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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
一.大暑のころ
15/91

15 無利子百回払い

「なんなんだ、あれ」

 さくらは上原の大きな背中を見送った後呆然と立ち尽くしていた。立ち上がった時に沸き上がった怒りは行き先を失って消化不良のまま胃の中で渦巻いている。

(………うああ、ムカツク!)

 エネルギーの無駄遣いとわかっているが、喧嘩を買ったとたん逃げられて、思い切り欲求不満だ。

 思わずどすんと地団駄を踏むと、ぽとり、こめかみを流れた汗が机に落ちる。

 ふと見ると先ほどは開け放たれていた扉がしっかり閉まっている。

(開けてけよ! 暑いって言ってたのはお前だろ!)

 ムカムカしつつ溜め込んだ怒りをぶつけるように外に向かって開け放つ。と、がつんと嫌な衝撃を手に感じ、どすんという地響きが耳に届く。

(え?)

「ってぇ――」

 マンションの廊下に尻餅をついて額を押さえているのは島田だった。さくらは青ざめる。

「う、わ! す、すみません!!!! 割れませんでしたか! 頭!」

「……辛うじて、頭は割れてないけど」

 言葉どおりに島田の押さえた頭は見た感じは無事そうだった。だがその言い方に引っかかりを感じ、さくらは床の上を見て、ぎょっと目を剥いた。

「あ――メガネが!」

 コンクリートの廊下の上に銀縁のメガネが落ちていた。慌てて拾い上げる。フレームは歪んでいない。割れてもいない。とほっとした直後、レンズに大きな瑕が入っていることに青ざめる。

「――べ、弁償させていただきます!!」

 とっさにそう叫んで頭を下げた。しかし、どうやって弁償すればいいのか分からずに混乱する。

(弁償!? あんた、今弁償って言った? どうすんの、絶対高いよ、あれ!)

 このところ外国製の安いメガネは増えているが、島田のメガネはどう考えてもそんな値段ではない。

 恐る恐るフレームの内側を見るとブランド名と思わしきロゴが入っている。しかし、さくらはメガネには縁がないため、これがブランド物なのかさえ分からない。お値段がどれほどのものか予想が全くつかなかった。

(よく分かんないけど、これ絶対高いと思う!)

 細いフレームのくせに、あれだけすごい音がしておいて、この程度の損傷。それだけモノがいいに決まっている。

「あ、さすがだ。壊れてない」

 島田は怒るどころか、何か感心したようにメガネに手を伸ばした。さくらがおずおずと手渡すと、彼はメガネの傷を確かめた後、くすりと笑った。

「ここの社員さ、自分ところの商品にめちゃくちゃ自信持っててさ。すげえの。どんな説明にも『私どものメガネは――』って前置きするんだ。正直に言うとちょっと引くくらいで。だけど、そこまで絶大な自信もって勧められたら、もう買うしか無いよなぁって思って。営業としていい勉強になったから買わせてもらったんだけど、実際物もすごく良かった」

 くすくす笑いながら昔話をする島田だったが、さくらはメガネのお値段のことで、気が気でなかった。正直そんな話はどうでもいい。

「つ、つまり……た、高いんですよね?」

 単刀直入に問うと、島田はあっさり頷いた。

「ん? まあね。フレームだけでさくらちゃんのお給料の一月分かな」

 さくらはぴきんと固まる。

「弁償してくれるんだよね?」

 いたずらっ子みたいににやりと笑われる。通常ならときめいていたであろうその笑顔にも、さくらは心で泣きながら観念した。武士に、いやリケジョに二言は無い。

「ろ、ローンでもいいですか。10回、」

 軽く口にした後に、素早く月給を10で割って青くなった。

(え、月5400円!? ああ、それは――無理! 月1000円くらいじゃないととても返せないかも!)

「いえ50回払いくらいの。出来れば無利子で……」

 慌てて言い直し、さすがに厚かましいかと思ったとたん、島田はぶはっと吹き出した。

「50回……って車のローンじゃないんだから。別にいいよ。無利子で100回払いでも、それ以上でも……っていうか、真面目だなあ」

 太っ腹な発言にさくらは驚喜した。

「ホントですか! 助かります!」

「けど卒業したらどうするわけ? 毎月届けに来るの?」

 何かがツボにはまったらしい島田はケラケラと笑いながら言う。

「そ、卒業したら、あの――さすがに一括でお返し出来るはずなので。初任給で」

「あれ? 内定もらったの?」

 意外そうな島田は痛いところを衝いて来る。ダメージを受けたさくらは泣きたくなりながら否定した。

「い、いえ、まだ。そのうちもらう予定ではありますけど!」

「生物系ってどういうとこに就職するわけ? 製薬会社とか? それとも女子なら化粧品会社とか?」

「あー……大卒では研究職で雇ってもらえるところないんですよ。せめて修士課程マスターを出ないと」

 例の質問攻めにさくらは憂鬱になりながら項垂れた。島田に悪気は無いのだろうけれど、次に来るであろう質問にはあまり答えたくない。

「じゃあ修士に行けばいいのに。田中の彼女は行くんだろう?」

 予想どおりにやって来た質問にさくらは首を小さく横に振った。

「いいんです」

「経済的事情?」

 さくらは首を縦に振る。それが大きいのは事実。だが、一番問題なのはさくらの心構えだ。

「私――早く卒業して社会に出たいんです」

 きっぱり言って話を終わりたかったが、島田は意外にしつこかった。

「でもあれだけ熱心に研究してるのに勿体ないな。研究、好きなんだろう? 熱意があれば何とかなるんじゃないの?」

 親身なはずの言葉がさくらの古傷を抉る。昔そうやって熱心に指導してくれた先生を思い出す。

『好きなら諦めちゃだめだ。もがき続けなければ、そこで道は閉じてしまうんだ』

 もがくのに疲れた高校生の自分を思い出す。もしもあのとき先生の言葉を信じて進んでいれば。親の反対を押し切るだけの情熱があれば。――その想像は今もさくらの胸を焼き続ける。

(もう、止めて下さい)


「好きなだけじゃ――どうにもならないことはたくさんあります」


 思わず発した言葉が妙に刺々しく響いて、さくらははっとした。目線をあげると島田は驚いた顔をしていた。

 まともに目が合ってしまい、気まずくて目を逸らすと、壁に掛けてあった時計が目に入る。さくらはごまかしついでに大げさに机上の原稿に飛びついた。

「あ――、もう8時! 後1時間しか無い! 私、仕事まだ終わってないんでした! すみません、先に済ませちゃいますね!」

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