第三章 第9話 未来を選びたい人
翌日の昼下がり。
氷室心理相談室のドアは、珍しく迷うようにノックされた。
――三回。
間隔は不揃いで、力も弱い。
「どうぞ」
玲の声に、ドアが静かに開く。
入ってきたのは、
二十代後半ほどの男性だった。
清潔な服装。
派手さはないが、どこか神経質そうな目つき。
「あの……
突然すみません」
「構いません。
お掛けください」
男は椅子に腰を下ろしたものの、
背もたれには寄りかからなかった。
まるで――
“決めかねている”姿勢。
「……未来のことで、相談したくて」
その言葉に、
カスミがわずかに身構える。
「未来を……?」
「はい」
男は、指を絡めながら続ける。
「当ててほしいわけじゃないんです。
売ってほしいわけでもない」
玲は、黙って続きを促す。
「……選びたいんです」
男の名前は、高瀬 恒一。
現在は、安定した企業に勤めている。
だが――
「……来月、
海外赴任の話が出ています」
「断る選択も?」
「できます」
高瀬は、苦笑した。
「でも……
断った場合の未来が、
どうしても怖い」
「……怖い、ですか」
「はい。
行けば、失敗するかもしれない。
でも、断ったら……
“行かなかった未来”を、
一生後悔する気がして」
カスミは、そっと言った。
「……それ、
すごく普通の悩みだよ」
「だからこそ、
苦しいんです」
高瀬の声は、わずかに震えていた。
「未来を知りたいわけじゃないんです」
高瀬は、必死に言葉を選ぶ。
「ただ……
“選んでいい未来”なのか、
それだけを……」
玲は、少しだけ目を伏せた。
(……なるほど)
これは、
予言ノートとも、
未来を売る男とも、
違う。
だが――
同じ入口に立っている。
玲は、審眼をわずかに開く。
高瀬の周囲には、
はっきりとした霊障はない。
だが――
(……未来が、揺れすぎている)
一つ一つの選択肢が、
過剰に膨らみ、
影のように重なっている。
クロベエが、低く唸る。
「若造……
こいつの未来、
やたら“重い”ぞ」
「ええ」
「高瀬さん」
玲は、はっきりと言った。
「私は、
未来を選ぶ手助けはできません」
高瀬の肩が、ぴくりと揺れる。
「……ですよね」
「ですが」
玲は、言葉を切り替えた。
「未来を“選べなくなっている理由”なら、
調べられます」
「……理由?」
「本来、
ここまで恐怖が強くなる必要はありません」
「最近、
強い後悔をしたことは?」
高瀬は、しばらく黙り――
やがて、小さく答えた。
「……三年前」
転職の話があった。
だが、
安定を選び、断った。
「結果として……
会社は倒産しました」
玲は、静かにうなずく。
「それが、
“選択を恐れる種”になっています」
カスミが、はっとする。
「じゃあ……
今の迷いは……」
「過去の後悔が、
未来を縛っている」
だが――
玲は、違和感を見逃さなかった。
(……それだけじゃない)
高瀬の影に、
微細なズレがある。
まるで――
誰かが、
“迷い”を増幅させているかのような。
「この依頼、
お引き受けします」
高瀬が顔を上げる。
「……未来を、
教えてくれるんですか?」
「いいえ」
玲は、きっぱりと言った。
「未来を奪っているものを、
取り除きます」
依頼人が帰ったあと。
事務所に、静けさが戻る。
「……これ、
結構重いやつだよね」
カスミが言う。
「ええ」
玲は、窓の外を見つめた。
「“未来を選びたい”と願う人間は、
最も利用されやすい」
クロベエが、尾を揺らす。
「誰かが、
“選択の恐怖”を餌にしてるな」
玲は、静かに言った。
「この事件――
表向きは日常ですが」
一瞬、
その目が鋭くなる。
「深いところで、
また“時間”が歪み始めています」
未来は、
選ぶものだ。
だが――
選ぶ“自由”そのものが、
奪われることもある。
その兆しは、
もう、すぐそばまで来ていた。
いつもありがとうございます。また更新します。次回、第三章 第10話 選択を奪うもの
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