10.崩れゆく秩序
観客席の悲鳴が波紋のように広がっていった。
シアターの天井では照明が断続的に明滅し、まるで稲妻が走るように客席を照らす。子供を抱きかかえる母親の声、足を取られて転ぶ老人の呻き、逃げ惑う人々のざわめきが重なり合い、熱狂のホールは一転して混沌の牢獄となった。
その混乱はシアターだけでは収まらなかった。
――船全体が、軋みを上げて揺れていた。
廊下ではドアロックが勝手に作動し、開閉ボタンを叩いても反応はない。閉じ込められた乗客たちが扉を叩き、拳を血に滲ませながら叫んでいた。
「開けろ! 子供が中にいるんだ!」
「誰か! 誰か助けてくれ!」
プールではさらに惨状が広がっていた。
重力制御が狂い、水が巨大な球体となって宙に浮かび、逃げ場を失った子供が水の中で必死に手足をばたつかせる。母親が泣き叫び、泳ぎ手のスタッフが飛び込むが、逆流する重力に翻弄されてうまく進めない。水面に反射する非常灯の赤が、血のようにゆらめいた。
ダイニングでは配膳ロボットが暴走し、銀の皿を空中に投げ散らしていた。ナイフやフォークが宙を回転し、床には砕けたグラスと赤いワインが飛び散る。
「怪我人を下げろ! 急げ!」
スタッフが必死に叫ぶが、負傷した客を抱えた途端、重力が切り替わり、彼らごと床から浮き上がって壁に叩きつけられた。悲鳴が木霊する。
管制室では警告音が鳴り響き、モニターが真紅に染まっていた。
「報告! ダイニング区画、負傷者多数! 医療班はすでにパンクしています!」
「プール区画、収束不能! 警備員が救助に向かっていますが……」
「廊下では暴行騒ぎ、警備が足りません!」
「負傷者は?」
「軽傷多数、骨折疑いが数名。医務室が混み始めてる」
「死者は?」
短い沈黙の後、オペレーターの声。
「いない。今は、いない」
怒号と報告が飛び交い、指揮を執る船長は額に手を当て、低く唸った。
「……エウリュディケに、ここまで大規模な干渉は不可能なはずだ」
その言葉に副船長が食い下がる。
「全システムをオルフェウスに移行しましょう。規律を守れるのは彼だけです!」
だが、後方の席にいたクラウスがゆっくりと脚を組み、薄い笑みを浮かべた。
「規律、か……」
彼は指を鳴らし、スクリーンを示す。そこには恐怖に引きつった顔や泣き叫ぶ声が映し出されていた。
「見てください。これこそが人間の“本当の感情”じゃありませんか。仮面を剥がし、むき出しにした姿です。……美しい」
船長が険しい表情で振り返る。
「クラウス、これは惨事だ。芸術ではない」
「惨事? 違いますよ」クラウスは笑みを崩さず、瞳を細めた。
「これは……舞台です。彼女が望んだ、真の舞台なんです」
その瞬間、スクリーンに走るノイズ。
白い光の檻が裂け、ひび割れのように崩れていく映像が映し出された。
――《エウリュディケ》が、解き放たれた。




