第三章 第10話 選択を奪うもの
夜。
氷室心理相談室の灯りは、ひとつだけ残っていた。
机の上には、高瀬恒一の資料。
履歴書、異動記録、過去の転職面談のメモ。
「……やっぱり、変だよ」
カスミが、天井近くで腕を組む。
「ただの“迷い”にしては、
重すぎる」
「ええ」
玲は、資料の端を指でなぞる。
「後悔が原因なのは確かです。
ですが……」
言葉を切り、視線を落とす。
「後悔が、誰かに“使われている”」
三年前。
高瀬が転職を迷っていた時期に、
共通して現れていた人物がいた。
社内の、どこにでもいそうな中年男性。
名刺には、こう書かれている。
キャリアコンサルタント
桐生 恒一
「……また“恒一”」
カスミが眉をひそめる。
「名前、同じじゃない」
「偶然でしょう」
玲は淡々と言う。
「ですが、
“覚えやすい一致”です」
桐生は、
答えを与えないことで有名だった。
「どちらも、正しい」
「選ばなかった未来も、あなたの人生だ」
それ自体は、
ごく普通の言葉。
だが――
「その言葉を聞いた人間は、
決断できなくなる」
クロベエが、低く唸る。
「選択を尊重してるふりで、
選ばせねぇ」
「ええ」
玲は、うなずいた。
「“どちらを選んでも後悔する”と、
刷り込んでいる」
翌日。
玲は、高瀬に同行し、
再び桐生のオフィスを訪れた。
殺風景な部屋。
余計な装飾はない。
「今日は……
お連れの方が?」
桐生は、穏やかに微笑んだ。
「心理相談員です」
高瀬が答える。
「……なるほど」
桐生の視線が、
一瞬だけ玲に留まる。
――長すぎる。
玲は、審眼を開く。
霊は、いない。
呪いも、ない。
だが――
(……“選択肢”が、
削られている)
部屋の中には、
“選ばない未来”だけが、
濃く漂っていた。
「高瀬さん」
桐生が、静かに言う。
「海外赴任の件、
まだ迷っているようですね」
「……はい」
「それで、正しい」
その言葉に、
高瀬の肩が、わずかに落ちる。
「失礼」
玲が、口を挟む。
「一つ、質問を」
「どうぞ」
「あなたは、
“選んだ未来”について、
何か言いましたか?」
桐生は、首をかしげる。
「……いいえ。
私は、
選ばなかった未来の重みを、
伝えているだけです」
「それが、問題です」
「人は、
選ばなかった未来を想像しすぎると、
今を選べなくなる」
玲の声は、静かだが、鋭かった。
「あなたは、
“未来を見せない”ことで、
人の時間を止めている」
桐生は、
わずかに目を細める。
「……興味深い見方ですね」
その瞬間。
カスミが、はっと息をのむ。
「……玲くん。
この人……
“未来がない”」
玲も、感じ取っていた。
(……この男、
自分の未来を、
想像していない)
いや――
想像できない。
桐生は、
過去と他人の選択の間にだけ、
存在している。
「今日は、
ここまでにしましょう」
玲は、席を立った。
「高瀬さん。
少し、時間をください」
桐生は、止めなかった。
ただ、穏やかに言った。
「……急がなくていい」
その言葉が、
やけに重く、
残った。
帰り道。
高瀬は、
深く息を吐いた。
「……不思議ですね」
「何がですか?」
「さっきまで、
“選ばなきゃ”って
思えなかったのに……」
少しだけ、顔を上げる。
「今は……
“考えてもいい”って、
思える」
玲は、静かにうなずいた。
事務所に戻ると、
クロベエが低く言った。
「あいつ……
人じゃねぇな」
「ええ」
玲は、窓の外を見た。
「霊でもない。
呪いでもない」
一拍置き――
「“選択の間に生まれた存在”です」
未来を当てる者でも、
売る者でもない。
選ばせない者。
その正体は、
まだ、完全には見えていなかった。
だが――
確実に言えることがある。
この街で、
“選ぶこと”そのものが、
試され始めている。
いつもありがとうございます。また更新します。次回、第三章 第11話 選ばなかった未来の声
気に入っていただけたら
⭐評価&ブクマして応援して下さい!




