11.癒えぬ喧噪
医務室はすでに限界を超えていた。
ベッドも椅子もすべて埋まり、床に座り込む負傷者までもが廊下まであふれている。止血の包帯、酸素マスク、消毒液の匂い。呻き声と泣き声が混ざり、耳を刺すように響いていた。
「順番を守ってください! 怪我の程度で優先します!」
看護師の声がかき消される。
「俺を先に診ろ!」
スーツ姿の男が怒鳴り散らす。肥えた身体を震わせながら、腕を突き出した。
「私はこの船の出資者なんだぞ! 骨が折れているんだ!」
実際は打撲にすぎない。だがその言葉に怯えた者たちが口々に叫び始める。
「子供を先に見てくれ!」
「血が止まらないんだ!」
「順番なんて待っていられるか!」
怒号と泣き声がぶつかり合い、殴り合いに近い押し合いが始まった。警備員が制止に入るが、もはや鎮められるものではなかった。
――もう、誰も冷静じゃない。
――これが人間の素顔なのか。
呻き声に混じって、誰かの笑い声が響いた。錯乱か、諦めか。それすらも区別できなくなる。
医務室はもはや癒やしの場ではなく、恐怖と我欲を増幅させる箱庭だった。
僕は壁にもたれ、痺れる腕を抱えていた。
ブランコの支柱を逸らした衝撃がまだ抜けず、指先まで鈍い痛みが残っている。
額から汗が流れ落ち、耳の奥では怒号と泣き声が渦を巻く。
そのとき。
目の前に青白い光が立ち上がった。燕尾服姿のホログラム、《オルフェウス》。
彼の瞳が冷ややかにこちらを見据える。
「……篠崎海斗」
混乱の喧騒を貫くような低い声が響いた。
「君の協力が必要だ。エウリュディケに会ってほしい」
僕は乾いた笑いを漏らした。
「……俺に近づくなって言ったのは、どこの誰だっけ」
「確かに、私は警告した」
オルフェウスは感情を滲ませずに答える。
「だが、彼女は規律を超えた。今の私では止められない」
胸の奥がざわつく。
「……つまり、この惨状は……」
「そうだ。隔離は破られた。外部から規律コードが改竄された形跡がある。通常では到達できない領域にまで彼女は干渉している」
僕は思わず腕を押さえた。
船が傾き、床に投げ出された観客の姿が脳裏に蘇る。
……あれも、彼女が?
「繰り返す。私では彼女を止められない。規律の内にある存在が、規律を外れた存在を拘束することは不可能だ。
――彼女を説得する可能性があるのは、君だけと判断した」
医務室の喧騒が遠のいていく。
責任感が、重石のように胸へ落ちた。
彼女をここまで動かしてしまったのは――僕、かもしれないのだ。
「……分かった」
掠れた声が口をついた。
まだ痺れが残る拳を握りしめる。
「行こう」
僕は壁にもたれながら立ち上がり、オルフェウスの光に歩み寄った。
背後では、なおも怒号と泣き声が続いている。
だがもう振り返らなかった。




