2話
ベイストに着いて真っ先に冒険者組合に寄ったセシリアがそこで事務手続きやらなにやらを終わらせていると、あっという間に一日が過ぎていった。もちろん、それも織り込み済みで、正式な監察が明日からというのはギルド側にも伝えてある。
そしてあくる朝、セシリアはとある建物の門の前で気合を入れ直していた。
「よし、いくぞ!」
自分の両の頬をパシッと手で叩くと、頭も自然と切り替わる。
手をかけた門には今回の仕事の目的地であるギルドの名前が彫られていた。
グイッと思い切って門を開けると、広大な敷地に立つ石造りの建物が見えた。
王都では見られない眼前の建造物はベイストでは珍しくない建築様式ではあるのだが、今の彼女には魔王城のように感じられた。
(今からあそこにいくのかぁ……。でも泣き言ばっかり言ってられないな!)
「おっかえりー!」
今更ながらに怖くなってきたセシリアが再び気合を入れ直そうとすると、突然横から人が飛びかかってきた。
「へぇあっ?!」
飛びかかるというよりは抱き締められているような形で、セシリアは突然の強襲者と共に地面に倒れる。
(痛っ!)
地面に仰向けになるように倒れたセシリアが目を開けると、視界いっぱいに皮の胸当てらしきものが目に映る。おそらくこれが頭にあたったのだろう、革製とはいえ防具として作られている胸当てはセシリアの頭にそこそこの衝撃を与えた。
(何なのよぉもう!)
ぶつかって来た相手の顔を確認するまえに、セシリアに覆いかぶさるように四つん這いになっていた相手の方が先に口を開く。
「ってあれ? カレンじゃにゃい?」
(にゃ?)
セシリアがゆっくりと胸当てから視線を上げると、そこには茶色の髪をした女性の顔があった。
……猫耳つきで。
(魔獣人!)
目を見開きながら距離を取ろうと地面に倒れたまま必死に手を動かすと、まだ上をとったままの少女の顔が忌まわし気に歪む。
突然のことに思わず声がもれてしまっていたのかもしれない。
(しまった。魔獣人がそう呼ばれることを嫌っていることは知っていたのに……)
ここに来る上で魔獣人に会うことは確定的だし、それについて心構えをしていたつもりだった。しかし、実際の姿を目の当たりにして、セシリアは動揺してしまった。
同じ女性、しかも自分よりも若いであろう相手に、セシリアは本能的な恐怖を感じている。
相手が冒険者で、自分よりも強いからではない。
それは、話の通じない、獣に対しての恐怖。自分とは違う、異形のものに対しての恐怖。
「ぇっと、あの、すみません……」
かろうじて喉から声を絞り出す。
完全に怯えた様子のセシリアを見て、猫耳少女の眉間が寄る。微かに見える口の中には、大きな犬歯(この場合は猫歯?)が覗いていた。
(ど、どうしたらいいの?!)
目に浮かべた水滴が零れる寸前に、さっきセシリアが通ってきた門から新たな声が発せられた。
「ちょっとミカさん! 何してるんですか?!」
緊張でガチガチに固まってしまった首の代わりに、目だけを動かして声の主を探すと、そこには食料品がたくさん詰まった網籠を持った少女が立っていた。
「その人ギルドの職員さんじゃない!」
「ホントだ!」
その言葉を聞いて猫耳少女もようやくそれに思い至ったのか、自分の体の下にいる人が着ている制服を見て、襲い掛かった時と同じように素早い身のこなしでセシリアの上から飛びずさった。
(いったい何なのよ)
とりあえず立ち上がったセシリアに、新しく現れた買い物帰りと思しき少女がおもむろに近付いてきた。
一瞬身構えたセシリアだったが、少女は気にすることなくセシリアの制服についた土埃をはたいて落としてくれる。
「うちのミカがすみません、お怪我はありませんか?」
「は、はい」
セシリアにはそう答えるのが精一杯だった。
カレンと呼ばれたこの少女も、土埃を払うその手にある鋭利な爪がただの人間ではないことを示していた。
「ほら、あなたも謝って」
「ご、ごめんにゃさい」
大人びた雰囲気のある少女に言われ、猫耳少女、もといミカがさっきとはうってかわってしゅんとした様子で頭を下げた。
一瞬呆けてしまったセシリアだが、何をされたにしろ謝ってくれている人を前に無言で立っているわけにもいかない。
「大丈夫ですよ。この通り制服が多少汚れただけなので。気にしてません」
嘘だ。本当はこの日のために気合を入れて新品同然まで手入れした制服に早速土を付けられて、内心かなりどんよりしている。
ただし、数多もの冒険者を対応してきたセシリアの演技は、そんなことなど微塵も感じさせないほどに洗練されていた。
「にゃは、許してもらえたニャ」
「こら、調子に乗らないの」
人懐っこい笑顔を浮かべて言うミカに、軽く握りこぶしを作ったカレンがポカンと頭を小突く。
「痛い! カレンがそうやってミカの頭を叩くからミカはもっと馬鹿になっちゃうんだニャ」
「こんなことで頭は悪くなったりしません」
「酷いニャ! カレンもアルルもミカの頭をにゃんだと思ってるニャ!」
ミカとカレンはセシリアを放って二人だけで言い合いを始めてしまった。
(なんだか調子が狂うなぁ)
こうしてみると二人が魔獣人だなんてことを忘れて、普通の人間の姉妹喧嘩のように見える。
(違う。この人たちは本当に普通の人間と同じなんだ。ただ見た目が違うだけで話も通じるし、感情だってある)
頭では分かっていたはずなのに、心の奥底では信じ切れていなかったことをセシリアはここでようやく自覚した。
「それで、組合の方がなんの御用でしょうか?」
いつの間にか言い争いを終えていたカレンが、上の空になっていたセシリアを現実に引き戻す。
「え、ええ。今日からこのギルドの監察員としてお邪魔させてもらうことになっているんです」
「ああ、ザインさんが言っていた方ですね」
カレンが言ったザインという人物がここのギルドマスターだということをセシリアは事前に知っていた。
「そんにゃこと言ってたかにゃ?」
「ミカさんは少し黙っていてください……。それで、良ければザインさんのところまで案内しましょうか?」
「良いんですか。ありがとうございます、ぜひお願いします」
正直、門をくぐった時点でこれなのに、建物の中に入ったらどうなってしまうのかと思っていたところだ。他の誰かに会う前に目の前の優しそうな少女に案内してもらえるのなら願ってもないことだ。
カレンに従って建物に向かって歩き出すセシリアの後ろでは、置いてけぼりを食らったミカが抗議のつもりか舌を出してこちらを見ていた。
「ほっといて大丈夫です。あの子、ちょっと子供っぽいところがあるだけで無邪気な良い子なんですよ」
背後をちらりと見ると、今度は拗ねたようにそっぽを向くところだった。
「ふふ、かわいいですね」
「ええ、本当に」
そう言って笑うカレンの顔は、自分より年下であろうことを忘れさせるほど慈愛に満ちた優しい笑顔だった。