第18話【拉麺】3/3
――五分後。
「ご馳走様」
そう言い残し、男は、勝利の笑みを湛えて席を立った。
それとほぼ同時に、他の客も店を出ようとする。
いまだに席に座っている“入れ替わり前の客”は、ありさと愛美のみだ。
しかも愛美は、あるものを箸で摘み、呆然としていた。
「ありささん、これは――」
「豚。所謂“チャーシュー”」
「ええ、これ、もう五個目なんですけど」
「おお……あたしもだ」
「まだ、入ってますよ。
いったい幾つ、入れて頂けたのでしょう?」
「無だ、愛美。
無になるんだ。
考えたら、負けだ」
「はい」
既に、二人の言葉に感情はこもっていない。
脳に背脂が回り始め、意識は朦朧とし始めている。
だが、ラーメンは、まだ半分も減っていない。
一方のありさは、三分の二程度を食べ終え、既にうんざりといった顔つきになっている。
ジト目が、愛美に突き刺さった。
「愛美ぃ~、あんたぁ、全然食べてないじゃないかあ」
「た、食べてます! 食べてるんですけど、どんどん増えてくるんです!」
「んなわけあるかい……
このままじゃ、あたし達この店に、もう来れなくなっちまうよ」
「な、何故ですか?!」
「お店のサービスを無にする行為は、絶対に許されざることなのよ。
頼んだ以上、責任取って全部食う。
これが絶対の掟なんだよ……」
「な、何故そんな過酷な掟のあるお店に……」
「あんたがマシマシマシなんか頼むからだろうがぁ!」
「あ、ありささんだって、同じの頼んだじゃないですかぁ~!」
「お客さん、すみませんが、静かにしてもらえませんか?」
「「 ご、ごめんなさい…… 」」
もはや、それは勝負にもなっていなかった。
ありさが完飲したのは、それから五分後。
そして愛美は、七枚目の豚を平らげた時点で――ギブアップした。
宇宙が、見えた。
「よぉ今川っち」
ここは地下迷宮。
もう結構遅い時間にも関わらず、各部署ではオペレーター達が詰めているようだ。
今日何個目かわからないハンバーガーをパクつきながら、今川は無言で手を挙げ、凱に挨拶した。
「ありゃ、もう食ってたか。
そりゃ残念」
「モグ……え、なんかあったんですか?」
「いやさ、勇次も誘ってラーメンても食いに行かないかって、誘いに来たんだが」
「あ~! 大丈夫っすよ!
俺、まだ全然入りますから!」
そう言うと、飛び跳ねるような勢いで立ち上がる。
そんな態度に苦笑いを浮かべると、凱は、上のフロアに居る勇次に大きな声で呼びかけた。
「んで、今日はどこ行きます?
せっかくなんで、現場確認兼ねて中目黒の“アレ”とか?」
「いやー、あそこは車ではちょっとなあ」
「いいじゃないっすか、ナイトシェイドに、その辺適当に周回してもらって」
「ああ、それもいいなあ。
って、この時間から“次郎”って、随分濃すぎじゃねえか?」
「そうっすかね?
あ、でも凱さんや勇次さんみたいに、お年を召した方には辛いっすか? ワラ」
「だからさ、そういうの口に出してわざわざ言うか?」
笑いながら、今川の鼻を摘み上げる。
「いやーしかし、アイツらと一緒に居ると、どうしてもこう、俗っぽいもんが無性に食べたくなることがあってさ」
「ああ、舞衣ちゃんとメグちゃん、めっちゃ凱さんの世話焼いてくれますからねー」
ゲス顔で凱を見つめる今川に、凱は顔を赤らめて咳払いをする。
「まあ、でもそうなんだよなあ。
毎食、手の込んだ料理作ってくれるし、これまた美味いから文句はないんだけど」
「もうすっかり、どこにお嫁にやっても大丈夫って感じじゃないっすかー」
今川のその言葉に、凱は一瞬ムッとしたが、すぐに持ち直す。
「まー、でもまだ高校生だしなあ。
それよりまず、彼氏作れやって話だわ」
「凱さん居るんだし、当分彼氏作る気にならんでしょ、あの二人は」
「かもなあ…。いったい、いくつになったら兄貴離れしてくれるんかなって」
「ノロケっすか、ノロケっすね!
彼女イナイ俺には、羨まけしからん話っすよ、ソレ」
「妹の話でノロケ扱いされちゃたまんねぇな!
まあでも……」
「妹ったって、血のつながりないんだから、結婚だっていけ……って、あっ」
そこまで言って、今川は思わず口を手で塞いだ。
「す、すみません凱さん! 俺……」
「気にすんな。俺も気にしてない」
ぺこぺこ頭を下げまくる今川の頭をとんとんと叩き、凱は苦笑した。
「でもホント、妹さん達にめっちゃ愛されてますよね、凱さんてば」
「ははは……」
今川の冷やかしに、凱は頭を掻いて照れる。
そんなこんなしているうちに、勇次が上のフロアから降りてきた。
帰り支度をしていたようで、トレードマークの白衣を身に付けていない。
「すまんが、ついでに送ってくれないか」
「ああ、いいぜ。
それで、何処行く? ラーメン屋行きたいんだけど、どうよ」
「うむ、構わん。
俺もしばらく食ってなかったからな」
「この前、カップ麺食ってましたけどね」
「そうだ、あのコラボ麺、ハズレだったぞ。
今川、注意しろ。味が違いすぎるにも程があった。滅茶苦茶しょっぱいしな」
「げっ! マジっすか!
俺、明日買おうと思ってたのにぃ!」
「んで~、どうすんだ?」
先の事件の緊張が解れたせいか、三人はくだらない雑談をしながら、エレベーターへ向かっていく。
通り道の端末に座っているオペレーター達の、冷ややかな視線に気付くことなく。
なんだかんだと議論を重ねた結果、やはり三人は、目黒にある黄色に黒字の看板の某有名店に向かうことにした。
「凱さん、どんだけ行きます?」
「俺は……そうだな、大に豚Wかな」
「やるじゃないっすか! 俺、大盛にマシマシかましますよー?
勇次さんは?」
「アブラカラメ野菜全部マシマシマシ」
エレベーターの中に、凱と今川の笑い声が響いた。
「い、生きてる?」
「……ふぁい……」
「だから、忠告したやん。
なんで、あんな注文を……」
「す、すみません……何がなんだか、わからなくなってしまって、つい」
「アンタ、あたしが居たからいいようなものの……ゲップ」
「こ、このお詫びは、いつか必ず……ゲップ」
「あ、歩ける?」
「すみません、もう少しだけ、休ませてください……」
「り、了解」
ここは、先程とは違う最寄の公園。
すっかり暗くなり、街灯の光も届かないベンチで、愛美とありさは転覆していた。
そびえ立つ“塔”。
大海に沈む古代遺跡を思わせる、屈強で巨大な“塊”。
うねりを上げ、必死の攻略をも拒み胃袋を攻め立てる“太きもの”。
更に、そんな猛者達に無限のバフ効果を付与する“白きもの”。
そして、そんな物達を包み込み、塩辛い衝撃を容赦なく加えてくる“暗き海”。
愛美は、当分、もやしを見たくないと思った。
「こりゃあ、明日の朝ごはんは要らないかも、ね。タハハ」
「も、申し訳ありませ……うっぷ。
後始末まで、お願いしちゃって……」
「あの、愛美の隣に座った奴の、勝ち誇った顔がムカついたからさ……」
「ま、またそんな……」
酒に酔ったわけでもないのに、まともに身体を動かすことすら出来なくなった二人は、その後もしばらく公園の一角に留まり、アパートに帰り着いたのは二時間後だった。
もはや完全に、あの公園で交わした話のことなど、頭から消え失せていた。




