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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
一.大暑のころ
14/91

14 新人と嫁いびり

 窓を全開にして1分もしないうちに汗がじわりと滲んだ。

 今日初出勤ということでスーツを着込んで来たさくらはジャケットを脱ぐが、それでも暑かった。手のひらが蒸れて、少し上に置いておくと原稿が湿度で縒れて行く。

 室内にはウイイインというパソコンマックが唸る低い音、そしてキーボードのカツカツという音だけが響いていた。時折、開け放たれた戸と窓から表通りの車のモーター音が響くが、それ以外はめっきり静かになってしまった。騒音の主な原因だった上原が、島田が抜けたとたん黙り込んでしまったのだ。

 沈黙が気まずい。生温い空気が重くて集中出来ない。さくらはその原因を作り出した島田の指示を思い出す。

(このくそ暑いのに、冷房を切れとは。効率悪すぎる)

 前の会社では普通のことだったが、先日の面接の時にはエアコンが効いていたので、さすが儲かっていない山田とは違うと内心喜んでいたというのに。

「――さっきのってどういう意味なんです?」

 さくらはプリントアウトしたショートカットキーを睨みながら尋ねた。

「さっきのって?」

 答えながらも上原は手を休めない。

「戸を開けろって」

「流行のクールビズだろ」

 すげない返事。会話を疎んでいるのが丸わかりだが、さくらはこれきしのことではめげない。悪意を適当に流すのはお手の物なのだ。

「って、もう夕方だから節電はそこまで気にしなくていいですよね?」

 国が必死で節電を訴えているのは昼間の電力が足りないからだ。夜間には逆にエアコンなどを利用して、昼間の熱で疲れた体を癒すことを推奨していた気がする。

「そうだっけな」

 やはりのらりくらりとしていて要領を得ない。真面目に答える気がなさそうだったが、さくらは沈黙が嫌で質問を続ける。

「あと、島田さんが、河野さんと私は違うって」

「…………あーあー、めんどくせえ。そんなこと聞いてる暇あったらさっさと仕事すすめろよ、うすのろ」

 言葉どおり、ひどく面倒くさそうな顔をしてディスプレイを睨みながら、上原は罵倒する。こちらをちらりとも見ないことに気が付いたさくらは酷く腹が立った。

 とても、人と話をする態度ではない。

「どーしてそんなに目の敵にするんですかね! 私が働くのはもう決定事項なんですから、いいかげん諦めて下さい」

 この際と訴えると、

「俺は仕事のできないヤツが嫌いなだけだ」

 と取りつく島が無い。島田と社長の前では「僕」だったのが、今は「俺」と口調まで変わっていて、猫被りもいいところだ。

(ああああ、そっちがその調子なら、こっちだって猫被ってやらないから)

「最初っから出来るわけ無いでしょうが。上原さんにも新人の時があったと思いますけど! 初めから今みたいに出来たんですか? 上原さんにも仕事を教えて下さった上司が居るんでしょう」

 これでどうだとさくらは上原を睨む。だが、彼はまったく折れなかった。

「腰掛けのつもりで入って来る女なんかと仕事ができるかよ。すぐ辞めちまうのに。仕事を教える手間がもったいねえ」

 腰掛けって――

 その言葉にとっさに反発する。

「……はぁ? いつの時代の話だよ」

 思わず地が出ると、本性を現したな――と上原がこちらを見てにやりと笑う。

「どうせおまえも島田さん狙いだろーが」

「違うって」

 ぎくりとしつつすぐに否定するが、上原は聞き耳を持たない。

「あの人が連れて来るのって大抵そうだ。わかってんだよ。島田さんの唯一悪いところは、女に甘いところだ。社長にあれだけ言われてんのに」

「河野さんに?」

(そんなことで怒られるわけ?)

 一瞬怒りを忘れ、さくらは首をひねる。随分プライベートに踏み込んだ会社だ。

「島田さんが眼鏡かけるようになったのは、社長の指示だよ」

「意味わかんないんですけど。社長だからって、そんなことまで指示出来るんですか」

 上原は訳知り顔で頷く。

「まず河野さんは特別・・だし」

「どう特別なんですか」

 上原はにやにや笑うだけで質問には答えず、

「で、島田さん、見ての通り、モテるわけ。顔のせいもあるけど、肩書きも立派だし」

 勝ち誇ったようにそう言った。

(お前がモテるわけじゃないだろう、いや、むしろお前は島田の彼女か! 惚気か!)

 と突っ込みたくなるが、クマグマしい顔があまりに悦に入っているので言い出し難い。それに万が一頷かれたら怖い。さくらは腐女子ではないが、クラスに一人くらいはいるもので、その手の本は女子大の隅を突けば転がっていたりする。興味本位で覗いて卒倒しそうになったことは記憶に新しい。

(体格的に上原が攻めで、島田さんが受け? ――ってどうでもいいし!)

 ぶるぶると頭を振って危険な妄想を追い払おうとする。だが、この熱心さは異常ではないか。案外上原は本気かもしれないと思ってしまい、動揺する。表面上だけ極めて平静を保って受け答えた。

「そーですか。だから?」

「それで変にトラブるから、被害を最小限にするために、仕事中はかけろって。仕事相手じゃまずいだろうって。でも俺に言わせりゃ、プライベートでもかけておいた方がいいんじゃねって。飲み屋で引っかかってのこのこやってくる“誰かさん”みたいなのが居るわけだし。あー、やだやだ。職場に恋愛持ち込まれちゃ、仕事がやり難くってたまらねぇ」

 この状態を例えるなら――まるで嫁いびりをする小姑だ。

(って、嫁でも何でもないのにこの扱い!)

 理不尽な仕打ちに、とうとうさくらの堪忍袋の緒が切れた。

「はぁ!? 思い込み強過ぎません!? っていうか、島田さんが新人をいびるとか言ってましたけど、上原さんの方がよっぽど酷くないですか? 今までの人って本当は上原さんのせいで辞めたんじゃないんですか?」

 思わずぶち切れて立ち上がったところで、上原が同時に机をどんと叩いて立ち上がった。

 だが、彼の顔は噴火しそうなさくらと比べると涼しいもの。

 そして手元にあった残りの原稿――先ほどさくらの机から彼が奪って行ったものだ――を再びさくらの机に放りやった。

「おめでたいねぇ。ま、そういう風に思ってりゃいいや。――――ってことで、俺の分は終わったから。お先に」

「え――」

 ロッカーから取り出したショルダーバッグを肩にかけると、上原は戸惑うさくらを睨み据えた。

「胸くそわりいし、空気悪いし、暑いし。帰る。大きな口叩くんだから手伝ってやらねえ。残り全部一人で終わらせとけよ? あとショートカットキーの暗記もなー」

 まるで彼の不運は全部さくらのせいだと言わんばかりの顔だ。

 上原は、上着を取って肩にかけるとそのまま社を後にした。

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