23 みどりんの種菌
卒業研究に就職活動、そしてバイトと奮闘するうちに、季節はいつしか秋を通り過ぎようとしていた。
就職活動は遅々として進まず、不採用の通知だけが積み重なっていた。
さすがに友人たちはさくらの将来を案じて、忙しい中、学生課から見つけて来た求人情報を教えてくれる。募集もがくんと減り、えり好みも出来なくなって来た。それほど高望みせずに手当り次第に受けているのだが、内定をもらえない。厳しいことは知っているが、落ちる度に自信喪失する。
連続する自己否定とじりじりとした焦燥感はさくらをヤサグレさせる。
いつもは慰めてくれる友人二人は今日は不在だ。藤沢は図書館で論文に集中し、広瀬は内定式に出席のため大学を欠席している。羨んではいけないと思いつつも、どうしても羨ましい。
その上、卒業研究も佳境に入っている。
結果を出す時期に入って来ているため、普段のんびりしているさくらもさすがに焦りはじめた。土日もずっと学校に出て来ているが時間が足りず、週に五日のバイトを一日減らしてもらっていた。繁忙期ではないから承諾してもらっているが、地味に懐が痛い。だがこればかりは仕方ない。――しかし。
「いまいち、量が確保出来ないんだよね……」
このところみどりんの収穫量が減っているのだ。今まで五日培養で採れていた量より一割ほど少ない。色もいつもはもっと濃い緑色になるのに、黄が混じっているように見えて、どことなく元気が無いように思えて仕方が無い。
「病気かなあ」
それか、ミドリムシにもほうれん草のように活性があるのかもしれない。となると実験の大前提を見直す必要が出て来る。頭が痛い問題だった。ぶつぶつ言いながらノートに記録をしていると、お茶を飲みに来ていた教授が難しい顔で口を挟んだ。
「種が弱ってるのかもねえ」
「弱るんですか?」
さくらは驚く。
みどりんの種菌はシャーレの中で大事に飼っているのだが、いつ見ても青々と元気そうだった。
「慎重にしてても他の菌が入っちゃうから、培養の段階で他の菌に負けてしまうんだろう。夏は特にねえ、黴もすごいし」
ということは、みどりんのつもりで他の菌を一生懸命育てているということだろうか。――不毛だ。
顔をしかめつつさくらは助言を求める。
「どうすればいいですか」
「ん、じゃあK大でもう一回もらって来てくれる?」
「川村先生のところですね?」
卒業研究を始める際、種を分けてもらいに行ったのを思い出す。
「電話しておくから、早めに行った方がいいね」
さくらは頷くが、
(この忙しいのに……しかも、交通費がやっぱり痛い。一食抜くかなあ)
と内心ため息をついた。
K大の大部分は、さくらの大学からバスで二十分ほど行ったところにあった。キャンパスは古いが、広く、人も多い。立地も街中で活気もあった。
だが、戦前からある建物の老朽化は激しく、市内に散らばったキャンパスの統合も兼ねた、学生運動の頃からの移転計画がこのところようやく進んでいた。そのため、さくらが尋ねる予定の川村研究室は、現在は地下鉄の西端の終点からさらにJRに乗り換え、数駅のところという不便極まりない場所にあった。
駅前には開発中のビルが多数並んでいる。中に紛れてパチンコ屋だけが早々にオープンしてぎらぎらとネオンを輝かせて存在感をアピールしているのは何事か。学園都市になる計画ならば、これは不要でないかとさくらはげんなりする。
無事に種菌を入手したさくらは空腹のお腹を抱えて帰路についていた。交通費は往復で千円ちょっと。ちょうど昼時に移動時間が架かった事もあって、結局昼食は抜くことにしてしまった。川村教授のところで茶菓子の一つでもと期待したが、桑原教授と違ってそういったことに関心が無い――いや、研究一筋な人物だったためさくらのささやかな望みが叶えられることは無かった。
日の暮れかけた街中をとぼとぼと歩く。
「ああー、腹減った……」
ラーメン屋が目に入るとお腹が不気味な音を立てた。
(島田さんと行ったラーメン屋、また行きたいなあ)
このところバイトを休んでいるのはたいてい金曜日。島田と食事に行くのは大抵週末だったから、楽しい夕食の時間はお預けになっている。
最初の食事以来、島田は週末にさくらを食事に誘ってくれた。上原が退社した後、大抵二人で三十分ほど仕事を早く切り上げて、近くの安くて美味しい店で短い夕食を楽しむ、ただそれだけのささやかな会食。そのことを友人二人に話したが、「そりゃ、デートと呼べん」と島田に対して不満顔だった。
だがさくらとしては肩肘張らずにいられる気楽で楽しい時間だった。なによりいつも通りに帰宅出来て、母親の目を気にすることが無いのが最高だ。おごってくれるのも、30分早く仕事を切り上げたさくらが失う時給プラスα。現物支給と思えば――といってもその出所は島田の財布だが――良心がそれほど疼かないくらいのものだった。
道なりにうどん屋、パスタ屋……と学生向けの店が並ぶ。安くて美味しそうだ。見る度にいちいち島田との食事が思い出され、生唾を飲み込みながら必死で通り過ぎる。
目にいれるから駄目なんだ――と飲食店の並びから目を背け、建設中のビルを見る。何気なく前に立つスーツを着た人物に目をやった時だった。
「え」
目と口を同時に開いた。
「あれ?」
まさかと思って目を擦るが、それはやはり島田だった。
「あれ? 片桐さん、なんでこんなところに?」
島田も眼鏡の奥で目を丸くしてさくらに問うた。眼鏡プラス『片桐さん』で仕事モードの彼に、さくらは思わず背筋をぴんと伸ばす。
「それはこっちの台詞です」
「俺は仕事」
「私は研究の材料調達です」
「材料?」
「みどりん――いえ、ミドリムシの種菌です」
さくらは手に持っていた発泡スチロールの小箱を掲げてみせる。
「ああ」
島田は納得したように頷くが、直後首を傾げる。
「でも、ここってことはK大? 共同研究でもしてるわけ?」
「ええと、そんな感じで。うちの研究室は元々はミドリムシ使っていなくて、協力してもらってるんです。教授が同窓らしくて」
「へえ」
「島田さんはこんなところまでって珍しいですね」
「ああ。会社近辺で回れるところは回ったから、徐々に範囲を広げてるんだ。ここ、開発中だから、いろいろ新しい物件が多くて、仕事も多い」
そのとき、建設中の建物の中から、作業着にヘルメットという出で立ちの男が現れ、会話が中断する。
「ええと、先ほど頂いたパンフレットですけど、うちとしてはやっぱりもうちょっと柔らかいデザインのものが欲しいので……」
どうやらまだ商談中だったらしい。一歩後ろに下がって頭を下げたが、男はさくらを一瞥しただけで、さほど興味を示さなかった。
「ご希望がありましたら、別注も出来ますよ」
島田は笑顔で対応する。
「でも、値段も張るでしょう?」
「いえ、数点注文いただけるのでしたら、型が一緒ですのでそれほど変わりませんし、お値引きも出来ます」
「といってもねえ、案を見せてもらわないことには……」
相手方は渋っている。邪魔してはと離脱を考えたが、一応会社の人間であるしと、その場に留まった。
覗き込むと、ビルの内装が一部見える。木製の温かい雰囲気の壁、自動ドアも木製のものだ。確かに、SHIMADAの――いや上原のスタイリッシュなデザインだと浮くかもしれない。
(あれだったら、手書き風のフォント使ったり、イラスト入れたりすると可愛いかもなあ)
さくらはぼんやり考える。
「では、次回に案をお持ちしますので、見るだけでも見ていただけないでしょうか」
島田は丁寧ながらもしっかり食い下がっている。
(すごいなあ)
営業職というのは、さくらが一番苦手とするものだ。この押しの強さが自分には全く備わっていない。断られるのが怖くて、押すことさえ躊躇うのだ。だから、職種を選ぶ時も『営業』だけは避け続けている。その結果が内定ゼロなのかもしれないとは思うが、向き不向きは絶対あると思っていた。……といっても何が向いているかはさっぱり分からないのだが。
担当者は渋々といった顔で頷いて建物内に引っ込んだ。さくらはその様子に心配になるが、島田はというと意外にも微笑んでいた。
だが、ビルの隙間から差し込んだ夕日が彼の顔を照らし、現れた影に僅かに寂寥感を感じる。
「……脈なさそうな感じじゃなかったですか?」
さくらが思わず問うと、島田は「そうかな?」と首を傾げる。
「いつもあんな感じだけど、五分五分で決まる。そんな感じ」
「断られるのって、嫌じゃないですか?」
「新規参入だから、それ怖がってたら何も出来ないよ」
「すごいですね」
さくらが心から感心すると、島田は肩をすくめた。
「――とか言ってるけど、最初は嫌だったよ。俺、実は引っ込み思案だし」
「まさか」
さくらが笑うと、島田はおどけた調子で眼鏡を外してにっと笑った。
「さて、そろそろ帰ろうかな。あ、さくらちゃん、ここまで電車? バス?」
「電車です」
「じゃ、送るよ」
さくらは顔を上げてピカピカの駅舎を見て首を傾げる。一緒に帰ろうの間違いでは無いだろうか?
「でも、駅はそこですから」
「今日は車で来てるから、急がないんなら送ってくけど」
とたん、さくらの頭の中で帰りの交通費が自動販売機のおつりレバーを捻ったかのように音を立てて降って来た。
「え、すごく助かります!」
現金なさくらに島田はくすりと笑って誘った。
「じゃあ、こっちに車停めてるから」




