第32話【追求】2/2
その夜、愛美は再びアンナローグとなって、ちづるの家を目指した。
ちづると、もう一度楽しい会話をしたかった。
交換日記を交わし、日々の想いを伝え合いたかった。
そして何より、病魔と闘う彼女を勇気付け、少しでも救ってあげたかった。
(お願い……お願いだから、そこにいて、ちづるさん!)
何度も何度も、心の中で念じる。
もはやそれ以外、頭に浮かんで来るものはない。
ステルスモードをONにする事をも、忘れさせるほどに。
見慣れた住宅街の上空に辿り着き、いつもの家を探す。
向坂家の二階は、相変わらず雨戸が閉じられていたが、何故か一室だけ開かれていた。
ちづるの部屋だ。
「ちづるさん!」
ローグは、何の躊躇もなく、その窓の中を覗きこんだ。
「お姉ちゃん!」
懐かしい声が聞こえてきた。
暗い部屋の中で、見慣れたパジャマ姿のちづるが佇んでいる。
まるでアンナローグがやってくるのがわかっていたかのように、あらかじめ窓の方に視線を向けていた。
その声を聞き、愛美の心に、温かなものが広がっていく。
「ああ、ちづるさん!
良かった!! もう、お会いできないかと思っていました」
「ご、ごめんなさい!」
「いいえ、いいんです!
ちづるさんがいらっしゃれば、それだけで」
「どうしたの? なんだか、とっても悲しそうな顔してるよ?」
「いえ、そんなことは」
そう言いながらも、アンナローグは、今にも泣き出しそうな表情だ。
「ご、ごめんね?
身体の具合が悪くて、しばらく会えなかったから、怒っちゃった?」
不安げな表情を浮かべ、すがるように尋ねるちづるに、アンナローグはただ、首を横に振るのが精一杯だった。
「今日のお昼に、こちらにお邪魔しました」
「えっ」
その言葉に、ちづるの表情が変わる。
「お母様にお会いしました。
それで、ちづるさんの事を……伺いました」
言葉が詰まりそうになるが、なんとか言い切る。
「ほ、本当に、来たの?
私、眠ってたから気付かなかったよ!
やだなあ、ママ、起こしてくれれば良かったのに……」
懸命に明るくおどけようとするちづるの声が、だんだんか細くなっていく。
俯くその仕草に、アンナローグは、更に言葉を詰まらせた。
「ちづるさん、一つだけ、答えて頂けますか?」
「う、うん、なぁに?」
「ちづるさんは、人を――襲ったことが、おありですか?」
「!」
アンナローグの、常軌を逸した質問。
普通であるならば、唐突にそんな事を尋ねられたら、困惑するか苦笑いを浮かべるか、或いは逆に尋ね返すだろう。
「何故、そんなことを聞くのか?」と。
それらの反応は、尋ねた本人が一番期待しているリアクションだ。
だが、千鶴の反応は、そのどれでもなかった。
言葉を失い、表情が強張る。
(ちづるさん、貴方は、やはり……)
昼間に未来達が行ったミーティングの内容は、夕方になり、愛美にも伝えられている。
未来が推測したことは、皮肉にも的中してしまったようだ。
「ちづるさん」
「う、うん?」
「貴方は、私にとって、本当のお友達です。
私が、初めて自分だけの力で作れたお友達……大切な人でした」
「ど、どうしたの、お姉ちゃん?
私も、そうだよ? お姉ちゃんが――」
「でも私は、お友達だから。
お友達だからこそ、これ以上……貴方のことを知りたくない」
「お姉ちゃん?」
アンナローグの言葉が、二人の間の空気を大きく変える。
驚愕の表情で後ずさるちづるに、ただ無言で立ち尽くすしかない。
それが、今の彼女にできる精一杯の反応だった。
「ママが言った事、本気にした?
ママね、いつもあんななの。
気に入らない人には、いつも適当なことを言っちゃうんだもん、困っちゃうよ」
身振り手振りを加え、懸命にフォローを入れる。
「ホントだよ、私、ちゃんと生きてここにいるもん!
ママには、私からちゃんと言っておくから!」
千鶴のその言葉が、決定打だった。
熱い涙が流れる。
もう、止められなかった。
「貴方が亡くなられているとお母様から伺ったお話を、私、まだ……していません」
「あ」
会話が、そこで途切れる。
その瞬間、千鶴の雰囲気が、あからさまに豹変した。
だがそれでも、アンナローグは恐怖と悲しみを振り切って、懸命に話しかけた。
「ちづるさんが、たとえ何であったとしても、私は……ずっと、貴方の友達です」
「待って」
「でも、出来ることなら、もっと早く、お逢いしたかったです」
「待ってよぅ」
「貴方がまだ生きている時に、逢いたかった」
それだけ言い残すと、アンナローグは、そのまま上空へ飛び去った。
「待って! 待って、千鶴!!」
ガシャ――ン!
衝撃で、食器棚のガラスが割れる。
おそらく中の食器も、何枚か割れてしまっただろう。
「どうして、お姉ちゃんにあんな事を言ったの?」
「千鶴……お前は、もう、もう人と会う事はできないのよ!
そんな身体になってしまったのだから!!」
「わかってるよ。
だから、夜に会ってたのに。
お姉ちゃんが来るの、楽しみにしてたのに」
うろたえる母親を追い詰め、千鶴は、益々殺気を漲らせる。
「千鶴、お願いだから聞いて頂戴!
あなたはね、もう、普通の人じゃないんだから。
誰かにに怪しまれたら、もうここで生活できなくなるのよ?!」
その言葉に反応して、千鶴の右手が、突然倍の長さに伸びる。
ムチのようにしなった腕が、母親の顔面を強く弾いた。
バキィッ!!
「きゃあっ!!」
もんどり打って倒れた母親は、千鶴の発する殺気に無理矢理意識を向かされ、一瞬のうちに激しい恐怖に支配された。
「あんなコと、言わなけレバ ヨカタ のに」
「ゆ、許して……ゆるして、ち、千鶴」
どちゃっ! という鈍い音と共に、千鶴の右腕が更に倍に伸びる。
「お姉ちゃんがおうちのナカに来れば、ヨカったのに」
「千鶴……千鶴、わかったわ、わかったから。
ごめんなさい、もう、二度とこんなことはしないから! ゆ、許して頂戴……」
「もう、ママ。
食べちゃウ」
「や、やめて……止めて!
ママまで、ママまで食べちゃったら、あんた、この先どうやって生きていくの?!」
完全に腰が抜け、もう立てなくなってしまった母親は、それでも必死の想いで呼びかけた。
だが――
「それは大丈夫だよ。
あたし達が、なんとかしてあげるから♪」
明かりの消えた廊下の方から、もう一人“別な少女の声”が聞こえてきた。
「お母さん?
千鶴ちゃんはね、もう人間じゃないのよぉ?
人間を、越えちゃったの♪
だから、もう人間社会では、生きて行けないの☆
あたし達みたいに、ね!」
声の主は、この場にそぐわない異様な明るさで呼びかけてくる。
その、あまりに場違いな態度が、逆に言い知れぬ程の不気味さを、母親に感じさせた。
廊下から居間に入り込んできたのは、黒いパーカーをまとった少女だった。
すっぽり被ったフードのせいで、目元はよくわからないが、この状況下で明らかに笑っている。
少女は、親しげに千鶴の肩に手を置き、寄り添いながら話しかける。
「ねえお母さん?
お父さんが持ってきたカプセル、見つかったぁ?」
その質問に、母親は、震える手でキッチンのテーブルを指差した。
そこには、蓋の開いた半透明の円筒型のケースが置かれている。
それを見た少女の目が、フードの奥で赤く煌いた。
「よかったぁ、これこれ!
ありがとうね、お母さん♪
お礼に、命だけは助けてあげるよ。
――このまま、ずっと誰にも言わないでいたら、だけどね」
最後の一言に、強い殺気を込めて威嚇する。
もはや、母親は完全に怯え切り、何も言えなくなってしまった。
そんな母親を、既に人間とは思えないような獰猛な目で睨みつけると、千鶴は黒いパーカーの少女の方を向いた。
「ねえ、千鶴?
あんたが入ってたコレ、見つかったから!
もう、この家に居る必要、なくなったねぇ~」
「そ、そんな……」
恐怖に震えながらも、母親は、少女の言葉を否定しようとする。
だが、当の本人は、
「お姉ちゃんが来れば……お姉ちゃんが、来てクレたら。
おいシク 食べラレタのニイィィィいぃぃぃいいイイ!!!!」
千鶴の声は、もはや、彼女のものではなくなっていた。
野獣の咆哮にも似た、おぞましい怪物のそれと化している。
その雄たけびを聞いていた黒いパーカーの少女は、満足そうに頷くと、携帯電話を取り出した。




