1 リケジョの近況
白いコースターが汗をかいたコップのせいで染みになっている。遠くで冷蔵庫が今にも壊れそうな音で唸っている。
繁華街の狭いビルの一室を借り切った事務所の中にさくらはいた。人が五人も入れば窮屈に感じるくらいの広さだ。冷房を切った部屋は蒸し暑い。不快指数は殺人的に高く、壁に取り付けられた首振り扇風機がこちらを向く時だけ人の世界に戻ったような気になる。
目の前では初老の男が休むこと無く扇を動かしている。運動で発生する熱と起こした風で消える熱は等価だろうか――そんなことをぼんやりと考えた。
随分前からいやな予感はしていたのだ。
父親の伝で紹介してもらった仕事だった。趣味でイラストをやっていたのが、どこがどうなったのかサインのデザインのアルバイトを行うことになったのだ。
サイン――ピクトサインというものは絵だけで場所の案内をする。トイレのマークがいい例だ。それらのマークをデザインして特殊なインクで特殊な板に印刷して納品する。誰でも知っているし必要な物だけれど、誰が作っているのかなど誰も気に留めないような地味な仕事だった。
大学入学時から勤務を続けたが、結局さくらに新しいデザインの仕事は与えられなかった。ほとんどの客が元々あるJIS規格のサインを使用するからだ。さくらは原稿に落として印刷するだけ。その仕事さえも減っていて、電話番のために出勤するものの、勤務は夕方から夜なので電話もほとんどかかって来なかった。
暇を持て余したさくらが空き時間に大学の課題をしたり、パソコンで好きなお絵描きを存分に楽しんでも文句も言われない。
後ろから覗かれても「ハハハ、上手やねぇ。その調子」と言われる始末。
それをいいことに、独学で学びとうとうドローソフトや画像加工ソフトなどのツールも使いこなせるようになってしまった。
社長は喜んでいたし、さくらはこのままこの会社に就職できるような気になっていた。以前に『こんな小さな会社でよかったら、そのまま社員になってもいいんよ?』と言われたことを真に受けて、特に就職活動もせずにぬるま湯につかり続けていた。
だが、もっと危機感を抱くべきだったのだ。仕事というものは、暇でいいことなど何も無いということに早く気が付くべきだった。
ワシワシという熊蝉の声が大きく開けた窓から流れ込んで来る。二三匹いるのかそれとも近くに止まっているのか、酷く五月蝿い。なのに男――株式会社山田の社長だ――の言葉は妙に通っている。聞きたくないのに聞こえてくる。
「ごめんねぇ、さくらちゃん。今まではあんたのお父さんに遠慮して言えんかったんやけど、どうしても業績が上がらんでねぇ。得意先にもいくつか頭下げたんやけど、注文なかなか取れんでね。ここまでずるずるきとったけど、どうも人員削減せないかんごとなったんよ」
方言で心底申し訳なさそうに言われると頷くしかない。
「変なバイトにでも手ぇ出されちゃいけんって親心は、よう分かるしね。あんたのお父さんには懇意にしてもらっとったけん、今まで預からせてもらっとったんやけど、この不況やろ? さすがに厳しくってねぇ。分かってくれんかね」
そこをなんとか卒業まで――のど元まで出かかった泣き言を、ぬるくなった麦茶と共に飲み干す。
色んな感情をぐっと堪えてさくらは今までのことを詫びる。こうなったのはぼうっとしていた自分にも責任がある。
「社長、お役に立てなくて……申し訳ありませんでした。私がもっといいデザイン出来てたら違ってたかも」
社長は殊勝なさくらに慌てる。詰られる覚悟だったのかもしれない。
「いや、わしがもっとしっかり営業しとったらよかったんよ。この世界、商売敵が少ないけんって油断しちゃいけんね。新規参入するところだってあることを忘れとった。こっちも新しいやり方を取り入れていかんと。また業績上がったら声掛けるけん、……ごめんなぁ」
謝罪の言葉にはさくらの就職のことも含まれるのだろう。
内定は出していないが、冗談で言ったあの言葉をさくらが真に受けていることに心を痛めていたのかもしれない。真に受けるさくらが馬鹿なのに。
(社長は優しいなぁ)
さくらは知っていた。三年前、さくらの父親の勤め先の関連会社がビルを新築する時に、ここの商品を選んだ。その後も数件紹介があったと聞く。だから同時に提案されたさくらの雇用を断れなかったのだ。
最初からさくらになど期待していなかったくせに、そんなことは一言も言わなかった。お人好し過ぎる。だから会社が傾くのだ――そう思う。
さくらは結局何も言えずに礼だけ言うと荷物をまとめて会社を後にした。
「……くび……かぁ。これから、どうしよ……」
賑やかになりつつある街をとぼとぼと歩く。コンビニで求人情報の載った無料のペーパーを貰うと、半分に畳んで鞄に突っ込んだ。
ただクビになったのなら次を探せばいい。だが、さくらは今後のバイト探し――それどころか将来に暗雲が立ちこめているのに早くから気が付いていた。
さくら――片桐さくらは二十一歳。春に研究室に配属されて、現在“ミドリムシ”という単細胞生物を使って光合成の研究を行う大学四年生――理系の女子大生だ。
ミドリムシとは体の中に葉緑体を持つ単細胞動物だ。顕微鏡で見ると、楕円形の体に鞭毛がついていて、スライドグラスとカバーグラスの間を元気よく動き回る。光を当てると光合成をして栄養分を自ら作り蓄え、分裂して増える小さいのにエネルギッシュでとても可愛い生き物だ。動物なのに植物である不思議な生物の魅力を思う存分語りたいところだけれど、これ以上を説明すると長くなるし、大抵の人間が退屈して嫌な顔をするので、以下略。
とにかく今のさくらの生活はミドリムシを中心に回っている。培養の日程をスケジュール帳に細かく書き込んで、それに合わせて行動している。バイトだってそうだ。
空き時間に都合良く出社出来る――しかも自由時間も多く論文を読んだり書いたり出来る、今のような職が見つかるとはどう考えても思えない。
だからと言って仕事をしないわけにもいかない。
問題は――お金だ。世の中の人は大抵はこのために働き、さくらも例外ではなかった。
大学生も様々だろうが、さくらの場合は稼いだ金は全て生活費に消えていた。
奨学金を貰い、バイト代で足りない分を補充。田舎の親は健勝だが、彼らからの援助は『とある理由』により全く期待出来なかった。むしろ頼んだら喜んで援助するだろう。だが、それだけは出来ない。絶対嫌だ。
それに、もう一つの大きな問題は、なおざりにしていた就職活動だ。生物系の理系女子に対する研究職の募集は皆無だが、職種を選ばなければなんとか就職口は見つかった。現に三年の後半から活動を始めていた友人たちは次々に内定を貰っていた。自分もその仲間入りをしていたつもりだったが、話は泡と消えてしまった。
社長と父親には伝がある。一応口止めして来たが、親に知られるのも時間の問題だろう。喜々とした母親から「就職駄目になったんやろ? じゃあ卒業後は家に帰って来るんよね?」と電話がかかってきそうだ。
電話口から響く高い声を想像して頭痛を感じたさくらは、ため息をついて携帯の電源を切る。
川沿いにある街は、夜になると屋台が並び、昼間とはまた違った顔を見せる。
集う人の種類ががらりと変わるのだ。昼間は真面目そうな会社員が颯爽と歩いているというのに、夜は赤い顔をした酔っぱらいが千鳥足でフラフラしている。
会社から地下鉄の駅までの近道。さくらは大学の帰りに地下鉄の駅で途中下車して仕事に向かっていた。そうして通学の交通費も賄えるからこそ、大学から離れたところに家を借りたのだ。
つまりバイトも生活の一部になっていた。
それも今日が最後だ。
豚骨の匂いが鼻をくすぐるが、ぐっと堪える。たまの贅沢と屋台を覗く事もあった。だけど、ここは観光客向けにぼったくっていることが多い。家の近所のラーメン屋の方が安くて美味しい。それより家でインスタントラーメンを食べた方がさらに安くて美味しい。無職となったさくらは自分に言い聞かせる。
「ねぇちゃん、遊ばんね。おごるけん」
酔っぱらいがさくらに声をかける。耳が“おごる”という言葉に反応しそうになるが、無視して歩くと、次の酔っぱらいが目の前に立ちふさがる。
足払いをかけたいような衝動を堪えつつ足早に歩く。
声をかける男には、チラシを配る若者も混じっている。普段は無視するいかがわしいチラシが目の端に散らついた。
足元に捨てられたチラシには“日給”と勘違いするような額が“時給”として書いてある。
顔を上げると鮮やかなピンクのネオンが顔を照らした。
「あれ? 姉さんお金困ってるのー?」
立ち止まったさくらに男が目ざとく声をかけて来る。
(あぁ、もう、うっとーしーー!)
金は欲しい。だけど人には売り払ってはいけないものがある。『さくら』のように、強く美しく生きなさい――大好きだったばあちゃんの言葉が高い空から降って来て、彼女を叱咤した。
負けるもんか――さくらは決心を握りしめるようにして夜の街を駆け抜けた。