第3話【潜入】2/3
朝食を準備し、まずは凱の部屋へ届ける。
しかし、ワゴンを押しながら廊下を進む愛美の頭の中では、先ほどの婦人の言葉が繰り返されていた。
(奥様は、いったい、何を言いたかったんだろう?
私達の、新しい生活って、どういうことなんだろう?)
いつしか、歩みが止まる。
廊下の真ん中に佇んだまま、愛美は、答えの出ない問いを、何度も自身に投げかけていた。
「どうしたの、愛美ちゃん?」
「ひぇっ?!」
「ひぇっ、て! さっきから声かけてたのに~」
「え? も、申し訳ありません!
おはようございます、凱さん!」
「おっはよ~!
あ、もしかしてこれ、朝飯ですかぁ? あざーす!!」
飛び上がるような勢いで喜ぶ凱を尻目に、愛美は未だ戸惑いを隠せずにいた。
「ごっそーさんでした! いやー美味かったよ!
愛美ちゃん、本当にありがとう」
「どういたしまして。
お口に合って何よりです」
本当に美味しそうな凱の食べっぷりに、愛美はつい微笑んでしまう。
そんなひとときが、先の思いを少しだけ洗い流してくれた気がした。
食器を片付けながら、愛美は、理沙に命じられていたことを凱に伝える。
「おおぅ、退去勧告かぁ」
「そういうつもりではないのですが」
「でも、そうだよね。
いきなり見ず知らずの者が来て一泊させろー、なんて非常識だもんね。
わかった、準備整えたらすぐここを出るから」
「ご理解頂きまして、ありがとうございます、凱さん!」
深々と頭を下げる愛美に、凱は、急に真面目な顔つきになって話しかけた。
「急な話ですまないが、愛美ちゃん」
「はい、なんでしょうか?」
「俺と一緒に、ここを出ないか?」
「――えっ?!」
突然の申し出に、一瞬パニックになる。
まん丸く目を剥いて驚く愛美の表情に、凱はつい苦笑した。
「そ、それは、どういう意味でしょうか?」
「簡単に話すとさ。
実は、君のことをずっと捜してる人が居るんだ」
「わ、私をですか?
いったい、何処に?」
「東京」
「とう……きょう……」
「君のフルネームは、千葉愛美――間違いないよね?」
「どうして、私の苗字をご存知なんですか?!」
質問には答えず、凱は肩をすくめて「さぁね?」という態度を見せる。
「今すぐ、この場で答えてくれとは言わない。
だけど、考えてくれ。
君には、事実はとても大事な使命がある。
そして俺には、それを伝える義務がある」
「お、仰っている意味が、分かりかねます」
先ほどまでのチャラけた雰囲気が消失し、凱は、まるで別人のような態度で愛美に呼びかけた。
とても、冗談で言っているようには思えない。
その時愛美は、朝礼での婦人の言葉を思い出した。
「わ、私にも、ここで奥様のお世話をする義務がございます。
ですので、凱さんと一緒に東京へ行くことは出来かねます」
「そうか」
「今のお話は、聞かなかったことにいたします。
では――」
ワゴンを押し、逃げるように部屋を飛び出す。
凱は、無言で愛美の後ろ姿を見送った。
(どういうことだろう?
私に、この屋敷を出ろって……そ、そんなこと、絶対に出来ない!
でも、どうして凱さんは、そんな話をいきなり?
私の、使命って……?)
廊下の途中で立ち止まり、先程の凱の言葉を思い返した。
一時間後。
「どうも、お世話になりゃーしたぁ!
本当にありがとうございます!
ね、ね、山奥のメイド館の出来事、動画ん中で話しちゃダメ?」
「ダメ! いいから、とっとと行きなさいよ!」
「冷たいなあ、もえぎちゃんはぁ」
「馴れ馴れしく呼ばないでったら!」
玄関口で愛美ともえぎ、夢乃に見送られ、凱は出て行こうとしていた。
「じゃあ、また遊びにくるよ♪」
「いや、それは……」
「じゃあ、今度来る時は手土産でも持って来てよ。
って、あっそうそう、土産といえば、ハイこれ!」
そう言うと、夢乃は小さな紙袋を取り出し、凱に突きつけた。
「これ、何? まさか本当にお土産くれんの?」
「あんたが使った部屋の脱衣場に落ちてたもの」
「しまった! 俺のパンツかぁ!」
二人の掛け合いに、もえぎと愛美は、つい吹き出してしまう。
そんなこんなで適当な挨拶を交わした後、凱は割と素直に、麓へ向かう道へと向かって行った。
彼の姿が見えなくなったと同時に、三人は、ため息を吐いた。
「とんだお客だったわね~」
「困ったもんですよ、ホントにもう!
アイツ、マジで何しに来たのよ」
「でも、これで無事にご帰宅出来るでしょうから、良かったですね」
「愛美、あんたって、本当にお人好しよね~」
「そ、そうなんですか?!」
しばらく談笑した後、三人は館の中へと戻っていった。
その途中、夢乃が凱の去っていった方を振り向いているのに気付き、愛美は声をかけた。
「どうされたのですか?」
「え? ううん、なんでもない」
「あの、つかぬことをおうかがいしても?」
「何よ、あらたまって」
「夢乃さん、凱さんと、お知り合いなんですか?」
「えっ? どうして?」
「いえ、何といいますか……初めて会った者同士という気がしなくって」
「昔ね、ちょっとだけ一緒に暮らしてたことがあるの」
「 え え っ ?! 」
驚きの声があまりに大き過ぎ、夢乃は慌てて愛美の口を手で塞いだ。
「冗談、冗談だって!
あんなおチャラけ野郎と知り合いなんて、とんだ願い下げだよ!」
「あ、ああ、そうなんですかぁ。
もう、びっくりさせないでください~」
「びっくりしたのは、こっちだってば」
玄関ホールでの立ち話を終え、二人はそれぞれの持ち場へと移動を始める。
井村邸の一日が、本格的に始まろうとしていた。
だが愛美の心の中には、先程凱に言われた言葉が、何度もリフレインしていた。
『俺と一緒に、ここを出ないか?』
(でも、凱さんは何故、初対面の私にあんなことを……?)