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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
一.大暑のころ
22/91

22 安くて美味い店

「お、お姉さんなんです、か」

 さくらは呆然と立ち尽くしていた。

 河野が既婚と聞いて、思わず不倫という想像をしてしまった。真実を聞いてしまうと、確かにその響きはあまりにも二人にそぐわない。

(な、なるほど。それでけいちゃん・・・・・……)

 理解と共に、急激に恥ずかしくなる。傍から見たら姉弟の仲の良さに異様に取り乱したさくらは、あまりに間抜けではないか。いや間抜け以前に、どう取られたかを心配するべきかもしれない。

(うっわあ――上原に何ていわれるか!)

 いや、この際上原はどうでもいい。目の前の男にどう思われたかの方が今は重要だった。

「な、なんで教えてくれなかったんですか! 私、すっごく失礼な勘違いしましたよ!?」

 照れ隠しも手伝い、さくらが強めに文句を言うと、島田はごめん、と謝った。

「説明するからさ。ここじゃなんだし、もう一軒付き合ってくれる? 俺、ビールしか飲んでなくってさ。腹減った」

 髪をかきあげた島田がさくらの肩越しに何かを見て、目を細める。気になって振り向くと、奥のベンチでカップルがいちゃついている最中だった。ぎょっとして飛び跳ねると、島田はにやりと笑う。

「べつに、ここでもいいけどね」

 思いのほか甘く光った目に、慌てたさくらは胸の前でぶんぶんと両手を振った。

「いえ! 別のところ希望です! 私もお腹空いたので! あ、でも……」

 金がない。この時間帯にもう一軒となると樋口一葉を出す覚悟が必要だ。顔を曇らせるさくらに、島田はまるで心の声が聞こえたかのように笑った。

「もちろん、おごるよ」

「いえ、悪いですし! やっぱり帰ります!」

 きっぱりと断ると島田はムッとした。

「俺は社会人で副社長なんだよね。眼鏡の弁償を百回払いする子に割り勘を申し込むほど困ってないし」

「でも、さっきのところだけでも申し訳ないのに」

 渋るさくらに、島田は妥協案を出した。さくらが断れない美味しい話で誘惑したのだ。

「じゃあ、ラーメンとかどう? 安くて美味いとこ知ってる」


 好物のラーメン、そして安いと聞けば断る理由が無くなった。さくらは大人しく島田について公園の脇の道を歩きはじめた。

「どこのお店なんですか」

「ん、この先、ちょっと行ったとこ」

「ここ、実は会社の近くですね」

「うん。昼にたまに行くんだ」

「この辺は美味しいお店多いみたいですけど」

 会社の近くの美味しいお店。そういえば情報誌で行列のできる店があると読んだことがある。さくらはきっとあの店だろうと予想した。

「有名店は多いね。この頃は全国にチェーン店があるみたいだし」

 島田は特に興味なさそうにさらりと流す。

(あれ? ちがう?)

 予想が外れて首を傾げていると、島田が「ついたよ」と前の店を指差す。

「ここが、俺が色々食べて、一番だと思った店。ボロだけど、安くて美味い」

 会社の一本南側の道のようだった。随分と年期の入った店で、なんというか今にも木造の家屋が潰れそうだった。のれんの文字さえ掠れて読めない。だが辛うじて札に書かれた値段を見てさくらはぐっと手を握りしめる。

(よっしゃあ、四〇〇円!)

 自腹を切るにもおごってもらうにも、許容範囲である。

「らっしゃい!」

 扉が開き、風が運んで来た豚骨の強烈な匂いに思わずのけぞる。豚骨ラーメンは大好きだが、ここまで純粋に豚骨アピールというのはこの頃では珍しいのではないか。

 島田は涼しい顔で入店を促す。さくらが足を止めていると、

「あれ? もしかして嫌い?」

 と驚いたような顔をする。さくらもそうだが、この辺りの人間ならば豚骨を嫌いな人間は居ないと信じているのかもしれない。豚骨以外はラーメンではない。インスタントでさえ豚骨しか食べない徹底ぶりだ。

「いいえ、大好きです」

 さくらが挑むような顔で笑うと、島田は妙に嬉しそうな笑顔を返した。



 ラーメンは本当に美味しかった。匂いの割にスープはさらりとしていて、しかしこくがあった。細くてこしのある麺は自家製だそうで、店主のこだわりが感じられる。

「ごちそうさまでした! すごく美味しかったです」

 店を出てさくらが礼を言うと、

「ここ、代替わりして一度味が落ちたんだけど、二代目が勉強し直したらしいんだ。家業を継ぐのって大変だけど、親が必死で守って来たものを残したいってのはわかる」

 ぽつりとこぼした後、しんみりと島田は黙り込む。そのまま彼は地下鉄の駅に向かった。

 ゆったりと時が流れているように感じた。なんとなく駅にたどり着くのが惜しくて歩調が緩む。だが、島田の肩は常にさくらのそれに並んでいた。

(あれ?)

 ふと気が付く。島田はさくらに歩調を合わせてくれているのでは、と。

 どきりとしてさくらは立ち止まる。すると島田も一歩先で立ち止まった。まるで、さくらの予想が正しいというかのように。

「どうかした?」

 振り返った島田の目にはなんだか物憂げな光が浮かんでいた。射抜かれたような気がして心拍数が上がったさくらは、とっさに話題を探した。

「そ、そういえば、あ――――どうして姉弟って隠してたんです?」

 そもそもそれを聞くためにラーメン屋に行ったのだった。さくらが思い出して問うと、島田はぶっと吹き出した。

「さくらちゃん、ラーメン食べるのに必死だからさ、言いそびれた」

「…………そ、そんなに必死に見えましたか」

 思い返せば、確かにひと言も会話をせずに完食してしまった。それどころか勧められるままに替え玉まで頼んでしまったのだ。

「前の合コンのときも思ったけど、めちゃくちゃ美味そうに食うからさ。なんか声かけ辛い」

 さくらが項垂れると、島田はくつくつと笑う。

「おごり甲斐があるよ、まじで」

「そ、それより、はぐらかすってことはやっぱり言いたくない話なんですか?」

 さくらが反撃すると、島田は一度笑いをおさめ、代わりに苦笑いを浮かべた。

「ああ、隠してたわけじゃなかったんだけど、言いそびれてたんだ。かっこわるいだろ? 姉にこき使われてるなんてさ」

「そうですか?」

 首を傾げるさくらに、島田は真剣な顔で頷く。

「SHIMADAは最初は俺だけでやるつもりだったんだけど、俺がこんな顔だから。実際若いのもあるけど、どうしても重要な話が通り難くて、力を借りることになった。あの人歳とってる分だけ貫禄あるから、俺より信用があるんだ」

 島田は妙に悔しそうだ。さくらは前から気になっていたことを尋ねた。

「社長っておいくつなんです?」

「……三十六。本人には歳の話をしたら駄目」

「えぇ、見えない……!」

 三十代だとしても前半だと思っていたさくらは、当初の予想が外れたことに純粋に驚く。

「十歳離れてるから、全く頭が上がらん。あいつ、俺をまだ小学生くらいだと思ってるから」

 むくれる島田が妙に可愛らしくて、河野の気持ちがなんとなくわかる。こんな可愛い弟が居たら、それは弄らずにいられないだろう。

(そうか、二十六なんだ、島田さんって)

 彼も年相応に見えないと言えば見えない。さくらと同じ歳と言っても多分通用するだろう。本人が気にしているみたいなので言わないが。

「十歳も離れてるってすごいですね」

「間にもう一人姉ちゃんがいるから。あっちも別の意味で強烈なんだ。歳が近いと喧嘩もすごい」

 うんざりと肩を落とす様子から、やはり弄られているのだろうと予想がつく。それはそれでたのしそうだなあとさくらはため息をついた。

「羨ましいです。私、一人っ子だから」

「さくらちゃん、一人っ子か。……なるほど、それで」

 島田は一瞬難しそうな顔になる。

「何がなるほどなんです?」

「家が厳しいだろう?」

「あの人達、単に暇なんですよ」

 軽く茶化すと、島田は首を横に振った。

「それだけだとまだ楽だけどね」

 島田がそう呟いたところで、駅にたどり着いた。

 携帯で時刻を確認すると9時10分前だった。意外に時間が経っていたことに驚く。食べている時間はさほど無かったのに。だが、すぐに思い当たった。

(あー、移動時間か)

 よく考えると歓迎会のバー、公園、ラーメン屋、駅と随分歩いていたのだ。

「門限間に合いそう?」

 心配そうに問われて、さくらはにこりと笑う。

「いつもより早いくらいです。今日はありがとうございました!」

 それじゃあ、とさくらが身を翻し、階段を一歩下りたところで島田の声が頭上から振って来た。

「…………また、誘っていいかな?」

「え?」

 下りかけていた足を一度止めると振り向く。階段の上には島田のはにかんだような笑顔があった。連日の急な誘いにさくらが固まっていると、島田はしょうがないなといった様子で付け加えた。

「晩飯は一人より誰かと食べる方が美味いだろ? 俺も毎日コンビニ弁当じゃあ飽きるし。安くて美味い店なら、たくさん知ってる」

(ああ、なんだ)

 さくらは胸を撫で下ろす。

 そういうことなら、さくらも同じだ。毎日自炊だと疲れるし、たまには楽に美味しい物が食べたい。それに、合コンの時にも感じたが、やはり島田との食事は楽しかった。といっても、今回、食事中の会話は全くなかったが。

 魅力的な申し出に、さくらは頷いた。

「はい。じゃあ、安くて美味しい店なら、またご一緒させて下さい」

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