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地上に降りた堕天使

 西暦が終って180年以上経っても、アメリカ合衆国という先進国家は、未だ健在である。

 治安は相変わらず、黒人白人間の溝が埋まることもなく、街並みが近代化している意外、特に変化は見られ無い。


 しかし、今回は街並みは関係ない。今、通信しているのは、アメリカ空軍の長官である。


『ライラ・バズ中尉はサイレントナイツ作戦で破竹の戦果をあげてくれたよ。

 たったひとつの中隊で、要塞ひとつを落とすとは、流石に月の堕天使の異名を冠するだけある。

 近々、大尉に昇進させ、第15セモベンテ大隊の大隊長に就いてもらうつもりだ』


 胸に幾つもの勲章を付け、襟元に大将の階級章を付けたスキンヘッドに口髭を生やした男性は、『今さら返してくれと言われてもな』と小馬鹿にするような口調と目付きをこちらへ返す。


『邪魔だからやると言ったのは月面宇宙軍だったはずだが?』


「勝手な申し出とは百も承知です、ヤード長官。

 ですが、彼はまだ月面宇宙軍の士官です。こちらの命令ひとつで、帰還させる事は可能な筈です」


『ふんっ、余程困っている用だな?張り子のトラでは、力不足か?』


 アメリカ軍大将にして空軍の長官を勤めるジョン・ヤードは、ざまぁみろと言わんばかりに鼻を鳴らす。

 ベルガ・ベルナインは敢えて答えず、「近々、木星国家ゼウスとの和平交渉が始まります」と本題へ入る。


 木星国家ゼウスとの和平。

 これには、ヤード長官の顔付きも変わった。


「それに向け、今、月面軍は防衛態勢を強化しつつあります」


『その為に、本物の月の堕天使が必要だと?』


「おっしゃる通りです。看板だけの月の堕天使だけでは力不足でして…。確固たる実力を持つ者が必要不可欠なのです」


 ここまで述べると、ヤード長官はまた鼻で笑った。

 おおよそ、若造が勝手な事を言うと思っているのであろう。


 若干30歳にしてたまたま空きのできた大佐の席に着けたベルナインと、実力とコネの両方を駆使し、尚且つ幾つもの激戦を切り抜けてきたヤード長官とでは、全てが違い過ぎる。


「長官、和平交渉は来月です。我々には時間が無いのですよ。これは、本部の決定なのです」


『本部の、ねぇ…。ひとつ腑に落ちんのは、何故、本部の決定事項を月面宇宙軍長官では無く、技術試験隊の技術本部長である貴様が報告しているのだ?』


 思わず言葉が詰まった。やはり怪しまれた、元々勝算は皆無に等しかったが、このチャンスは逃せない。


 気付かれないよう密かに息を飲んだ刹那、『まぁ、詮索はしないでおいてやろう』と鋭い目をしながらも微笑混じりの声に、ほっと胸を撫で下ろした。


『頭の硬い上層部より、貴様の方が論理的なようだな?』


「何の事やら」


『ふんっ、良いだろう。惜しい男だが、帰還命令が下ったのなら仕方がない。だが、ひとつだけ問題がある』


 ベルナインは疑問符を浮かべた。ただの人事異動に問題とは一体何事か。

 困惑する彼を嘲笑うかの如く、ヤード長官は『大したことではない』と不適な笑みを浮かべた。


『ただ、現在遂行中の任務が終了するまで、ライラ・バズという男は帰還命令に従わんかも知れん。これまでも、何度かそんなことがあった、と報告を受けている』


「は?」


『一応、命令書は手配するが、従うかどうかは、また別だ』


 そう言うヤード長官の顔は、どこか含みのある表情をしていた。






『ライラ君、地球は気候の変化が激しいから、くれぐれも体には気をつけて…。

 ちゃんと三食きっちり食べて、嫌な事があったら身近な人に相談するのよ…。

 辛くなったら、いつでも帰って来て…。いつでも、私はここで待ってるから…』


 まるで、母親の事を言う。ライラは笑みをこぼした。

 メインスイッチをスタンバイ状態にしたコクピットの中で、手のひらサイズのスクリーンに表示した写真を眺めながら、彼はボイスメッセージに耳を傾けていた。


 これは、写真と共にメッセージを録音できるプレート型の写真たて。誕生日等の贈り物として人気が高い。

 地球に降りる前、彼がある女性から貰った物だ。


 赤毛のウェーブした長髪の女性は、稀代の美女と言っても過言では無い程、美しく聡明だ。

 にっこり微笑むその表情は、まるで天使か女神を彷彿させる。


『無茶して死んじゃダメだからね…。どんなにみっともなくても、死ぬより生きる方が大切だから…。だから、絶対、無事に帰って来て…』


 そこからは、啜り泣く声が暫く続き、ボイスメッセージは終幕を迎える。

 地球に降りてから何度も聞いたメッセージ。いつも心を和ませてくれる。


「月は遠いよ、リゼさん。ほんとに…」


 モニターに映る昼空を見据え、寂しげに呟いた。

 と、そこへ『ライラ、お前に司令から電信だ』と通信が入った。

 ライラは「オレに?わかった今行く」と答え、ハッチを開放し地面へ降りる。


 気温マイナス40度。温暖化の影響で、例年より十数度高いとは言え、人が外で活動するには過酷過ぎる。


 一度、深呼吸などすれば、吸い込んだ冷気がたちまち肺を凍らせてしまう。

 パイロットスーツを着用しヘルメットをかぶりバイザーを下ろしている彼らパイロットにとっては、寒さなど大して関係の無い事だが。


 極寒のロシア。

 ここ数ヶ月、ライラ率いる第09特殊SPC小隊及び海軍特殊部隊SEALsとの合同部隊の任務地である。


「リゼさん、雪って冷たいよ…」


 雪原に足を着けたライラは、ヘルメットを外して降り止まぬ雪空を、どこか寂しげに見上げた。


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