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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
一.大暑のころ
13/91

13 ブルーマンデー

 ブルーマンデーという言葉があるが、さくらは別の意味でその月曜日――正確には月曜日の夕方を沈んで過ごしていた。

 オフィスには河野と上原とさくらの三人・・

 上原が巨体を貧乏揺すりで揺らしながら「あーめんどくせえ」とか「うわーーやっちまった!」とか延々と独り言を言うので、静かなはずな職場は妙に騒がしい。

 河野は河野で「あと一時間!」と切羽詰まった顔で受注処理をこなしている。どうやら十九時には会社を出るように決めているらしい。デートだろうか。十分有りうる。

 鬼気迫る顔でキーボードを叩く音がする。時折「よっしゃぁ」というかけ声と共にひと際激しい音が鳴るが、どうやら確定エンターキーを叩くときの音らしい。直後複合機がウイインと唸り、ファックスを送信する音がしているので、それを数えれば受注量が計れそうだとさくらは思った。すなわち結構儲かっていそうだ。

 そしてさくらと言えば……

(おまえらとは切って切れない仲だったんだ)

 大勢の青と赤の人形ひとがた――所謂トイレのマークと感動の再会をして……複雑な心境だった。

 何の巡り合わせだろうか。さくらはこの職場でも、山田の仕事と同じことをやっているのだ。

 あのとき、さくらがトイレのマークを差して「こんなの作ってるんです」と言ったから、だから島田はさくらを勧誘したのだ。

 からくりがわかってみれば、なるほどと納得出来た。だがさくらの心のどこかがしょんぼりと項垂れている。

 なんでガッカリしているのかがいまいちわからない。

 仕事の腕を買われたのだから喜ぶべきだというのに。


 だがモヤモヤする気分はすぐに大量の仕事に吹き飛ばされた。

「前に山田さんでやってたんだよね? じゃあ手順は大体わかると思うけど。プレートサイズにサインのサイズを揃えて原稿描いて、そして依頼先にファックス。で、オッケーもらったら、河野に発注してもらって。……メモ取ってないけど大丈夫?」

 言われてはっとする。慌てて手帳を取り出すが、「仕事用のは分けた方がいい」とノートを差し出される。

 頭の中に残る文言をさくらが書き出すのを待って、島田は続ける。

「あとは修正依頼来たら、最初からやり直して。問題起こったら俺の携帯に電話。――オッケー?」

 それだけ矢継ぎ早に言い残した島田は「じゃあ、行って来る」とヘルメットを被って社を飛び出して行った。窓から見えたペールグリーンの自転車は瞬く間に人ごみに紛れ、さくらの前には原稿の依頼書が大量に積み重なって行く。

 どさどさと積み上げられた紙を恨めしく見つめていると、上原が「手が止まってる」と注意する。

「それ終わったら、次が詰まってる。さっさと済ませないと帰れないっすよ」

「つ、次って後何枚です?」

「そこにあるのと合わせて、二十枚」

 時計を見る。十八時五十三分。勤務終了の予定は二十一時だ。

 60×2+7=127。

(……ああ、素数じゃん!)

 一枚あたりの時間を計算しようとして、項垂れる。割り切れないのが気持ち悪いが、つまりは六分強しか時間が与えられないということ。

 ちっちっと時計の針の音が聞こえ始める。

 運動しているわけでもないのに、息苦しさを感じる。さくらは充血した目を剥いた。

「マジですか」

「マジっすよ」

 島田は上原に向かっては、新人だからこそ容赦するなと言い残したのだ。今回は失敗しようと構わないからどんどん使えと。育てるためにはそれが一番早いと。

 さくらの抱えたときめきに似た何かは既に霧散していた。それはもう、あっけなく。

(クマさん相手じゃなあ……)

 うっかりしていた。島田は営業職だと言っていたではないか。外回り、つまり社にいないのが普通なのだ。となると、“見つめ合う機会”など元々ない。杞憂だったのだ。

 河野が言うには島田は自転車と共に市内の得意先を回っているという。営業車もあるのだが、自転車の方が小回りが利いて早いらしい。確かにこの辺は一方通行の道も多いため、回り道をするのが嫌なのだろう。


「じゃあ、先に失礼するわね。あ、けいちゃん、二十一時までには戻るって。上原くん、自分の分が終わったら先に出ててもいいらしいから」

「ういーっす、お疲れさまでーす」

 十九時五分前。仕事を終えたらしい河野がバナナクリップで纏めていた髪を下ろしながらにこやかに言った。

「さくらちゃん、わからない部分は上原に良く聞いてね。あと出来ない事は早めに言って。知ったかぶりが一番困るって。けいちゃん、それが一番嫌いなのよぉ」

 その笑顔が、彼のことは何もかも知っているのよ? とでも言いたげで、さくらは胸がざわついた。なぜか面白そうに観察してくるのがまた嫌だ。だが、相手は社長だし、入社一日目で反抗的な態度はまずい。島田も喧嘩するなと言っていた。

「わ、わかりました」

 殊勝に答えると、河野は洒落たバッグを肩にかけ玄関へと向かう。

「じゃあ、頑張って」

「お疲れさまでした!」

 ぱたん、扉が閉まったとたん、言い様の無い違和感が襲う。

(あれ?)

 だがそれが何かを考える間もなく、上原が「あと何枚?」と尋ね、思考は中断された。

「あと十九枚です」

「え、十分で一枚? のろい。サイズ調整になんでそんなに時間かかる? 見せて」

 巨体がさくらの隣にやって来てディスプレイを覗き込んだ。机の上に影が出来る。妙な圧迫感がありやり難さを感じた。

「えーっと」

 さくらがJIS規格のマークをクリックし、さらに右クリックしたとたん上原がダメ出しをする。

「ストップ。あー、なるほど。ショートカット覚えてないのかよ」

 うんざりと髪をかく。

「こりゃ、使えるっていわねーな」

「はぁ?」

 上原はさくらの机の上にあった注文書を半分ほど持ち上げると自分の席に戻る。

「はーぁ。島田さんってやっぱり見る目ねえなあ……。技術畑じゃないからしょうがないと言えばしょうがないけどさぁ。素人の言うこと、真に受けちまって。くっそ。俺の仕事が増えただけじゃねえか」

 大きな溜息。あからさまに喧嘩を売っているのがわかってさくらはムッとする。

(って、初日からそんなに出来る訳ないし! 何が悪いかも教えてくれないで文句だけ言うって、どうよ!)

「お、なんだ、その目。文句あるのかよ?」

 のっそりと体を起こす上原に、さくらはゆっくりと臨戦態勢を取る。

 と、その時だった。ドカンと扉が荒々しく開けられ、さくらは「ぎゃっ」と思わず声をあげた。

「今……戻った」

 玄関の扉に凭れ掛かって息をあげているのは、島田だった。

 ヘルメットを脱いだ直後なのか、髪が乱れてうねっている。眼鏡は汗のせいで曇っている。

 彼はむくれている上原とぎょっとしているさくらを交互に見て、はぁあと大きく息を吐いた。

「――みのヤツ……わざとかよ」

 彼がひっそり呟いた名前に聞き覚えがあったような気がしたが、驚き過ぎて心臓が飛び出そうだったさくらはそこまで気が回らない。

 島田はさくらの傍に寄る。こめかみを汗が滝のように滴っているのを見て、思わずポケットをまさぐったが、残念ながらハンカチを持参するような癖はどこかに置き忘れて来ていた。

「すまない。河野が十九時上がりってこと忘れて、うっかりしてた」

 何を謝られているかわからず、さくらが「何をですか?」と首を傾げると、島田は「……気を回して損した」と眉を寄せてため息をつく。そして訝しげな上原の視線を気にして、

「えっと、片桐さんはどう?」

 何かを誤摩化すように問うと、上原は意味ありげに島田を見上げ、それからさくらを睨んだ。

「ぜーんぜん、使えないです。話が違うじゃないっすか」

「使えない? 出来ないのか?」

「出来るっちゃあ出来ますけど。仕事がとにかくのろいんです。ショートカット覚えてないんすよ。今時コピペもマウスって……時間がかかってしょうがない。全く駄目です」

「なんだ、そんなこと? 全く駄目って……お前が馬鹿だ」

 逆に上原を扱き下ろすと島田は自分の席に腰掛け、背負っていたメッセンジャーバックからノート型のマックを取り出した。これまたこの間発売されたばかりの最新型。紙のノートのように薄く軽いヤツだ。

(うわ、あれ、欲しい!)

 思わず目を輝かせるさくらの前で、島田は一度眼鏡を外して布で曇りを取ると、意外に長い指をキーボードの上で滑らかに踊らせた。

 直後プリンタが唸る。

「それ、取って来て」

 指示どおりにプリンタに向かうと、打ち出されていたのはドローソフトのショートカットキー一覧だった。どこからかダウンロードしたらしい。

「キーですむところをいちいちマウスを使ってたら、作業効率が落ちる。ちょっと来てくれ。上原のやり方見ておいて」

 上原の隣に立った島田にちょいちょいと手招きされて、今度はさくらが後ろで彼の仕事ぶりを見る。さくらと同じ作業をしているのに、両手を使った彼は一分以内で印刷まで完了する。

「せめてコピーとペーストくらいはキーボードで頼む。――今日中に覚えられるか? もちろんよく使うものだけでいいし」

「今日中、ですか?」

(しかし、百個くらいあるんですけど。あと二時間切ってるから、ええと)

 一つあたり一分くらいか。自分の頭と相談するが、そこまで記憶力がいい訳ではない。悩んだが、さくらは上原の冷たい視線と、島田の眼鏡の迫力に圧されて思わず「はい、なんとか」と頷く。

(Ctrl+Nが新規? Shift+Ctrl+Nでテンプレートから新規? って、これウィンドウズ用だよね? あああマック用の一覧探した方が早いかな)

 内心途方に暮れつつさくらが手元の紙を凝視していると、島田はおもむろにメッセンジャーバッグを肩にかける。

「すまん、もう一回出て来る」

「え? 外回り終わったんじゃないんすか」

「近く通ったから寄っただけだ。ああ、――上原、エアコン切ってオフィスの戸は開けておけ」

 ヘルメットを被りながら、島田は上原に命じた。

「ええ? 突然のクールビスっすか? 暑いっすよ。あと虫が入るし」

 上原は目を丸くして不平を漏らした。だが、島田が少々言い難そうに

「片桐さんは、河野とは訳が違う」

 と言うと、さくらをちらりと見て何か会得したらしく、「そういや、そーっすね」と渋々頷いた。

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