第10話【出現】2/2
そこは、まるで昭和の時代からずっと残っているかのような、年代を感じさせる空間。
無論、愛美は昭和の概念など持ち合わせてはいないのだが、何故かそんな感慨を抱いてしまう。
他の建物のせいで、ビル自体が少々影になっているせいもあってなのか、階段スペースには古ぼけた照明が灯っていた。
分厚い木製の手すりに手をかけながら、少し角度がきつい階段を、ゆっくり上っていく。
お世辞にも広いとはいえない階段の踊り場、その左側に無骨な鉄製のドアがあり、テナントのフロアに繋がっている構造のようだ。
一階は、どこかの会社の営業所のようで、しっかりドアは閉じられている。
二階、三階と昇っていくが、相変わらず人が居る気配は全くなく、むしろ電灯が点いていることの方が不思議に思える程だ。
四階の踊り場に辿り着いた瞬間、愛美は、強烈な違和感に襲われた。
(これは……)
店は、開いていた。
開け放たれたドアは、カラフルかつ嫌味にならない程度の適度な装飾を施され、本来の無骨さは成りを潜めている。
表に出ていた看板と同じようなものがドアの前に添えられ、入り口には薄いヴェールが掛けられている。
店内からは、耳に心地良いBGMが適度な音量で聞こえてくる。
今にも、中から店員が声をかけてきそうな雰囲気だ。
ここだけ、他の階の踊り場と雰囲気が違う。
無論、それは精一杯頑張っただろう店の装飾のせいなのは、言うまでもないだろう。
だがそれでも、ここには強烈な、別種の違和感がある。
人が動けば必然的に発生するだろう些細な物音すら、中から全く聞こえてこない。
その上、もう薄暗くなり始めているのも関わらず、照明が点いていない。
加えて、更に何か――店内が、全体的に白っぽく見えるのだ。
愛美は、ヴェールを払い上げ、店内を覗いてみた。
「――えっ?」
目の前に広がる光景に、愛美は、思わず声を漏らした。
やや狭いフロア内に、適度な間隔を設けて配置された客席・テーブル。
決して大きくはないものの、その分横幅を取り充分な空間を維持しているカウンター席。
ある程度中を覗けるような構造になっている厨房と、様々なフルーツやドリンクの容器が飾られているデッキ。
壁に飾られた風景画や、アクセサリー、コルクボード。
お客用のハンガーを吊るしたスタンド、そして本棚。
これらが全て、無数の白い「何か」で、覆い尽くされていた。
「な、何? コレ?!」
天井から壁、壁から床。
或いは、天井から直接床まで。
あらゆる角度で、真っ白な柱のようなものが縦横無尽に伸びている。
それが“細かな糸状の繊維”の集合体であることに、愛美はすぐ気付いた。
しかし、一体何がどうなればこんなことになるのか、全く予想がつかない。
(舞衣さんと恵さんに、すぐ伝えなきゃ!)
咄嗟にそう考えた愛美は、踵を返そうとして、はたと止まる。
(あれ? なんだか……)
その時、愛美はもう一つの異常に気付いた。
中から、何か異臭がする。
何かが焼け焦げているような。
(ま、まさか、火事?!)
脳裏に、業火に包まれる井村邸の姿が浮かび上がる。
無意識に店から遠ざかろうとしていた愛美は、思い返し、店内の様子をもう一度確認してみることにした。
臭いは、厨房の方から漂ってくるようだ。
「えっと……どうしよう」
もしこれが火事なら、二人の元へ戻っている余裕はない。
そう考えた愛美は、ぐっと息を飲み込むと、バッグをその場に置いた。
糸の柱は、店内を覆い尽してはいるものの、隙間を通ればなんとか奥までは行けそうだ。
弾力のある柱は、硬さがあるとはいえ多少は融通が利くようで、愛美くらいの体格なら無理やり隙間を潜り抜けられそうだ。
恐々店内に入り込むと、愛美は糸の柱の隙間を潜り抜けるようにして、臭いのする方へと少しずつ進んで行った。
(……うちょ、ちょっ、せ、狭っ!)
もしかしたら、子供でもきついかもしれない隙間に、無理やり体をねじ込む。
羽織っていたカーディガンを途中で脱ぎ捨てると、愛美は器用に身体をくねらせ、少しずつ厨房の方へ進んで行った。
(よかった、火は、見えない! でも)
あの時に感じた、炎の熱が伝わってくる独特の感覚はなく、ホッと胸を撫で下ろした。
だが今の位置では、柱が邪魔して具体的な状況までは窺えない。
あともう少しで、カウンターデッキの向こう側に渡れる。
そうすれば、原因が特定出来るかも? と愛美は考えた。
(今、火が出てなくても、もしかしたら引火直前かもしれない。
どうにかして、確かめなければ!)
愛美の胸中には、あの火災の時に味わった重い絶望感が去来していた。
それが、今の彼女を突き動かる原動力にもなっている。
もう、あの悲劇を繰り返さないように、と。
いつしか、糸の柱が大きく震え出している事にも気付かずに――
「愛美さん、遅いわね」
「携帯にかけてみる?」
「いえ、愛美さんはスマホを持ってないから」
「あー、そうかあ!
じゃあ、メグ見て来るね」
「あ、待って」
聴き慣れたエンジン音が、響いてくる。
一台の黒いスポーツカーが、狭い道を抜けて相模姉妹の許へやって来た。
「あ、ナイトシェイドだ! おーいおーい!」
「ナイトシェイド、予定より早いですが、そろそろ帰宅しようと思います」
『承知しました、舞衣様。
ところで、愛美様は――』
ナイトシェイドの問いに、愛美がビルに入っていったことを告げる。
そして、もう結構時間が経ったのに、戻って来ないことも。
と、その時、車内で警報のような音が鳴った。
同時に、両方のドアが自動的に開く。
『舞衣様、恵様。
今すぐお乗りください』
「えっ? でも、まだ愛美ちゃんが」
『このビル内で、正体不明の大型の物体が移動しているのを検知しました。
愛美様の位置から、そう遠くありません』
「えっ?!」
慌ててナイトシェイドの助手席に乗り込んだ舞衣は、ダッシュボードの上に配置された小型機器のスイッチに触れる。
すると、舞衣の膝上辺りに、青い光のラインで形作られたキーボードが出現した。
舞衣は、フロントウィンドウを見つめながら、そのヴァーチャルキーボードを操作する。
今まで町並みを映していたフロントウィンドウがブラックアウトし、雑居ビルのスキャン画面が表示された。
四階の店内に、愛美と思われる人型のシルエットが表示されているが、それ以外には誰も居ない。
そしてその真上、五階の窓際には、明らかに愛美の数倍はあるだろう大きさの、異形の影が表示されていた。
そのシルエットは、舞衣達の位置から反対側に当たる窓へとスピーディに移動している。
ここからでは視認出来ないが、スキャンマップを見る限り、そこには窓があるようだ。
「これは?!」
「お姉ちゃん! もしかして、こ、これって?!」
舞衣と恵は、思わず顔を見合わせた。
画面に映る愛美の大きさから比較する限り、この物体は、どう贔屓目に見ても全長3メートル近くはある。
しかも、形状が人間のそれではない。
どちらかというと「虫」のように見えるが、当然そんなものが東京どころか、この地上に居よう筈もない。
「まさか――“XENO”?!」
「えええっ?! つ、遂に出ちゃったの?!
どど、どうしよう! お姉ちゃん?!」
『“地下迷宮”に連絡いたします。
お二人は安全なところに――』
「待って! これまさか、愛美ちゃんの所に向かってない?!」
「あっ!」
恵の指摘通り、大きな異形のシルエットは、窓を伝って階下に下りていこうとしているようだ。
窓から愛美までの距離は、それぞれの大きさから察するに、さほど遠くない。
「いけない! ナイトシェイド、今すぐ蛭田さんに連絡を!」
『承知しました』
冷静な声で、ナイトシェイドが応える。
再び車内から降りた舞衣は、恵と共に、雑居ビルを見上げた。
「お姉ちゃん、もしかして、この辺がこんなに静かなのも――」
その呟きに、舞衣は無言で頷く。
『――どうした、何があった、相模?!』
車内から、勇次の声が聞こえてくる。
すかさず、舞衣はそれに呼びかけた。
「蛭田さん、大変です!
XENOと思われる者が、私達の近くに現れました!」
『なんだと?!
今、ナイトシェイドから資料が届いた。
これは、近くに……千葉愛美がいるのか?!』
「そうです! ですから、手遅れになる前に――」
そこまで言った後、舞衣は、すぅっと息を吸い、思い切るように告げた。
「アンナウィザード、アンナミスティックの実装許可と、転送のご準備をお願いします!」
「お、お姉ちゃん?!」
『正気か、相模?!』
恵と勇次が、同時に驚嘆の声を上げる。
だが、舞衣の表情は真剣そのものだ。
しかしそこに、もう一人別な者の声が割り込んだ。
『無理無理ムリ! マイちゃん、そりゃあムリだ!』
若い男の声に、姉妹が驚く。
「よっしーさん?!」
『メグちゃん! 何度も言うけどさ、オレ、よしもと、じゃないから!
あ・き・ち・か! 呼ぶなら、あっきーで!!』
「ふ、ふにゃあ! ごめんなさーい!」
「今川さん、無理というのは、どうしてですか?」
真剣な舞衣の言葉に、今川は少し声のトーンを下げて応える。
『そこ、めっちゃ狭い建物だろ?
そんな中に、アンナウィザードとか、どうやって入るんよ?
階段だって昇れないよ?』
「あ……」
舞衣は、思い返した。
アンナユニットは、内部に人間が搭乗する都合、その大きさはどうしても大型化する。
横幅ですら2メートル弱に及ぶため、こんな狭いビルに入ろうものなら、壁などたちまち崩れてしまうだろう。
『建物や周囲の状況から、外から援護するのも困難そうだ。
ってことは、“パワージグラット”も使えないぞ』
「た、確かに」
『今、勇次さんが愛美ちゃんに呼びかけている。
君達は、その場から離れて安全圏へ退避するんだ』
「で、でも、愛美さんが」
『ここは、アンナローグの機転に期待しよう。
今は、それしかない!』
先程までのチャラけた口調は消え、今川の声には緊張感が漲っている。
横で話を聞いていた恵は、少しうろたえながらも、今川に呼びかけた。
「ね、ねえ、よっs……」
『ギロッ!』
「ヒィ! あ、あっきーさん!!
あのね、提案があるんだけど」
『なんだい、メグちゃん?』
恵は一瞬舞衣の方を向き、アイコンタクトを求める。
その意味を既に分かっていたかのように、舞衣は、黙って頷きを返した。
「メグ達も、愛美ちゃんみたいに――アンナローグみたいな姿に、なれるかな?」




