごりな訳だから、しっかり働くべきなのだよ、キミ」
笑顔とトーク。人見知りをするさくらが苦手とする最たるものだ。慣れて来ると地が出せるが、分かってもらえるまでは本音の一つも言えない。万が一アドレスでも聞かれたら、断りも言えない気がした。
「そういうことでしたら、お暇させていただきますー」
回れ右をしようとしたら、首根っこを掴まれた。
「大丈夫。変なのは連れて来てないから、楽しんで帰ったらいいよ。っていうか、せっかくの機会だからモノにして欲しいんだけど」
藤沢がさくらにそんなことを言うのは珍しい。にわかに興味が湧いた。
「どれ?」
目につくのは背の高い男だ。顔立ちは整っているが、それを本人も自覚している様子。スーツはおそらくブランドものだろうか。袖から覗く高そうな時計と、茶色い髪がチャラい印象に拍車をかけている。はっきりと好みでない。
「ちがうよ。私が言ってるのは――あっち」
藤沢が左端の男をちらりと見た。釣られて視線を動かして――さくらの心臓が僅かに撥ねた。
一見地味だ。だが良く見ると甘い顔立ちをした男だった。少しだけ幼さを感じるのは、涙袋のせいだろうか。スーツを着ていても、おそらく学生で通用すると思う。
背はどうやらさくらより高い。しかし三人の男の中では一番低いかもしれない。藤沢の彼氏が二番目に高く、彼が175だと聞いたことがあるから、170センチ強だろうか。
男は上着を脱いでいて、半袖のワイシャツは何の偶然かさくらのアンサンブルと同色の空色だ。良く見るとズボンも紺色。ペアルックかよ――自分で突っ込んで気まずくなる。
「前に会ったことがあったんだけどさ、さくらにどうかなーって思ってた」
「は? 興味ないよ、私。忙しくてそんな暇ないし。彼氏作る暇あったら勉強するし」
きょとんとすると、藤沢が神妙な顔を作る。
「確かにさくらが言う通り、学生の本分は学業だろうけどさ、今しか出来ない事だってたくさんある。この四年間って、勉強するだけのためにある時間じゃないよ。自分が何をしたいのか、見つける最後のチャンス。中学は高校入試のため、高校までは大学入試のために皆と同じ物を詰め込まれて来たじゃん? 社会に出たらまた会社の型にはめられる。だから選択肢がある今は何にでも手を伸ばすべき――って、彼氏の受け売りなんだけどね」
少し照れたように笑う藤沢。さくらは右端の男――藤沢の彼氏を見た。藤沢が一年のときに大学四年だった田中という名の男は、既に社会に出て三年目だ。眉がしっかりした人の良さそうな顔。目が細く一般的なイケメンからは外れている。だがとてもとても堅実で真面目そうなのだ。
最初こそ驚いたものの、藤沢の人となりを知るにつれ、お似合いだなあと思えるようになった。纏っている空気が似ているのだ。
藤沢の言葉から、彼女がとてもいい恋をしているのが分かって、さくらは突然羨ましくなる。
「なんかね、さくらと雰囲気が似てるんだー」
「あの人?」
気まずさを抑えてペアルックの男に視線を移す。
「K大学経済学部出身で、今は実家の仕事を継いでるって」
「K大? 彼氏の職場の人じゃないんだ」
この辺で一番偏差値の高い国立大だ。ちなみに、さくらが第一志望にしていて、前期試験で落ちたところ。
K大学の農学部で砂漠の緑地化について研究することが高校時代の夢だった。幼い頃から思い描いていた夢を諦めた時に、次にしたいことというのがそれだったのだ。
夢破れ、第二志望の大学に収まり、せめて『第二志望の夢』をなんとか叶えたくて、生物系の研究室で末端の研究を担っている。『第一志望の夢』――子供の頃からの夢を叶えて職に就いている人間なんて、実のところそんなにいないのではないか。さくらはそう思う。
最後のメンバー――さくらは見知っていたが名を知らなかった。英文学科のミサちゃんだと紹介された――がやって来て、合コンの会場になっているイタリア料理の店に入った。
オレンジ色の壁には野菜や料理などの鮮やかな絵が直に描かれている。明るい雰囲気の店だ。
ニンニクの香りが漂い、さくらの腹が鳴りそうになる。幸い店は騒がしく、音がなっても周囲には響かない。
細い通路を予約していた席まで歩く途中、傍に寄って来た藤沢がげんなりとした顔で囁く。
「ホントは別の子呼ぶ予定だったんだけどさ、都合つかなくって。合コンの匂いを嗅ぎ付けてうちの学科まで来たんだよ。学部違うのにさ。とにかく……盛り過ぎでしょ、あれ」
藤沢がひそひそと言うのはミサちゃんの胸のことだろう。さくらはミサちゃんの登場と同時に、全員の視線が彼女の胸に釘付けになったのをしっかり覚えている。
(……気合い入れ過ぎでないかい?)
今日も暑い日だ。しかしそれにしても露出が多過ぎる。ノースリーブで膝上までのピンクのワンピース。襟刳はV字型に大きく開かれていて、強調された胸の谷間にはキラキラのパウダーまで叩かれていた。
胸は藤沢が言うように確実にブラで矯正されている。以前学内で見かけた時にはあんなではなかった。同性のチェックは意外に厳しいのだ。
「えー? 皆さんK大出身なんですかぁ? すっごおい」
知って来ただろうに、黄色い声で媚を売るミサちゃんだ。ここまで露骨だと却って清々しい。――というか、むしろ助かったという気分だった。これで食べることに集中が出来る。
田中が「同じ学科だったんだ」と気軽に答えている。しかし藤沢の鋭い視線に気が付くと、慌てて顔を引き締めた。
『後で覚えていなさいよ』
藤沢の口が無音で動くのを見て、ぞっとしたさくらは目を逸らして、ふと前を歩いていた別の目とかち合った。例のペアルックの男がこちらを振り返っている。
彼はミサちゃんの胸にも興味を見せず、携帯の画面を覗き込んでいたようだった。さくらと目が合うとにこり、と笑う。作った笑顔ではなく、子供みたいな笑顔だった。驚いて、そしてひどく動揺した。
ちょうどそのとき、区切られたエリアに辿り着き、店員がテーブルの上の“予約席”の札を取り外した。
深い赤のソファが二列に並んでいて、その間に長いテーブルが置かれている。天井は低く、隠れ家的。オレンジ色の照明が落ち着いた雰囲気を出している。
「じゃあ、各々好きなところに座ってー」
幹事の田中が会の開始を促すのが助けにも思えた。ほっとしながら席を物色する。
奥は席を外しにくいな……と思いながら見ていると、男性陣が先に並んで腰掛け始めた。
一番背が高い男(田中でもなく、ペアルック男でもない男)が奥に座り、どうやら彼に狙いを定めたミサちゃんも続いて奥に座った。藤沢が続いて座る。通路側を確保出来てほっと顔を上げたさくらは、前に座った男と目が合った。
藤沢の前には田中がいて、ミサちゃんたち二人との壁になっている。どうやらそういう風に打ち合わせていたのだろう。
(まつげが長い……な)
近くで見ると、その目に妙な色気があった。原因は睫毛だろう。瞬きが妙に色っぽく、直視出来ないようなものを感じた。目を伏せた時の涙袋の形がまた艶やかだ。
髪は全く染めていない黒。眉にかかるくらいの長さで整えられている。襟足も短いが、癖があるのか、所々寝癖のように撥ねている。
「島田啓介です」
彼はやはり子供のような笑顔を浮かべると、予想していたよりも低い声でそう名乗った。
「え、ええと……片桐さくらです」
「春生まれ?」
単なる話題作りなのだろうが、さくらはギクリとする。小さな声で否定する。
「いいえ、ええと十二月生まれで」
「さくらなのに冬生まれなの?」
(聞いてくれるな)
心の中で涙を飲みながら、由来を話そうかどうか悩んだ。いつもなら笑い話に出来るのに、なんだかこの人の前では言いたくない。というか合コンで披露するようなネタではない。学内の飲み会ではないのだ。道化になるのはなんだか間違っている気がする。
「ええと、さくらのように強く美しくという由来らしいデスケド……」
それも十分恥ずかしい由来。だがそれ以上に真の由来は恥ずかしい。真相を知っている藤沢が隣で何か言いたげな目をしている。どうも意識していると気付かれている。顔が赤くなるのがわかった。
(フジサワ、言うなよ!? ここで言うなよ!?)
さくらの名は彼女のじいちゃんが付けた名だ。彼はかの有名な日本映画『男はつらいよ』の大ファンだった。そして主人公フーテンの寅さんの妹『さくら』に恋をしたあげく、孫娘にその名を付けたのだ。家族の大反対を押し切って。
物心つく頃に知って傷ついたが、ばあちゃんの言葉「さくらのように美しく〜」の由来を被せてなんとか克服した。そして育つにつれて笑いを取ることでコンプレックスを払拭することを覚えたのだ。
だが……この色気のある男の前では何となく言い辛い。それに変に印象づけるのも嫌だった。
なんといっても、今夜一夜限りの会合なのだから。