第16話 京都ひぐらし
仕事は大変な時もあったけど基本的には楽しかった
店は連日のように混み
その日もみんなクタクタに疲れていた
ラストまでの吾妻さんも飛島さんも
すでにボロボロ状態
「さて帰ろっかなー」
と咲子さん
「ラストまでやってきなはれ!」
「イヤやわ、奥さん出てきはんねやろ? 仲良う頑張ってな〜」
「そら殺生でっせえ〜」
「帰ろ、帰ろー、コーちゃん、早よ着替えー、一緒に帰ろ〜かー」
「あっ!はあーい!」
同じくラストまでの
真由美さんも
「ちぇっ〜ズルいなー」
とつまんなそうだった
「チーフ、お先〜」
「お疲れ〜」
四条通りはたしかに
いつもより人通りが多かった
店を出ると釜風呂のような熱気がすぐに押し寄せた
「言うてもしゃあないけど、ホンマ暑うてかなんなあー」
四条大橋の上は
ヤンキーの車がびっしり停まっていた
ヤンキー達は
夕暮れの帰宅時間を狙ってここに群がり
車の窓という窓からパーマ頭を突き出して
足早に過ぎる女性達を恥ずかしげもなく物色していた
「ようやるわホンマに」
と咲子さん
「ナンパですか」
「またついて行きよるアホがおるさかいにー」
「はい」
センスのない改造をされ
センスのないペイントを施された
憐れなハイグレード車達が長い列を作っていた
橋の上は無風状態で
車はエンジンやタイヤから嫌な熱を発し続け
川面から立ち上る生臭い水蒸気と
排気ガスのせいで
余計蒸し暑さが増幅されていた
咲子さんはTシャツの袖をロールアップして
竹細工みたいな扇子で
形の良い胸元に風を送っていた
歩道が混んでいて
なかなか前に進まない
僕は咲子さんの使う
扇子が気になった
「それ変わってますね」
「あーこれ?白檀言うねん」
「ビャクダン?」
「ほら、ええ匂いするやろ」
クンクン‥
「キライな人もいてるけどな、植物から取れる香水みたいなもんやわ」
「へえー」
元は植物なのに
動物的な何かが刺激されるそんな感じの香りだ
なんというかその
アレだ
腋の匂いのような‥
「キライ?」
「いや、良い匂いです!」
何回も嗅ぎたくなる
クンクン‥
「うち、臭いやろ? ちょっと体臭が強いみたいやねん」
「え?そうですか?」
クンクン‥
「いやあー!ヤメてよ」
「あースイマセン」
やっぱり良い匂いだ
白檀じゃなく
“咲子さん”の方‥
「なんかつけてますよね?」
「オーデコロン?」
「なんか高そうな」
「高ないて、高かったらエエゆーもんでもないしな、これリバージュ言うねん」
「リバージュ、ですか」
φ(.. ;) メモメモ‥
「外国のですか」
「資生堂や」
「時間よ止まれですか」
「ゴールドラッシュ?あんま好きちゃうねん」
「僕もです!」
「せやわ!阪急行こか?時間かめへん?」
「ぜんぜんかめへんです」
橋のたもとはさらに渋滞
阪急前の歩道は
交差点で信号を待つ人々とデパートの前で待ち合わをする人々でごった返していた
どこからだろう
“ヒグラシ”がカナカナと鳴き始めた
ビルとビルの隙間から聞こえる
見ると高い壁に蝉が一匹
僕と咲子さんは密着してしまい汗ばんだ腕と腕が擦れ合った
繁華街のど真ん中
人いきれでむせ返った雑踏
咲子さんが放つ甘くやるせない芳香は
彼女の夏の夕暮れの体温と混じり合い
僕を落ち着かない気分にさせた
それは官能的な白檀の爽快で刺激的な香りより
ずっとずっと刹那的でなまめかしいものだった
ほど好く魅惑的で
ほど好く現実味があった咲子さんの存在が
突然何か別なものに変わった
ふいに人垣が割れてその瞬間を縫うように
僕と咲子さんは
阪急の大理石造りのエントランスへ滑り込んだ
風除室は
店内の冷気とムッとする外気が溶け合っていた
これから外へ出るのであろう人達の
うんざりした顔が並んでいた
そこから急いで店内へ
冷蔵庫の中みたいにひんやりした空気に取り囲まれると
それまでの蒸し暑さが
幻覚か何かのように思えた
あっという間に冷たくなった汗が
肌にまとわりつく
「うわー涼しいわー」
「ほんとに」
すたすたと人を避けて歩く咲子さんのあとを
僕は追いかける
どこへ行くのかな‥
「ここや」
化粧品売り場
「えーと、ほらこれや」
「はい」
「リバージュ」
そう言ってシュッと
僕の耳元にスプレーした
「どや?」
どや?ってそんな‥
「はあ」
「ほな、これやったらどう?」
咲子さんは自分の左手を出し…
なに?その傷‥
手首にスプレーをかけた
シュッ
「貸して」
僕の右手をとり
なんの傷なの‥それ‥
スプレーした左の手首を僕の手首に重ね合わせた
「どう?匂てみー」
僕は手首の匂いを嗅いだ
クンクン…
「あ!」
「なあー?どう?」
「匂いが移ったやろ?」
「はい」
「ゆーとくけど、これは“移り香”とは言わへんで」
「ウツリガ?」
「せや、移り香、男の人となー女がな、シタあと匂いが移んねんやんか」
「シタ…て…」
「そゆのんない?」
「シタこと?」
「シタことないのん?」
「いや、あの、ありますよ」
「匂い移らへん?」
「いや、あんまし移ったことは…ない…かと…」
「そうなん?へえー」
そゆ話しはちょっと‥
「眉つばじゃないですか、それ」
「マヨつば?」
「いやマヨネーズじゃなくって、怪しい話しってことです」
「へえー、物知りやね」
「そんなことないですけど、良い匂いです」
「あのなコーちゃんには、これがええ思うねん」
また僕の手をとって
シュッ
クンクン…
「この匂いの似合う人がいてたらええなー思ててん、どう?」
咲子さんも
クンクン…
「よくわかりません」
「いやあーやっぱ合うてるって!これ買いなー」
「いやいいです」
「買うたげよか?」
「いやいや、ホントいいです!」
「そうかー」
「なんて言うんです、これ?」
「アラミスゆーねん、動物性、付け過ぎたらあかんねんよ」
「動物性とか植物性とかあるんですか」
「せや、柑橘系とかな」
バターとマーガリンみたいだ‥
「なー、まだ時間大丈夫なん?」
「大丈夫です」
「ビール飲もか?」
「未成年ですよ」
「煙草かて吸うてるやん」
「そうですね、でも何処で?」
「ビアガーデン」
「いいですね、行ったことないから」
「ほな決まりなー、行こ」
5分後
僕達は阪急の屋上にいた
枝豆とあたりめ
フレンチフライ
唐揚げを注文して
中ジョッキで乾杯〜♪
「なんで広島から来たん?」
イカを噛みながら咲子さんが聞いてきた
「家の都合です」
「ふーん、大学行かへんのん?」
「一応行きたいですけど」
「頭ええねんなー」
「いや、バカです、今年は追試受けたんです」
「うちなんか中卒やで」
「やめたんですか」
「中3ん時グレてもて、高1で退学やわー」
「ワルだったんですか」
「ワルいワルい、めちゃめちゃやったわー」
「そんなに?」
「シャブもやったし、レイプもされたし」
シャブにレイプ?
「あ、ゴメンな、今の忘れて」
忘れます!
「もう21やしな、いつまでもやってたらアホやわ」
「そういうもんですか」
「今もたまに走り行ったり、ディスコ行ったりするけど、前みたいに無茶はせえへんわな」
咲子さんはグビリと
ビールを飲んだ
「結婚してるんですよね」
「そうやー、あかん?」
「あかんことはないですけど」
「もうすぐ1年やわ」
「やっぱり結婚て幸せですか」
「幸せ?ぜーんぜん!」
グビリ…
「最初の2、3ケ月までやわー、あとは釣った魚にエサはいらんゆーわけよ」
「そうなんですか」
「そんなもんやて」
「でも仲いいんでしょ」
グビリ…
苦い‥
コークハイにしてもらおかな‥
「喧嘩ばっかりやわ」
グビリ…
「それは仲のいい証拠ですよ」
グビリ…
「せやろか」
グビリ…
グビリ
グビリ
グビリ…
普通に酔うな、こりゃ‥
「あのー、ちょっと聞きたいんですけど」
「何ー?」
「僕も匂いしますよね」
「生きてたら誰かてするでしょうねー」
「いや、やっぱりいいです」
「なんやのん、言いかけて気持ち悪いやんかー、早よ言いなあー」
「そうですか」
「せやわ」
「あのー、僕“乳臭い”ですか?」
「若い、てゆーこと?」
「そうじゃなくて、ホントにそういう匂いがするのかなって」
グビリ…
「こっち来てごらん」
「はい」
クンクン…
「やっぱ乳臭いですか?」
「そんなことあらへん、汗の匂いと煙草の匂いがちょっと、それとー」
「それと?」
「少しやけど、うちと似た匂い…」
え?クンクン…
「なんで?誰かに言われたん?」
「あ、いや、別に」
「言われたんでしょう?エエ人に?」
「いやホント違います」
(なぜ否定した‥)
「ほな、なんで聞いたん?」
「それはあの…」
(なぜ僕は否定したんだろ‥)
「コーちゃん彼女いてるんやろー?」
「彼女?彼女っていうかー、なんて言うか」
(彼女じゃないのか?)
「彼女ちゃうのん?」
「一応彼女、のような」
(ハッキリしろハッキリ‥)
「付き合うてるけど、うまく行ってへんとか?」
「そんな感じですかね」
(嫌われちゃうぞ‥誰に?)
「どっちやのん?」
「あの、そのちょっと友達が邪魔してて」
(嫌われる?いったい誰に‥)
「あー!三角関係なー、うっとしなあー」
「そうなんです」
(いつから三角関係なんだ?)
「ホンマはコーちゃんの彼女ねんやろ?」
「誰の、というわけじゃ…」
(嘘つき‥)
「でもコーちゃんやったら大丈夫やわ」
「そうかなー」
一瞬脳裏に広美の顔がよぎって……
「真面目やし、優しいし」
「そうでもないですよ」
また通り過ぎてゆく……
「うちなあ、コーちゃんみたいな人と巡り会いたかったわ」
「今、会ってるじゃないですか」
アレ?僕は何を言いたいんだ‥
「なんかなー、コーちゃん見てっと、他人とは思えへんねやんか、これって変やろ?」
「他人じゃない?」
貴方と僕は‥
「弟ゆーたら、いいんかなあー、あかんわ、ちょっと酔うたみたい」
「弟いるんですか」
どこか似ている‥
「いいひんよー、でもうちなー前から弟、欲しかってん」
「どうして?」
僕は弟でも‥
「なんでかわからへんけど、コーちゃんみたいに綺麗な顔立ちした弟がおったらええなーって、ずっと思てたんや」
「弟で構わないですよ」
それで十分‥
「おおきに、ありがとう」
咲子さんは目をとろんとさせて頬杖をつき
優しく微笑んだ
「あのー、さっきのアレ、何ですか?」
「何のことー?」
貴方を傷つける者‥
「手首の傷です」
「うん?手首がどうしたん?」
それは誰なの‥
「傷です、その」
「あーこれ?フフ…若気の至り」
傷つけたのが誰であろうと‥
「死ぬ気だったんですか」
「どやろか?忘れたわー」
僕は許さない‥
背の高いウェイターが来て僕と咲子さんのジョッキを荒々しく下げて行った
「なんやのんッ!」
咲子さんの口調が変わった
「感じ悪いなー!しばくどカスがー!」
マズイ‥退散しよ
「咲子さん、帰りましょ」
「いま何時い〜〜」
「もう9時ですよ」
「ちょっと〜待っててえ〜〜」
「咲子さん、ねえー!」
「弟くん〜」
「はい」
「うちのこと、変な目えで見てたでしょ?」
「見てないですよー」
こりゃタチ悪いぞ‥
「嘘やん、絶対見てたって、男はみーんな嘘ばっかしや」
「お酒弱いんですか」
「ま〜だ早いい〜〜」
「咲子さんって!」
「なんやのん!帰ったらええやないの!」
うわあー最悪だ‥
それから小一時間
僕は咲子さんを懸命になだめすかしながら
なんとかタクシーに乗り込んだ
咲子さんは酔ってタクシーの運転手に
“アバ”をかけてとしつこくせがんだ
そのうち
静かになったなと思うと
いつの間にか僕の肩に頭を載せて
寝入ってしまっていた
僕の方は逆に感覚が研ぎ澄まされていた
僕は
咲子さんの頭に頬を載せ
彼女の髪の匂いを嗅いだ
そうすることが
ごく自然に思えたからだ
寝息を立てて
僕に身を預ける咲子さんに腕を回して
僕は楽な姿勢をとった
タクシーは
見知らぬ街をひた走っている
窓の外を行き過ぎる明かりが
チラチラと咲子さんの横顔を照らしていた
僕は無性に彼女に優しくしたくなり
彼女の手をとった
傷を捜した
涙がこぼれそうになり
彼女の髪に顔を埋めた
そして髪を口に含んだ
気がつくと何度も何度もそうやって
僕は彼女の髪を甘噛みしていた
彼女の手や指の形を
確かめながら
ルームミラーを時折覗く運転手の視線も
いつの間にか気にならなくなっていた
咲子さんが
どういう人間なのかわからないけど
僕には店では明るく活発だった咲子さんの
昏さを覗き見たような気がした
彼女はとても
背伸びしているようにも見えたし
それは小さな事にもすぐ気が付いて
他の誰かの手を煩わせまいと必死なようにも思えた
咲子さんの言葉を
そのまま信じるなら
咲子さんも僕を一目見て
同じように感じたのだと思う
まったく予期しなかった不破野咲子との出会いに
僕の心は木の葉のように揺れ動いた
自分にとって
理想的な恋人像というものがあるとすれば
それが咲子さんであった
決して芽生えてはいけない想いだった
“咲く”という名前に
ぴったりのひと
でも彼女は
永遠に咲くことはできない
何故だか僕は
そんな風に空想し
ひどく悲しくなった
すぐ傍らで
安らかな寝息を立てる人よ
貴方のせいだ‥
貴方のせい‥
生意気なオンナ‥
咲子さんのアパートの近くで彼女を降ろし
僕は自分の家のうろ覚えの住所を運転手に告げた
リアウィンドから
こちらに手を振る咲子さんが見えた
意外としっかり立っていたので
僕は安心した
咲子さん
おやすみなさい‥
家に帰ったらとっくに11時を回っていて
僕は親父に叱られた
親父に怒られるなんてこと高校に入ってからずっとなかったので
僕は面食らった
母も起きていて
「どないしたんや?心配するやないの」
と僕をたしなめた
「飲んで来たんかいな」
「うん、バイト先の人達と」
「連絡入れんとあかんえ“あの人”心配性やし、わかってる思うけど?」
「電話番号忘れちゃって」
「忘れたんかいな、しゃあないなー、どっかに書いて持っとかな」
「そだね、ごめんなさい」
「もうええがな、それとな広島から電話あったえ、久坂さんやったか“あの人”が出て話しとったさかい明日でも聞いてみよし」
「わかった」
「ごはんは?」
「あ、いいや」
「お風呂沸いてるしな、汗かいたやろな」
「さっと入るよ、ありがと」
「ほな先寝るで」
「うん、おやすみ」
すると母が近づいて来て
そっと耳打ちした
「煙草の匂いと、香水の匂いがしてるで、気イーつけや」
いたずらっぽく微笑む母に僕はもう1度礼を言った
あっという間に風呂を終わらせた
カラスの行水というやつだ
部屋に戻り
ヘッドホンをつけ
“宇宙のファンタジー”をかけた
最近特に気に入っている
ふいにドンと背中を叩かれ
僕は驚いてヘッドホンを外した
「なんだよ!びっくりするだろ!」
妹だった
「斉藤さんから電話あったよ」
「いつ?」
僕はステレオのスイッチを切った
「8時過ぎと、9時くらい2回」
「なんて?」
「デートしてるって言っといた」
「ふざけんな、なんか言ってたか」
「言うわけないでしょ、またかけますって」
「ふーん」
「かけないの?」
「こんな時間にかけらんないよ、常識だ」
「常識ね」
「ほんだけ?」
「それだけ」
「じゃおやすみ!」
「おやすみー」
なんなんだアイツは‥
電気を消して
布団に転がり
扇風機を回した
なかなか寝付かれず
部屋のカーテンを開けた
窓から入った月の明かりが
壁に張ってあった古い映画
“ペーパームーン”の
ポスターを照らし出した
今日僕は
たくさんの嘘をついた
そのうちの幾つかは
他愛もない嘘だったけれど残りの幾つかには
明白な偽りがあった
小さな嘘でもつけば
また新しい次の嘘を生む
嘘が重なれば
どれが本当の自分だか
見分けがつかなくなる
本当の自分は
1人とは限らないからだ
奇跡が起これば
いつか誤解は解け
真実の愛に辿り着けるだろう
奇跡が起これば、の話しだ
実の親子と偽って
聖書を売り歩くケチな詐欺師の男と
ちっちゃな女の子
映画の中では
本当の親子が他人を“演じて”いた
僕は誰を“演じて”いるのだろう
これもまた
偽りかも知れない‥
疲れているのに
寝苦しい夜だった
思い出せない
嫌な夢を見た
断片的で
前後の意味が
繋がらなかった
だのに僕は
それが夢だとは判らず
何かにとても怯えているのだった
何かは
すぐそこに迫っていて
僕は逃げることも出来ず
かといって
覚悟も決めかねていた
だがそれは
必ずやって来る
そんな気がしてならなかった
朝起きても
嫌な感じだけが残った
僕は親父から
簡単な経緯だけを聞いて
朝食もそこそこにバイトへ出かけた
咲子さんは
出勤時間になっても現れず僕をやきもきさせた
食パンを切っても
レモンスライスを切っても厚みがバラバラになってしまい
吾妻さんから
「まだまだやなあー」
と嫌味を言われる始末
開店前の準備が1通り済むと
飛島さんが待ってましたと言わんばかりに口火を切った
「なあスギいー、昨日どこ行ってん?」
「どこって?」と僕
「吾妻さん、こいつ昨日不破野さんと一緒に帰ったんでっせえ〜」
「ええやないの、別にイ」
と真由美さん
「ええことあるかーい、不破野さん、来いひんやないかい」
どしたんだろ‥
「いつものことやんけ」
吾妻さんが
面倒臭さそうに答えた
「そもそも飛島、お前には関係あらへんやろ」
「そうよ、そうよ、咲子さんは遅刻しても穴空けたことないしなー、あんたみたいに〜」
「真由美ハン、それはもう時効でっせえー」
「何が時効や、先月の話しやないか、何が風疹じゃ、笑わすな」
「ホンマですやん!ホンマ風疹でしたやん!かなんなーこの人らは」
「アホ、俺は40℃あっても出て来てたぞ」
「吾妻さんが普通ちゃうねん、病院行きなはれ!」
「あ、お客さんや!」
「もうええ?」
舞妓さん達だ
今日はやけに早い
「どうぞ〜」
夕絹さん
1番よく喋り
1番華のある人
1日に3〜4回来る
顔立ちもとても可愛い
一説では吾妻さんに惚れている?
志織さんと琴乃さん
多分1番下っ端
夕絹の子分的な存在
可愛いけど幼い
カウンターに座ったことはない
カウンターに座るのは
ある意味ステータスなのだった
見つからずに喫煙できるという実用面の利点もある
店内は1部ガラス張りになっていて
通りを歩く人の姿が
カウンターにいる僕達には一目瞭然なのだ
で教えてあげるというわけ
カウンターにいれば
灰皿ごと僕達が即座に隠してあげられる
舞妓さん達は
喫煙はご法度なのだ
千世子さん
通称おチヨさん
もうじき芸姑
そのせいか近頃少しナーバスだ
今日はいないが他に
春絵さんを忘れてはならない
孤高の美人だ
いつも一人でカウンターに座り
飲み物しか頼んだことがない
すごく影のある人で
口数も少なく笑う事も少なかった
飛島さんによると
吾妻さんと付き合ってた時期があるらしい
真偽のほどは謎だ
私服の時は長い髪をほどき
シックなワンピースを着て必ず大きなサングラスをかけていた
夕絹さんはわざとらしく
店内をキョロキョロと見回し
「お母さん、おらへんよね?」
と確かめておいて
カウンターに腰掛けると
すかさず煙草に火をつけた
おチヨさんもカウンターへ
“お母さん”とは
置屋やお茶屋の女将さんのことだ
“お姉さん”と言えば先輩のことになる
“お母さん”の前では
絶対に煙草は吸えない
吾妻さんは夕絹さんが
欝陶しいらしく
いつも邪険に扱うのだが
夕絹さんは意に介さずだ
ミックスジュースのミルク多めとか
バナナ少なめとか
ハンバーグサンドのピクルス抜きとか
ややこしい注文をしてあっけらかんとしていた
「何しよかなー」
「トーストがお勧めでっせ」
吾妻さんがからかった
「トースト!せや!フレンチトースト作ってえー」
出た
メニューにないじゃないか‥
吾妻さんは飛島さんに
「あい、フレンチトースト1丁〜よろしく〜」
と言い捨て
「プリンの仕込みやってくっさかい」
と奥へ下がってしまった
「えーと〜」
飛島さんが卵を捜し始める
それでも夕絹さんは失望する風でもなく
「できたら一緒にアイスミルク、ガムシロ別にしてなー」
とはしゃいだ
それにしても咲子さん
遅いなあ‥
「スギくん!」と夕絹さん
「はい!」
「今度な、ファンクラブ作ったさかい、記念に踊り行かへーん?」
「ファンクラブ?」
「そやー、もっと嬉しそうにしてえな〜!」
「あ、はあ…」
「モテモテやんけー、おもろないわ、夕絹さん、俺のファンクラブは?」
「せやなー、フレンチトーストが美味しかったら考えたげるわ」
「よっしゃあー!」
その時
咲子さんがエプロンをつけて
入って来た
「おはようございます」
咲子さんは実は
舞妓があまり好きじゃない
「夕絹さん、いらっしゃい」
「きゃあー!咲子さーん!」
夕絹さんが嬉しそうに手を振る
「久しぶりやね」
とおチヨさん
「ホンマですねー」
「あのね、咲ちゃん、スギくんのファンクラブ作ってん、それで踊り行こかーゆーて今話してたとこなんえー」
「ホンマにー!良かったやん“コーちゃん!”ディスコ行ったことないゆーてたもんなあ?」
「ああーでも…」
「“コーちゃん”水、出しっぱなしやで」
「あ、はい…」
「スギくん、コーちゃんてゆーのん?ウチらもそう呼んでええ?」
「あの…別に」
「ええよー、この子、その方が嬉しそーやし」
うう‥
「なんかゆーた?」
「さあ仕事しよっかなー」
真由美さんが立ち上がりレジに屈み込んだ
有線を入れたらしく
ちょうどボニーMの
“怪僧ラスプーチン”のイントロが始まった
「やあーこれや!これエー!」
奇声をあげた和服の夕絹さんが
上半身だけで踊り始める
「もっと音、大きいしてえ〜」
「昨日はどうもでした」
僕は咲子さんに話しかけた
「あー昨日?あ昨日ね、ゴメンなあーこっちこそ、酔うてしもて何も覚えてへんねん」
「覚えてないんですか」
「せや、何も」
「嘘でしょう?」
「嘘ちゃうて、うちたまに記憶がなくなんねんやんか」
「ぜんぜん?」
「全然」
「どの辺まで覚えてますか」
「せやなー、最初の1杯?」
「本当に?」
「ホンマやて」
有り得ない‥
「恥ずかしいけどな、うちなー“キス魔”やねん、昨日大丈夫やった?」
嘘だ‥
「うちに昨日、なんかしたあ?」
「してませんよ、何にも」
「ホンマに?」
「ホンマですよ」
「なんかおかしいなあー」
「おかしくないですよ」
「せやろか?」
「はい」
すると咲子さんは
コースターを1枚抜いて
ボールペンで裏に何か書き僕に寄越した
そこには“卑怯者”と書いてあった
“卑怯者”‥
「スギくーん!ちょっと」
夕絹さんが手招きで呼んだ
咲子さんはすっとカウンターから離れ
新規のオーダーを受けに行った
「はい」
「あのなー」
夕絹さんが声を落とす
「琴乃ちゃんがなー」
ヒソヒソ…
「はい?」
ヒソヒソ…
「スギくんのことなー、好きやねんて」
「え?」
「はい、お待ちどーさまー!」
咲子さんが
フレンチトーストをドスン!と置いた
ヒ‥ヒエーッ!
「きゃー、いただきまーす!あ、後でなスギくん」
ラスプーチンが終わり
グロリア・ゲイナーの
“恋のサバイバル”がかかった
「“コーちゃん”早よ仕事しなさいよー」
恋はサバイバル〜
「あ…琴…」
恋は生き残りゲーム〜
「“コーイチさん”はよしてくれる?」
恋は〜弱肉強食〜
「は、ハイッ!」
それからまた店は
混みまくった
咲子さんはそれから一言も喋ってくれず
さっさと先に帰ってしまった
夕絹さんは午後再び来て
「とにかく1回デートしてあげてな」
と僕の手を握った
真由美さんはニヤニヤし
吾妻さんは
「モテる男はツライなー」と欠伸をし
飛島さんは
フレンチトーストを練習していた
カウンターは
甘い香りで一杯になった
大文字送り火の日をピークに
僕は文字通り朝から晩まで働いた
まさに戦争だった
満席のラストオーダーで
トドメのようにサンドイッチの注文がドカンと入り
毎夜終電になった
最終日には社長から全員に大入りが出た
僕は一回だけ
琴乃さんとデートした
おっとりとしていて
物静かで
僕の冗談は全部ウケた
それでもついに話す事がなくなり
僕はレンタルルームへ連れ込んだ
行ってみようかと聞くと
ウンと言うので
興味津々で入ってみると
狭い個室に二人掛けのソファーとティッシュが一つ置いてあるだけ
いよいよ何もする事がなくなり
僕は得意のぎこちないキスをした
胸に触ろうとして嫌がられたので
気まずくなり
時間は余っていたけどすぐに出た
僕はなんだかすごく悪いことをした気がして
琴乃に謝った
「ごめんね」
「謝らんといて」
彼女は言った
15才の彼女が僕に気を遣ったのだ
僕は惨めな気持ちになった
「また会ってくれる?」
と聞くと
「うん」と頷いた
僕は会うのは
もうよそうと思った
ある日の帰り
僕が一人で木屋町をぶらついていると
春絵さんに呼び止められた
大きな茶のサングラスをかけて
まるで芸能人のような出で立ちだったので
すぐには彼女だと判らなかった
誘われるまま
先斗町にある老舗の喫茶店に入った
チャラチャラした若者には敷居の高い店だ
煙草のくゆらせ方から
カップの持ち方まで
僕は全力で大人ぶったが
春絵さんにかなうわけもなく
余計みっともないだけだった
同じ17とはとても思えない
間近で接する春絵さんは
どこと無く疲れていて
というより
溌剌としたものをとうに何処かに失くしてしまったかのようだった
とても落ち着いて見えるのだけど
心は栓をした空っぽの瓶みたいに
遠い外国の海の上をあてどなく漂っている
そんな感じだった
春絵さんは言った
「琴乃ちゃんと付き合うてくれてるんやて?」
小さな男の子を
母親が優しく諭すような口調だった
「うん、どうかな」
「あの子、すごく喜んでたから、おおきにありがとう」
「良い子だけど、僕では満足させてあげられないと思うよ」
春絵さんは少し驚いたようだった
「そんな事言わんと仲良うしてくれへん?」
「春絵さんとなら良かったんだけど?」
「冗談でもそないなこと言わんといて」
懇願するように彼女は言った
「可哀相やわ」
「僕では可哀相ってことだよ、たぶん」
「ほな別れてあげて、優しく」
凄いことを言う人だ‥
「春絵さんて、吾妻さんと付き合ってたの?」
「だいぶん前のことやね、私がこっちに来たばっかりの頃、寂しゅうて寂しゅうて毎日泣いてたんや」
「春絵さんが?」
「そう、おかしやろ?せやけど毎日辛うてなあ、そしたら“あの人”がな、俺とこで良かったら、来るか?って」
「それで行ったの?」
「うん行ったよ、部屋に一週間くらいおったかなー」
僕は何のためらいも見せず自分の過去
(それもほんの数年前の)
をよどみなく話す春絵さんを尊敬した
「信じられへんやろけど、吾妻さん、その間、私には指一本触れへんかったんや」
信じられない
あのスケベな吾妻さんが‥
「連れ戻されたの?」
「ううん、自分から帰ってん、迷惑かかる思て」
「迷惑って?」
「私、嫌われてると思たの、せやし出てくしかないでしょう?」
「それで?」
「それからずっとそのまんまや」
「そのまんまって?」
「お店で見てるでしょ、あんな感じよ、あれ以来あのことは一言も話したことあらへんえ」
「話したらいいのに」
「話しても何も変わらんでしょ?」
「そうかな」
「そうよ」
僕は温くなった珈琲を一息すすった
「そんな話し、恥ずかしくない?他人にするの」
「うーん、そやね、照れるとか恥じるとか、そういう感覚がなくなっちゃったのよ」
「僕と付き合わない?」
「嬉しいけど気持ちだけ戴いとくわ“コーちゃん”にはもっとイイ人がいてるわよ」
「さっきの誰かに話したことある?」
「こんなに喋ったんは初めて」
「どうして?」
「さあーなんでやろ、コーちゃんが優しそうやったからかな」
「優しくないよ」
「それが優しいねん、でもな、誰にでも優しいのはアカンことえ?」
僕は何も言えなくなった
最後の悪あがきで
テーブルの上の伝票を掴もうとしたが
間に合わなかった
「誘たんは私やから」
「ご馳走さまです」
「いいえ」
「琴乃ちゃんの事よろしゅう」
そう言って
春絵さんは祇園の人混みに紛れるように消えて行った
僕はなぜ吾妻さんが
やり甲斐もなく定職にも就かず
あの店に居続けるのか
何となく解った気がした
僕は社長と奥さんに
広島に戻るので
すいませんが、8月で辞めさせて下さいと申し出た
2人は残念そうに
「しゃあないわ、冬休みになったらまた来たらええ」
と言ってくれた
烏丸の店にも行き
事情を話して挨拶をした
マスターは
「何も教えてやれんかったなー」
と詫び
加奈ちゃんは
「帰る前にディスコ行こかー!」
と満面の笑みをつくった
1978年の夏休みは
僕にとってターニング・ポイントだった
物事を整理して考える余裕などなかった
深く考えたくなかったというのが
本当のところかも知れない
僕は見、聞き、感じ
あとは浮輪に捕まっていただけなのだ
流れるプールに浮かんでるみたいに
咲子さんは
故意に僕から遠ざかり
敢えて僕も追わなかった
「だって何も変わらないでしょ?」
春絵さんの言葉は
春絵さんが言ってこそだが不思議と共感できた
“変えてはいけないもの”が
世の中には存在するのだ
たぶん…
卑怯者のまま
消えるのは悔しかったけど心残りはなかった
もし僕に罪があるとするなら
(幾つかの罪状で)
僕を責める人達に
こう答えよう
“だって太陽が眩しかったから”と