20 勝ち誇った笑み
その日、河野はよくさくらに絡んだ。元々酔うと絡むタイプの人間なのかもしれない。ただ絡むのならば逃げようもある。だが、必ず島田の話を混ぜて絡むので、次第にさくらは困惑してしまっていた。
「ねぇ、知ってる? けいちゃんたらね――」
少し聞いただけでは先ほどの眼鏡の話のような彼の暴露話だ。むしろさくらを会社に馴染ませようとする好意的なものだと思う。だが、よく話の節々を注意して聞けば彼のことをどれだけ良く知っているのか、“どれだけ自分たちが親密なのか”という自慢話にもとれる。
穿ち過ぎだとは思う。せっかく開いてもらった歓迎会。決してそんな風には取りたくないのだけれど、なんとなく、女の勘が訴えるものがあった。
初めて会った時に感じた、あの嫌な予感だ。
「それでね、けいちゃんたらね」
(もう、分かったってば)
僅かに笑顔が引きつった瞬間だった。
河野の口元がにたりと笑みを浮かべる。赤い口紅が引かれた形の良い唇だ。
その顔に、さくらの胸の奥底で燻る闘争心に火が着いた。
「あの」
もうその話は結構です。さくらがそう口に出しそうになった時、島田が横から不機嫌そうに口を挟んだ。
「おい、ちょっと飲み過ぎじゃねえの?」
「しゃちょー、もう19時ですけど大丈夫っすかぁ?」
酔いの回った様子の上原も河野の疾走に不安げだ。河野は19時という言葉に反応して、目を見開いた。
「え、もうそんな時間?」
腕に巻かれた華奢な腕時計――きっと高級品だ――に目を落とすと、せかせかと帰り支度を始める。
「あーーー、久々に飲んだかも。美味しかったー! 楽しかったぁ! 片桐さんこれからもよろしくねぇ?」
にこり、と上機嫌に笑われ、
「あ、こちらこそ」
出しかけた角を慌てて引っ込める。と、河野は残念そうに眉を下げる。
「んー、せっかくだから、なんかもうちょっと反応欲しかったんだけドぉ……つまんないわー。……あ。そうだ」
そこで、河野はさくらを見たまま島田の肩に手を乗せた。サーモンピンクのマニキュアの塗られた綺麗な爪が目に入る。所々綺麗な石が埋め込まれていたり、別色で模様が入っていたり。きっとネイルサロンに行っているのだろう。金がかかっているのが素人目にもよく分かる。さくらは自分の短い爪と薬液で荒れた肌を思う。河野のものは同じ性別だろうかと疑うくらいにしっかりと女の手だった。
じっと見つめるさくらに、河野は挑発するように口にする。
「けいちゃん、家まで送ってってぇ?」
「は? 馬鹿か。一人で帰れ」
隣で島田は呆れたようにため息をついた。
「いいじゃない。なんなら久しぶりに泊まって行ってもいいからさぁ」
河野が島田の腕に抱きつくのを見て、さすがのさくらも呆然とした。隣では上原が「いいじゃないすか島田さんー。送って行ってあげれば」とへらへら笑っている。
「仲が良くっていいっすねぇ」
その言葉は果たして島田に向けているのか、それともさくらへの嫌みなのか。
さくらは今それを考える余裕も無かった。
「うえはら! 面白がってないで、この酔っぱらいを何とかしろ」
島田は困惑はしているが、あからさまに拒絶するわけでもない。その様子を見ていると、当然のように思い当たった。誰もが思いつくような簡単な答えだ。
(あぁ、そうか)
家に送って行って、泊まるような――そういう仲なのか。少なくとも、過去にはそういう事があったということで……ひょっとしたら、今も。
しなだれかかる河野を送って行く島田。さくらが以前夢で見たモデルルームのような家の玄関を二人で仲良くくぐるのを想像した瞬間、さくらは立ち上がっていた。
「島田さん、どうぞ、送って行かれて下さい。河野さん酔ってますし、心配ですし。じゃあ、お開きってことにしますか? 私も、門限があるので家に帰らないと」
酷く冷静な声が出せた。にっこりと微笑むことも出来た。だが胸の中が轟々と音を立てて燃えている気がした。
落胆。いや、それよりも酷く憤っていた。知らず期待してしまっていた、自分に。
(ほら、藤沢、広瀬。私なんか、誘うわけないんだって)
「は? さくらちゃん、何言って――」
島田がぎょっと目を剥いて、そしてそこでようやくさくらの視線が彼の腕にあることを知った。彼は慌てたように河野の腕を振り切った。
「“さくらちゃん”?」
河野の突っ込みに、島田がしまったという顔で口に手を当てた。河野はにたりと勝ち誇った笑みを浮かべていた。その笑顔を見ると、さらに頭に血が上る。
「今日はおごっていただいてありがとうございます、貧乏なんで本当に助かりましたー!」
飛び切りの笑顔が浮かんでいるだろうと思った。全エネルギーを顔に集中しているのだから、当たり前だ。
僅かでも気取られたくなかった。ガッカリしているところなど。また上原に馬鹿にされるし、河野もきっと喜ぶに決まっている。
島田だって分からない。もしかしたら、さくらのことをからかっていたのかもしれない。影で面白がって笑っていたのかもしれない。――そういう、男なのかもしれない。
その想像が何よりも我慢出来なかった。気が付くと、さくらは店を飛び出していた。




