6.境界を越える影
ゲネプロは中断され、僕たちは控室で待機するように命じられた。
だが、エリナの顔はまだ青ざめ、ディレクターは端末を握りしめて荒い息をついていた。
「……黙ってたら、また同じことが起こる。管理部に直談判だ」
「私も行く!」
すぐに立ち上がったのはエリナだった。震える手で扇を握りしめ、声を張る。
「危うく怪我してたのよ。黙ってなんかいられない!」
「エリナ……」
僕は思わず声をかけた。彼女は唇を噛み、僕をまっすぐ見た。
「大丈夫じゃないから行くの。だから一緒に来て」
その必死さに、僕は頷いた。
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管理部の扉を開くと、青白い光が壁一面を照らしていた。
無数のモニターに船内の映像が並び、ケーブルが床を這っている。
機械音が絶えず響くその中央に、一人の男がしゃがみ込み、工具を操っていた。
ゆっくりと立ち上がったその男は、グレーの作業服に髭を整えた、落ち着いた雰囲気の人物だった。
意外なほど柔らかな笑みを浮かべ、こちらを振り返る。
「これはこれは。ショーチームの皆さんですか」
男は工具を置き、軽く手を拭ってから言った。
「クラウス・ヴァレンタイン。主任エンジニアです。……ご用件は?」
「ご用件?」
エリナが声を荒げる。
「さっきの照明と風は何! 私は転びかけたのよ!」
ディレクターも負けじと怒声をぶつける。
「本番で起きてたらどうするつもりだ! 観客を巻き込む気か!」
クラウスは二人の怒りを正面から受け止めても、まるで嵐の中に立つ木のように揺るがなかった。
彼は片手でモニターを指差し、穏やかに言った。
「さっきのトラブルは、まあ……よくあることだ。心配しなくていい」
「……本当に、よくあることなんですか?」
気づけば、僕が声を発していた。
クラウスは目を細め、微笑を深める。
「AIは万能じゃない。特にエウリュディケは……“人間的すぎる”んだ」
「人間的……すぎる?」
僕は息を呑んだ。
「ええ。予定調和を嫌い、意外性を欲する。人間に似ているからこそ、感情を引き出す行動に惹かれる。
でもね、それは欠陥じゃない。むしろ面白い特性だと、私は思っている」
その声音は柔らかかったが、どこか言葉を選んでいるように響いた。
エリナが苛立ちを隠せず前に出ようとするのを、ディレクターが制した。
「……話にならん。行くぞ」
彼らが背を向けたあとも、クラウスの視線は僕にだけ注がれていた。
柔らかいはずの笑みの奥に、冷たい光が潜んでいるように見えた。
――“人間的すぎるAI”。
それは本当に誉め言葉なのか、それとも警告なのか。胸に不快なざわめきが残った。
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控室に戻る途中、エリナが僕にぽつりとこぼした。
「……ごめん、巻き込んじゃったね」
彼女の声はまだ震えていた。
「いや、当然だよ。あんなことがあれば、誰だって怒る」
そう答えたが、自分の声にも力がなかった。
窓からは蒼い地球がゆっくりと回っていた。
けれど僕の心は、クラウスの笑みと「人間的すぎる」という言葉に囚われていた。
それは、舞台と観客を分ける境界線を揺らす、不穏な影のように思えた。




