第三章 第4話 午後の来客
その日の午後は、珍しく穏やかだった。
依頼の電話も鳴らず、
窓の外では、定食屋の仕込みの音がかすかに聞こえてくる。
氷室玲は、机の上で書類を揃えながら、
静かな時間を過ごしていた。
「……ねえ、玲くん」
ソファの上で宙に浮いていたカスミが、
足をぶらぶらさせながら言う。
「最近さ、事件続きだったから、
こういう時間、逆に落ち着かないんだけど」
「平和に慣れていないだけです」
「それもどうなの」
そんな会話の最中――
コン、コン
事務所のドアが、控えめにノックされた。
「……?」
玲が顔を上げる。
「どうぞ」
ドアが開き、
そこに立っていたのは――
「あ……こんにちは……」
少し緊張した笑顔。
だが、確かに前よりも明るい表情。
「……常盤、マコトさん」
カスミの動きが、ぴたりと止まった。
「お久しぶりです」
マコトは、手提げ袋を胸の前で抱えながら言った。
「突然すみません……
でも……ちょっと、お礼を言いたくて」
「どうぞ。お掛けください」
玲が椅子を勧めると、
マコトは少し戸惑いながら腰を下ろした。
カスミは、マコトのすぐ隣に立っている。
だが――
声はかけない。
姿も、当然見えていない。
「……」
カスミは、ただ静かに妹を見つめていた。
「大学……」
マコトが、少し照れたように言う。
「復学の手続き、始めました」
「それは良かったですね」
「まだ全部じゃないですけど……
少しずつ、です」
その“少しずつ”という言葉が、
無理をしていない証拠だった。
「カウンセリングも、続けてます。
最初は怖かったけど……
今は……話すと、楽になることもあって」
玲は、穏やかにうなずいた。
「正しい進み方です」
マコトは、事務所をぐるりと見回す。
「ここ……不思議ですね」
「不思議?」
「はい。
なんていうか……
静かで……」
少し考えてから、こう続けた。
「安心します」
その言葉に、
カスミの表情が、ふっと緩む。
「……そっか」
小さく、誰にも聞こえない声。
マコトは、
何かを感じ取ったように、
自分の隣の椅子を一瞬だけ見た。
「……?」
だが、すぐに首を振る。
「……気のせい、ですよね」
「ええ」
玲は、余計な説明はしなかった。
「……姉のこと」
マコトが、視線を落とす。
「最近、やっと……
思い出しても、苦しくなりすぎなくなりました」
「……それは、良い兆候です」
「はい」
マコトは、ゆっくりと息を吸った。
「“忘れなきゃ”って思ってたんです。
でも……
忘れなくていいって、
言ってもらえて」
カスミは、
思わず一歩踏み出し――
そして、止まった。
(……もう、大丈夫)
「これ……」
マコトは、手提げ袋から箱を取り出す。
「大したものじゃないんですけど……
お礼です」
中身は、
近所の和菓子屋の詰め合わせだった。
「お気遣いなく」
「いえ……どうしても」
玲は、静かに受け取った。
「ありがとうございます」
マコトが立ち上がり、
ドアの前で振り返る。
「……また、来てもいいですか?」
「ええ。
用がなくても構いません」
「……はい」
マコトは、少しだけ笑って帰っていった。
ドアが閉まり、
事務所に静けさが戻る。
カスミは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……ちゃんと、生きてる」
ぽつりと漏れた声。
「それでいいんですよね」
「ええ」
玲は、いつもの穏やかな声で答える。
「それが、
あなたが望んだ未来です」
カスミは、少し照れたように笑った。
「……ありがとう、玲くん」
クロベエが、棚の上で尾を揺らす。
「霊冥利に尽きるってやつだな」
午後の光は、
変わらず静かに差し込んでいた。
事件も、怪異もない。
ただ――
確かに救われた“日常”が、そこにあった。
いつもありがとうございます。また明日更新します。次回、第三章 第5話 未来を売る男
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